第4話

 満足げな笑みを浮かべる己が理解できず、手で顔に触れる。口角は大きく上がり、むき出しの歯が指に当たる。

「どうして?」

 前方に視線を向ける。そこでは巌信が独鈷杵とっこしょを構えて立ち上がろうとしているところだった。鬼面の女は近寄ろうとするが、なにかに弾かれるかのようにふらついている。

「まだ、わからぬか?」

 厳しい声が飛ぶが、まるで理解できない。部屋を荒らされ、つきまとってくる亡霊を見て喜ぶ理由なんて……。

「この者を見て、本当にそう思うのか?」

 亡霊は今や部屋の隅にまで押されている。そこに立っているだけで、これまでのような危険な雰囲気は感じられない。

 鬼面越しに、こちらをじっと見ている姿からは、むしろ慈愛すら感じられる。長い黒髪。白い着物。その襟は左側が前になっている。死装束。

「拙僧は、この霊を初めて見たが、すぐに分かった。この女子おなごであろう」

 巌信が写真立てを手に取る。遊園地の写真。目元がぱっちりとした、長い髪の女性。ライトブルーのコートはボタンが外されていて、その間からは可愛らしいハートのネックレスが覗いている。

「男が首飾りとは珍しいので、印象に残っておった。今も主はつけておるが、元はこの女子おなごのものであろう。それを主がつけておるからには、深い関係があったはず。嘉穂、といったか。単なる幼なじみではなかったのではないか?」

「ええ、そうです。恋人でした。一年前、白血病で亡くなりましたがね。ネックレスも、ぬいぐるみも、彼女の形見です」

 嘉穂と一緒に行った最後の旅行が写真の遊園地だった。あの頃は幸せだった。だが、一月ほど経ってから「身体がだるい」と不調を訴え、病院に行ったところ白血病であることが分かった。年齢が若かったため、進行も早く病魔はみるみるうちに嘉穂を蝕んでいった。抗がん剤治療が始まってからは、食欲が落ちて体重が減り、口や鼻から何度も出血していた。身体に痛みを訴えることもあった。

 当時の僕は、病院から出られなくなった恋人のために、毎日病院に通った。仕事終わりでも、欠かすことはなかった。

 嘉穂が退屈しないように、未来に希望を持てるように。面白い話を集めて聞かせたり、退院したらやりたいことなどを話し合った。立ち上がるのが難しくなれば、車椅子を押して散歩に出た。

 それでも、辛かった。どれだけ励ましても、世話をしても。嘉穂の苦しみは決して休まらず、日増しに悪化してゆく。

「恋人のために、尽くせるというのは立派なことだ。結果として報われずとも、誇って良いことと思うぞ」

 慰めの言葉に、僕の気分は暗澹としたものに塗り込められる。

「そうじゃ、ないんです。俺は尽くしていなかった。尽くすべきだったのに」

 頭を抱える。いっそこの手で頭を握りつぶしてしまいたいほど、強く。

 自由な時間を全て嘉穂のために使い、それでも甲斐なく弱っていく姿を見るだけ。それは当時の僕を疲弊させていった。日々苦しんでいる嘉穂には伝えられない。蓄積していった重荷を支えてくれたのが、美代だった。

「あいつも嘉穂のお見舞いによく来てくれて。『大変だね』って、僕の愚痴も聞いてくれたんです」

 美代の慰めだけが、心を軽くしてくれた。お見舞いの後に語り合う時間が、僕を癒やしてくれた。

 そして、一度だけ二人はを犯してしまった。

「嘉穂が知ってたはずはないんです。俺は言わなかったし、もちろん、美代だってそんな話しなかったはずです。

 でも、ずっと後ろめたくて……」

 嘉穂には聡い一面があった。何気ない挙動で、隠し事に気付いたかも知れない。その上で何も言わなかったのかも知れない。嘉穂は、そういう女性だった。

 嘉穂が亡くなって、二ヶ月後。美代と本格的に恋人関係になった。それでも、僕は嘉穂のことを忘れられなかった。むしろ、美代との関係が進展するにつれて、その後悔は大きくなった。

