蛍舞う空、彼女想ふ

鷺島 馨

蛍舞う空、彼女想ふ

 彼女から『家に来て欲しい』というメッセージが届いて彼女の家を訪ねたその日の夜。連日猛暑で夜だというのにじっとしていれば汗が滲んでしまうくらいには気温が高い。


 五年ぶりに郷里に戻ってきた僕は高校時代によく訪れていた公園に足を運んだ。寂れた公園には街灯もなくて月明かりだけが足元を照らしてくれていた。

 ザク、ザクっと球石を踏み締める足音と葉擦れの音だけが夜の暗闇に響く。

 時折藪の中からガサっという音も聞こえてくるけど猫でも居るのか?


 公園のベンチに腰掛けて星空を眺めていると離れていくように二つの星が流れた。その星を眺めていた僕は気がつくと頬を濡らしていた。


 今回帰郷した事で高校時代の思い出が呼び起こされる事になった。


◇◆


 六年前の夏、僕は当時付き合っていたひとつ年下の彼女と約束をした。その思い出が呼び起こされた。


「ねぇ、ちゃんと将来の事考えてるの?」

「僕はキミと居れたらいいんだけど」

「もう、そうじゃなくてちゃんと考えて!」

「うっ、僕、なりたい職業とか無いし、とりあえず進学かなぁ」

「もうちょっとちゃんと考えておかないと困るよ!」

「あ、うん。考えてみる」

「ええ」


 こんな会話を交わした数日後。彼女に叱責された僕は彼女の夢に関われる仕事に就きたいと考えてそれを目指す事にしたと彼女に告げた。

 呆れた表情を浮かべた彼女だったけど優しく微笑んで僕の頭を撫でた。


 その彼女と最後に出かけたのがこの公園だった。

 彼女が『蛍を見てみたい』と口にした事から彼女の両親にお願いして彼女の姉が僕たちを送迎してくれるという条件で彼女の両親から了承を得た。


 初めて見る蛍に声を弾ませて喜んでいた彼女だったんだけど三十分しないうちに『疲れたぁ』と言って僕の隣に腰をおろした。

 一緒に夜空を見上げてポツリと呟いた彼女の言葉。


「あなたの夢が叶うまでは私たち会わないようにしたほうがいいと思う」

「なんで……」

「一緒に居たら勉強しないんだもん」

「…………」

「ほら、やっぱり。だからね……」

「…………わかった」

「でも、メッセージは続けさせて。ねっ」

「あ、ああ…… 僕、頑張るよ」

「うん。私も…… あ、蛍!」


 それから僕たちは蛍や流れ星を探したりしていた。


 短くクラクションが鳴って彼女のお姉さんが迎えに来たことを告げていた。

 帰りの車中で彼女は疲れたのかウトウトし始めた。彼女が眠ると車内にはお姉さんの趣味の音楽が流れていた。


「ありがとうございます」

「ううん。この子も楽しみにしていたし、この感じだとはしゃぎ過ぎちゃったみたいね」

「そうですかね。楽しんでくれたんなら良かったんですけど……」

「うん。楽しんだと思うよ。だから、ありがとね」

「はい」

「それじゃあ、おやすみ。ねっ!」

「おやすみなさい」


 ペコリと頭を下げた僕が見たフニャっと緩んだ表情を浮かべる彼女の姿。それから今日に至るまで僕は彼女の姿を見る事はなかった。


◇◆


 ザク、ザクっと軽い足音が僕に近寄ってくる。

 その気配に気が付いてはいたけど僕はそっちに視線を向ける事もできずに星空を見つめていた。


「やっぱり…… ここに居たんだね……」

「…………」

「ごめんね……」

「…………いえ、彼女が、望んだ事だったんですから…… 僕は、離れていても、彼女に、妹さんに、励まされていたんですね……」


 星も蛍の光も滲んでしまっている。僕は頬を伝う涙を止める事ができなかった。


「これ…… さっき渡せなかったから……」

「それは……」

「あの子、妹からあなたへの手紙」


 つらそうな表情を滲ませたお姉さんが差し出してきた白い封筒。その封筒には多分僕の名前が書かれている。それを受け取った僕は息が止まりそうだった。


「帰ってから、読ませてもらいます」

「…………うん」


 僕の隣に腰をおろしたお姉さんと並んで星を眺めている。あの日、彼女と並んで眺めた星空とは違うけどもう一度彼女と見たかった。


「あっ」


 僕とお姉さんの視線の先を流れていく星を追いかけるように蛍の光が空に昇っていった。


◇◆


 彼女からの封筒に書かれた僕の名前を見て僕は胸が締め付けられた。その文字は僕の記憶にある彼女の綺麗な文字ではなくて力が入らない状態で書いたようなそういった感じの文字だった。


