第11話

「ねえ、涼子先生。ここ教えてよ」


「どこ? うん。えっとここはね――」


 悠人を加えた居残り勉強が始まった。目の前で、悠人が涼ちゃんの二の腕を掴んでいる。心なしか、その指先が涼ちゃんの胸に当たっているように見える。涼ちゃんは気にしていないようだ。


「あっ! そういうことね、先生ありがとう! これで解けるよ」


「分かって良かった。悠人君は自分が思ってるより頭悪くないよ。絶対成績良くなるから一緒に頑張ろうね」


 話し合っている時を見計らって、悠人の指先が涼ちゃんの胸を擦った気がした。僕はそんな光景を見せつけられ、悶々としていた。嫉妬と羨望。


 僕も涼ちゃんの腕に触りかったし、その柔らかそうな胸にだって……。大体涼ちゃんはどうしてそれらの行為を注意しないのか。悠人が何を企んでいるかどうかという話の前に、生徒と先生という間柄ではないか。そんなことを許してはいけないだろう。


 僕は涼ちゃんに対する怒りを覚え始めていた。


「淳史君はどう。どこか分からない所ある?」


 僕は涼ちゃんを少し睨んで、すぐに視線を逸らす。


「……別に。僕は大丈夫だから悠人の方を見てあげたら」


「そう……、分かった」


 僕は問題に集中しようとした。


「あっ、じゃあさ。先生、ここは」


 悠人がまた涼ちゃんに質問する。悠人の手は二の腕から離れ、今度は涼ちゃんの太腿に向かう。ふうー、と気付かれないように息を吐く。頭の内側から誰かがハンマーを叩き付けている。


