第4話 茅野静流(外伝)(1)

「えーん、えーん。グスッ」

「こらこら、もう泣くな」

「だって…」

「君が泣いてると、僕も悲しいよ」

 まだ涙が溢れている。

「ほらっ…、おいで」

 抱き抱えられ、額と額を合わせて頭を撫でられる。安心感からなのかピタッと涙が止まった。真っ直ぐに見つめる目が嬉しそうに笑みを浮かべるから、釣られるように笑ってしまう。

「…ずっと側にいてやるから」

「本当?」

「ああ、約束だ」

 その言葉が心のなかに木霊した。


「基さ~ん、基さ~ん、いないの?」

 茅野静流かやのしずるは、家のなかを叫びながら、探し回っている。朝は日が昇ると自然と起き、夜は転がってしまうと寝てしまうといった感じで、静流は自然のままに動く。朝早くから、近くの公園に向かい、朝露のついた植物の写真を撮っていた。帰ってくると、ソファでそのままうたた寝してしまったので、鷹東基たかとうはじめの姿はなく、いつも通り彼を探して歩く。

 十八歳の時から、鷹東と一緒に住み始めて、もう五年になる。

 鷹東は、父親の茅野一命かやのいちめいの親友であり、静流のかけがえのないただ一人の大切な人である。元々、資産家の家系であり、不動産業を生業にして、更なる資産を増やし続けている。若い頃は一流レストランでシェフをしていたが、大きいレストランは自分には合わないと辞めてしまった。小さな喫茶店でのんびりとしようと思ったが、繁盛してしまい、自分で忙しくしてしまった。

『もっとゆっくりするつもりが…』

 それが彼の口癖だった。

「うーん、いない」

 いない時の対処として、まずはカレンダーと時計を見つめる。今日は水曜日で平日、今は十三時過ぎだから、お店にいる。

「………」

 その辺りにあるゴム紐で、長い黒髪を束ねた。ソファに置いていたショルダーバッグを掴み、棚に置いたカメラをまた手に取り、玄関を出て行く。鍵をかけ忘れる静流の為に、玄関は自動ロックされる。鍵を持ち歩かないので、再度戻ろうとすると、自分では入れないがあまり気にするタイプではなかった。

 綺麗に手入れされている庭を横切り、駐車場の横の隙間から、裏道へとでる。直ぐ側を流れる川を見つめながら、歩いて行く。お店までは、徒歩十分もかからない。

 古い洋館のような建物『こもれび』と書かれた看板を横目で見て、ドアを開ける。チリンチリン。ベルの音に、店員がこっちを見た。

「いらっしゃいませ」

 静流が手を上げると、店員は奥を指差す。何もいわなくても、全て分かってくれる。此処の店員は芸術家の卵が多いらしく、鷹東が全て支援しているらしい。なので、ここの店員に給料を払っているのを見たことがない。

 みんな揃って、十分してもらっているし、食事まで食べさせて貰っているから、恩返しと気分転換で働いていると言っていた。見映えも良かったりするものだから、店は結構繁盛している。そっと厨房のなかを覗くと、何かを味見している鷹東がいた。短くした薄い茶色の髪は、癖が多いため、乱雑にオイルで掻き上げているだけだ。少しの髪が額に落ちているのがいい。

「……っ」

 無意識にカメラを構えると、掌で遮られる。無言の睨みを受け、渋々カメラを下ろした。なかなかシャッターを切らせてもらえない。鷹東も条件反射のような反応である。

「……っ…」

 鷹東は奥を指差す。軽く頷くととぼとぼと指示された奥へ向かった。窓の側には二人用の椅子があり、川が眺めるように向いている。裏方用の休憩みたいのところだった。

 既に二人用の食事が置かれていた。椅子に座って眺めていると、鷹東がエプロンを外しながらやっていた。

「そろそろ来るだろうと思っていた」

「………」

 むぅとふくれっ面をすると、笑って頭を撫でられる。行動パターンは全て把握されている。

「ほら、冷めないうちに食べよう」

「うん…」

 静流は箸を持つと、黙々と食べ始める。雑談や何かを見ながら食べる事は一切しない。一つ一つを美味しそうに食べている。世界中を旅していた時、食事の有難さや大切さを教えてもらった。だから、食べる事のみに集中する。