 封筒を開けると便箋が一枚入っていた。

 その文字も封筒に書かれた僕の名前と同じような手に力の入らない文字で便箋の下の方が所々が滲んでいた。


 便箋に綴られた彼女の言葉。

 最初、自分の状態を僕に打ち明けずにいた事への謝罪。


『ごめんなさい。

 私が時々体調を崩すことがあったよね。

 ずっと良くなったり悪くなったりを繰り返していたんだけど悪い状態が続いているからこの手紙を残します。

 私が背中を押さないとあなたはまた立ち止まりそうだからお姉ちゃんに私の代わりにメッセージを送ってもらえるようにお願いしました。

 ほんとにごめんなさい。』


 もしかするとあの日、お姉さんの車の中で眠っていた彼女ははしゃいでいて疲れたんじゃなくて…… そう考えると本当に胸が締め付けられて苦しい。


『あなたに話した私の夢は叶えられそうにないです。

 でも、私の夢はあなたが叶えてくれると信じています。

 あなたは真剣に取り組んだらなんでもできると勝手に信じているんです。』


 その彼女の想いがあったから僕は志望した大学に合格できたんじゃないか。

 彼女と一緒に居た時、勉強や他の事もめんどくさがっている僕を叱責してきた彼女の表情が頭に浮かぶ。可愛らしい小さな顔、リスのように頬を膨らませたその表情も僕は嫌いじゃなかった。


 彼女の手紙にはあんな事をしたかった。こんな事をして欲しかった。なんていう彼女の想いが綴られていた。

 もうどうしてあげる事もできないと思うと堪らない程の無力感が襲ってきた。


『私の時間はもう直ぐ終わるみたいです。

 こんな事ならあなたに告白しなければよかったんじゃないかと思ってしまう事があります。

 そうすればあなたを苦しめる事もなかったんじゃないかと思ってしまいます。

 でも、あなたと出会えて、付き合えて嬉しかったのは本当の事です。

 こんな事になってごめんなさい。


 この手紙を読んだ後は燃やして私の事も忘れてください。

 どうか、この先あなたは幸せを掴んでください。


 私に幸せな時間をくれてありがとう。』


 彼女からの手紙が滲んでぼやけてしまう。

 その手紙を読み終えた僕はその手紙を持ってあの思い出の公園に向かっていた。深夜の田舎道ですれ違う人も居ない。その道を歩きながら彼女と二人で過ごした時間を思い出していた。


 ザクっという足音が周りの静寂に溶けていったところで僕は彼女の手紙を取り出して星空に翳して彼女に語りかける。


「キミが語ってくれた夢があったから僕はいまこうして居られるよ。僕ももう一度キミとこの星空を見たかった……」


 彼女の望み通りに火をつけた手紙は白い煙の筋を空に伸ばしていく。

 星空に向かっていく煙が彼女との想い出を連れていくような気持ちになって僕は涙を流していた。

 滲む視界にぼんやりとした光がそれを追いかけていった。


◇◆


 あの手紙を読んだ後から毎年、命日には彼女のお墓を訪ねて一年間に起きた事を報告していた。

 忘れて欲しいという彼女の言葉を僕は聞き届ける事ができなかった。

 彼女の夢。いまでは僕の仕事の事、つらい事や楽しかった事、そんな事を語りかけている僕の背後には彼女の姉が立っていた。


「私からも今日は報告したい事があるの。この人、いつまで経ってもあなたの事が忘れられないのよ。だからって訳じゃないけど、これからは私がこの人を支えていくわ」

「情けないけど僕はキミとの事を忘れる事ができないみたいだ。働き始めて彼女が居たこともあったけど…… 続かなくてさ……」

「ずっとあなたの事を忘れられないでいる姿を見ていたらそりゃあフラれるわよね。きっとあなたもずっと見守っているんでしょ? あなた、彼の事ほんとに好きだったもんね」


 その姉妹の会話に僕はどんな表情をすればいいのかわからない。けど、彼女に胸を張って告げる。


「僕はキミのお姉さんとこれからの人生を歩いていく。これから先も僕らを見守っていて欲しい」

「きっと…… きっと、あの子は私たちを見守ってくれてるよ……」


 僕はもうすぐ妻となる彼女の姉と手を繋いで彼女の墓前で微笑み合う。

 きっと彼女も今の僕たちを見れば微笑んでくれるんじゃないかな。


 僕と姉が愛したキミの前で僕たちは将来を見届けて欲しいと告げた。


◇◆


 その日の晩も僕はあの公園にやって来ていた。

 数年前に整備されたビオトープ。そこに沿うように整備された遊歩道に設置された灯りが二十一時になって消えた。

 灯りが消えて訪れた闇に目が慣れてくると夜空に浮かぶ星の煌めきが鮮やかに浮かび上がる。

 ふわっと舞う淡い光が僕の前を横切っていく。

 あの頃とは変わってしまった公園に蛍が帰ってきた。


 まるでそれが彼女が祝福してくれているように感じたのは僕が感傷的になってしまっていたからなのかそれはわからない。


 星空を仰ぎ見ていた僕の視線の先で蛍が二匹、舞うように飛んでいた。

 それを見た僕の頬を一筋の涙が伝っていた。


 何年かしたらキミに子供ができたなんて報告もできるのかなぁ……

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