 放っておけ。放っておけ。勉強に集中するんだ。


 えっと、「多分」だから、プロバブリイだ。プロバブリイの綴りは。


 p・r。


「うわっ、本当だ! やっぱり先生教え方上手いね」


「本当っ!? ありがとう~」


 o・b。


「えっ、先生ってさ彼氏居るの。俺さ、前から言いたかったんだけど、超タイプなんだよね」


「ええ~、そんなこと言うかなあ? 困っちゃうな。悠人君イケメンだしモテるでしょ」


 a・b。


「まあね。でも中学生にモテたって意味無いよ。ガキ臭いしさ。もう物足りないんだよね。

 だからさ、俺は先生みたいな大人の女が良いんだ。先生優しいし、包容力あるし、色々教えてよ」


「もうっ、皆にそういうこと言ってるんでしょ。まあ徐々に徐々にこれからね。悠人君が勉強頑張ったらね?」


 l・y。


「あっ! 絶対だよ? 今約束したからね。俺忘れないからね」


「ふふふふ。はいはい、分かりました。じゃあ次この問題解いてみて?」


「分かった!」


 バンっ! と大きな音が出た。


 僕は、思い切り問題集を机に叩き付けていた。 


「あっ、淳史君。どうしたの」


 涼ちゃんの瞳が揺れている。僕は立ち上がっていた。


「どうしたんだ、淳史ぃ?」


 悠人の声は楽しんでいる。


「……トイレ」


 僕は2人の方を見ずに教室から出て行く。悠人がほくそ笑んでいるのは顔を見なくても分かる。


「あっ。で先生、ここは?」


 また悠人の弾んだ声が聞こえてくる。間違いなくアイツは、わざと聞こえるようにしている。


「えっとここはね……」


 涼ちゃんが返す。


 僕は、涼ちゃんの声が好きだった。ちょっと高くて、儚げで、女性らしさのある声。その声が聞こえるとすぐに耳が感知して、涼ちゃんが居ると分かってドキドキした。


 でも今は違う。その声を聞く度にイライラして、まとわりついてしまう。何かの呪文みたいだった。それは、母さんのあの言葉みたいに。


《人にやられて嫌なことはしちゃ駄目》――――。


 僕はかぶりを振って邪念を振り払おうとする。小便器の前に立ち、トイレで用を足す。


 僕の怒りと連動するように、物凄い勢いで噴出させた。尿と共に怒りが出て行ってくれれば良かった。


 教室には戻りたくなかった。戻ればまたあの呪文の声に捉われることになる。悠人の僕が苛々するのを楽しむ声と、涼ちゃんの神経を逆撫でする男に媚びる声。


 先程の会話を思い出しただけでも怒りが湧いてくる。


「まあね。でも中学生にモテたって意味無いよ。ガキ臭いしさ。もう物足りないんだよね。

 だからさ、俺は先生みたいな大人の女が良いんだ。先生優しいし、包容力あるし、色々教えてよ」

「もうっ、皆にそういうこと言ってるんでしょ。まあ徐々に徐々にこれからね。悠人君が勉強頑張ったらね?」――。


トイレの鏡には犯罪者の顔が映っていた。この鏡を粉々に出来ればどれだけスッキリするだろうか。


 ただそんなことは出来ず、僕はトイレから出て行く。


 僕はこれからずっと、あのシチュエーションに居なければならないのか。3人のあのシチュエーションに。


 夏休みはまだ始まったばかりで、いや受験までと考えればあとどれくらいの時間になるのか。3か月……、いや半年になるか。それは考えただけで気が狂いそうだった。


 だが、どうすれば良いというのか。ここで僕が居残り勉強をしなくなれば悠人に涼ちゃんを独り占めされる。彼らは2人きりになって、もっと親密になって、それこそ「色んなこと」を教え合う関係になるかもしれない。それを想像しただけで発狂しそうになった。


 だからといって、あの中で半年も耐え続けられるだろうか。その間に僕はどれだけ怒り狂うことになるのか。


 これはどんな虐めよりも酷だった。殴られるより、土下座させられるより、踏み台にされるより、お金を盗られるよりもずっと。 


 僕はこの苦行を耐え凌がなければならないのか。どう足掻いても、行く末には地獄しか無いではないか。



 2週間が過ぎた。お盆が過ぎ、夏の終わりが漂い始めている。


 僕にはもう、この夏休みが続いて欲しいのかどうか分からなかった。夏休みは夏期講習なので涼ちゃんに会う回数は多い。が、それはあの地獄の空間の時間が続くということでもある。


 僕の精神は不安定になっていた。2人の仲睦まじいを見せられ、嫉妬して家に帰って、すぐに涼ちゃんに会いたくなって。でも行ってしまえば苛々して、すぐにでも家に帰りたくなって。


 僕の脳内は涼ちゃんと悠人のことで埋め尽くされていた。


 この2週間、塾のある日は僕はほぼ毎日怒っていた。その怒りは涼ちゃんに向かい、キツイ言葉を向けてしまったりしている。


「涼ちゃん先生でしょ。早く答えてよ」


「涼ちゃん、ごめんプリント落とした。拾って」


「涼ちゃん、それさあ。それじゃ生徒に伝わんないよ。もうちょっと教え方考えないと」


 その時涼ちゃんは困惑しながら微笑していた。


「あ、そうだよね。淳史君ごめんね――」


 悠人は僕達を見て笑っていた。


「まあまあ淳史。先生も頑張ってるんだからそう怒んなって。な?」


 悠人は、初め涼ちゃんのことを「先生」と呼んでいたけど、最近では「涼子」と呼ぶようになった。涼ちゃんは最初は注意していたものの、悠人が聞かないと分かると何も言わなくなった。最近ではこんな感じだ。


「涼子、ちょっとこっち来て。ここ教えて」


「ん~? ここ?」


「そう。これで合ってるよな?」


「……うん、合ってる。悠人君、英語上達したよね」


「まあな、俺頭悪くないし。それより涼子さ、約束忘れんなよ。今度のテストで俺が70点取ったら俺のこと悠人って呼べよ。絶対だからな?」


「はいはい。70点取ったらね~」

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