「僕たちは、嘉穂を絶望させていたかも知れない。病気であっさり死んだのも、それが原因だったんじゃないか。僕たちは、幸せになって良いのかなって――」

「なるほど」

 巌信は神妙な表情で頷く。

「嘉穂という女性がどんな思いでいたか、拙僧には分からぬ。ただ、此度の出来事はお主の悔悟の念が原因。

 お主は、心の底で自分たちを罰してもらいたいと願っていたのだ。だから、この霊はお主や恋人を攻撃した。除霊しようとする拙僧の邪魔もした」

 部屋の隅には、鬼の面をつけた嘉穂が立っている。ぎょろりと見開かれた眼の奥には、鉄也達へのどんな恨みが籠もっているのだろう。

 巌信が布を引き直し、散らばった法具を並べる。

「事の子細、明らかになった。改めて、浄霊を行おう」

「いいんでしょうか。僕たちが幸せになって」

 嘉穂を不幸に突き落として、幸せになる権利はあるのか。それは彼女への裏切りではないか。

「拙僧は主を救おうと考えているのではない」

「え」

「拙僧が救いたいのは、この世に留まる亡者よ」

 巌信が袈裟の裾を直す。

「仏教の道も様々。これはあくまでも拙僧の解釈に過ぎぬが、聞いてくれ。

 仏教というのは、今生で煩悩に苦しむ衆生しゅじょうに悟りへの道を示すもの。そして、悟りを開いた者の行き着く先が極楽浄土。

 そのためには、この世に縛られていてはたどり着けぬ。拙僧が行いたいのは、この世に留まる亡者を供養し、極楽浄土へと導いてくださるよう仏に願うこと。

 此度で言えば、拙僧が救いたいのは嘉穂殿だな」

 巌信が手招きすると、それまで立ちずくめだった嘉穂が静かに正座する。

「生前の嘉穂殿は、このような人だったのかな。怒りに表情を変貌させ、周囲に当たり散らすような人だったのかな」

「そんなことはありません。いつも穏やかで、優しくて。他人の悪口なんか絶対に言わない。当たり散らすなんて――」

 そこまで言いかけて、はっと気付く。自分の罪の意識ばかり気にかけて、こんなに簡単なことが見えていなかった。嘉穂は、死んだ後に他人を呪うような人間ではない。

 嘉穂が面を外す。その表情は穏やかで、微笑んですらいた。

「嘉穂、ごめん」

 そっと白い手が伸ばされる。柔らかな感情が流れ込んでくる。励ますように、暖かい。

「裏切ってしまって、ごめん。信じてあげられなくて、ごめん。こんな風に縛り付けてしまって、ごめん」

 罪に怯えた僕は、嘉穂の在り方を歪めて、この世に縛り付けていた。それは嘉穂自身が最も苦しかっただろう。なんて恥ずかしい。胸から血が流れ出すような思いで頭を下げた。

 嘉穂は無言で下唇を噛む。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。こんな顔は見たくない、本当に。やるせない。僕らは黙って抱き合った。

 言葉はいらない。これだけで気持ちは伝わる。

「では、送り出すとしよう」

 巌信の言葉に頷く。木魚の音と共に、経が唱えられる。僕と嘉穂は並んで手を合わせる。

自我得仏来じがとくぶつらい 所経諸劫数しょきょうしょこうしゅ 無量百千万むりょうひゃくせんまん 億載阿僧祇おくさいあそうぎ 常説法教化じょうせっぽうきょうけ

 無数億衆生むすうおくしゅじょう 令入於仏道りょうにゅうおうぶつどう 爾来無量劫にらいむりょうこう 為渡衆生故いどしゅじょうこ 方便現涅槃ほうべんげんねはん ……」

 経が進むにつれて、ゆっくりと嘉穂の身体が透けてゆく。幼い頃から、共に笑い合ってきた女性。その最期。片時も見逃すまいと、涙を拭ってその姿を見つめ続ける。

 身体が消え、頭も向こう側が透けて見える。嘉穂が唇を動かした。

 さようなら。

 そして、嘉穂はこの世から旅立った。

 きっと、極楽に行っただろう。そう信じる。

「ありがとうございました」

 巌信に向かって、深々と頭を下げる。彼がいなければ、僕は周囲を巻き込んで様々な者を傷つけ続けていただろう。全て彼のおかげだ。

 せめてものお礼を渡そうとしたが、彼はキッパリと拒絶した。

うたであろう。これは本来坊主のやること。それで礼を受け取っていては、悟りは開けんよ」

 そして、巌信は去って行った。

 残された僕は、切りっぱなしになっていたスマホの電源を入れる。着信履歴が十件。どれも美代からだ。こちらからかけ直すとワンコールで繋がった。

「もしもし、鉄也くん? 大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 背景で人混みのざわめき。アナウンスから駅だと分かった。電話ではらちがあかないと思ったのか、家に乗り込んでくる気のようだ。

「よかった。話があるんだ」

 できるだけ穏やかに切り出したつもりだが、返事はなかった。

「切るね」

 彼女にはありのままに話すつもりだ。起こしてしまったこと、その理由。

 改めて部屋を見渡す。ぬいぐるみにネックレス。これらは嘉穂の形見ではあるが、彼女との思い出はこれだけじゃない。写真も飾られているし、家具だって引っ越し前に二人で選んだもの。

 亡くなって一年が経っても、嘉穂の気配が色濃く残っている。今になってそれが歪であることが自覚できた。美代はこの中で恋人として振舞ってくれていた。

 それはどれほど辛いことだっただろうか。胸が締め付けられる。

 一方で、嘉穂との時間は僕の魂に結びついて決して離れることはないだろう。それは成仏を見届けても変わらない。

 美代と話し合わなければいけない。愛想を尽かされるかもしれないが、目を背け続けていた物から逃げるのは止めにする。

 窓を開けると、背中を押すように爽やかな風が入ってきた。

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鬼面の女 黒中光 @lightinblack

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