「そういう所も、イチメに良く似ているよ」

 父親の一命の話をするときは、遠い目で静流を見る。静流は完食すると、鷹東の顔を見た。人の良さそうな性格が分かる全体的な雰囲気に、優し気な目元。整った顔立ちではあるが、穏やかさが前面に出ている。包み込むような大らかさに安心する。

 静流は笑みを浮かべると、

「そういえば、ちょっと前に母さんからメール来ていた。忘れていたけど…」

「………」

 鷹東は大きな溜息を吐き出す。

「来たのは、いつだ?」

 携帯を取り出すと難しい顔で確認をする。

「一週間前…」

「内容は…?」

「…十七日に食事会を開きます。えっ、了解もなく、断定じゃないか。酷いよね、基さん」

「………」

 鷹東は頭を抱えると、

「今日じゃないか。ま、思い出しただけ良しとしよう」

「なんで…」

「…そんな所もそっくりだよ。お前たち父子は」

 眉間に皺を寄せると、むむっと頬を膨らませた。


 静流はソファに横になって、カメラの雑誌を眺めていた。キッチンでは鷹東がディナーを作っている。そんな本格的に作らなくても、十分美味しいのにと内心呟いていた。

 玄関からインターホンが鳴る。

「静流くん、出て…」

 仕方なく玄関に向かい、ドアを開ける。ドアの向こう側に立つ女性に、

「あれ、早かったね」

「なにそれ…!」

 怒りで目を吊り上げて、静流の耳を引っ張る。

「痛っ、イタタタッ…」

「半年も連絡しないで、月一報告もなし。既読になっていたけど、今日もまさか忘れてないか不安だったわよ。さあ、今日は話を聞かせてもらうわよ」

 静流の母 瀬尾せおあざみは、静流の首をホールドすると、顔を覗き込み、頬を引っ張った。静流の黒髪と大きな目、はっきりとした顔立ちはあざみにそっくりだ。肩より少し長い髪はひとつに纏め、品のあるスーツに身を包んでいる。あざみに連行されて戻ってきた静流の姿に、鷹東は吹き出して笑った。

「基さん、お久しぶり。その様子だと直前でも思い出したようね。迷惑しかかけてないでしょうけど」

「いや。慣れているから大丈夫だよ。さて、食事も出来たし、食べようか」

 ダイニングに並べられた食事に、あざみは感心する。

「…凄いわね。また、趣味を広げたの?」

「態々、此処に来なくても、外でもいいじゃないか」

 呟いた静流の頭を小突くと、

「揃いも揃って、貴方たちが基さんの作ったのがいいって、駄々を捏ねるからこんな事になっているんでしょう。それに外だと絶対来ないか、逃げるでしょう」

 お見通しとばかりに睨まれた。

 静流は大きな溜息を吐くと、椅子に座った。手を合わせて、黙々と食べ始める。

「こんな所もそっくり…。私の遺伝子は全くないわ…」

「そうかい?」

 静流を横目で見ながら、可笑しそうに食事を始める。

 一命が亡くなったのは、静流が十四歳の時だ。三十六歳の若さだった。代々、うちは短命なんだと冗談を言っていたが、外国に行って流行り病を貰ってきたのか、調子が悪いと言って、数日の間に感染症を引き起こして亡くなってしまった。原因は不明のままだ。

 一命が頻繁に、鷹東の所に通っていた為、静流は鷹東にとても懐いていた。十八歳になったら、本人の自由にさせる。それが、一命が良く言っていた言葉だった。だから、十八歳の誕生日に、こんなふうに三人で、此処で食事をしていた時だった───。

「静流、あなたはどうしたいの?」

 あざみをジッと見つめ、少しの間考えると、

「僕は基さんの側にいたい」

「………」

 鷹東は静流を見つめたまま、言葉もなく固まった。今でも鷹東の家とあざみのマンションを行ったり来たりしているのに、今更側にいたいって意味が分からなかった。あざみは理解出来ず、眉間に皺を寄せると、静流の頭を叩いた。

「そういった事を言っているんじゃないわよ」

「それが、僕が求める自由だ」

 そんなよく分からない言い方まで一命そっくりだった。

 あざみは目を吊り上げ、

「基さんにも迷惑でしょう」

「あ、いや、僕は別に…一人だしね」

「いや、でも…」

 焦るあざみをよそに、会話は終わったとばかりに、静流はソファに転がった。ほぼ此処に入り浸っているので、我が家のような寛ぎようだ。怒りに立ち上がったあざみは、

「静流っ!」

「まぁまぁ…。気が変わるかも知れないし、今は本人のいうようにさせてやるしかないよね。突然、あいつのように外国へ飛ばれたら、僕も心配だしさ」

「基さんがそういうなら…」

 それから五年が変わりなく、過ぎ去った───。

「あっという間だったけど、息子なんてつまんないものね」

 お行儀よく食事をしている様を見て、あざみは大きな溜息を吐いた。

「この無言の間も懐かしいくらいだわ」

「…くくっ、本当だ」

 鷹東は可笑しそうに笑った。あざみは鷹東の幼馴染であり、許嫁でもあった。家同士の決めた事であったが、それに不満も何もなく、鷹東も彼女と結婚するものだと思っていた。それが、高校の時、茅野一命が現れた時から全てが変わっていった。

「あっ、そうだ。頂き物があったな…」

 鷹東が席を立つと、あざみは言いかけた言葉を飲み込んだ。食事を終えた静流は、あざみを意味深に見つめる。その視線に、グッと奥歯を噛み締めた。

「………」

 電話が掛かり、鷹東は他の部屋へと歩いて行く。

 二人きりになると、

「母さん、抜け駆けはなしだよ」

「先に抜け駆けしたのは、どっちよ」

 睨み合っている二人に、鷹東はケーキを持って、戻ってきた。

「また、何で揉めているんだ?」

「………」

 二人はソッポを向いた。

 こんな所も、一命が生きていた時から変わらない。時々、一命とあざみは何かを競い合っていた。今でも、一命とあざみがなぜ結婚したのかよく分からない。静流が生まれて、直ぐに別れたため、二年も持たなかった。静流を含め、一命は此処にずっと居たし、あざみは此処によく通ってきていた。

「………」

 何も変わらない。だから、安心することもある。

 食事の片づけを始めた鷹東の手伝いをしながら、あざみはそっと鷹東の横顔を盗み見る。昔と何も変わらない。側にいるだけで幸せだったあの頃と同じ…。

「昔っから変わらないのね…」

「え、変わったよ。おじさんにもなったしね」

「ウソ、変わらないわ」

 穏やかに微笑むその横顔が好きだった。

「…素直になれば良かったなぁ」

「………」

 鷹東は一瞬手を止めたが、何も言わず、聞かなかったように手を動かした。こんなふうにかわされる仕草が、以前は優しさだと思っていた。

「静流くん…」

「なに…?」

 いつの間にか、鷹東の側に静流がいた。真っ直ぐに見つめる黒い瞳に、ふと安心したような笑みを浮かべる。静流の頭を撫で、そっとその場を離れて行く。あざみはその後姿に思わず、

「基さん、私も此処にいたい…。ダメ?」

 珍しいあざみの弱い声に、鷹東は背を向けたまま、立ち止まった。

「あざみ、もう昔には戻れない。だから無理だ」

 自分の部屋に入り、ドアが硬く閉まる音がした。

「…そうね」

 あざみは悲しそうに笑うと、目の前に立つ静流を見つめた。静流が両手を広げると、辛そうにその体を抱き締めた。

「また、振られちゃったか…」

 そう言って、この家から出て行くしかなかった。


 誰もいなくなったリビングのソファに深く腰掛け、鷹東は目を閉じていた。あざみの気持ちには気付いていた。きっと静流と三人で、本当の親子のようになれれば良かったんだと思う。

「………」

 そっと歩み寄って来る足音に、気付かない振りをする。膝の上に座り、子供の頃からそうしたように抱き付いてくる。

「基さん、狸寝入り…」

 慣れ親しんだ温かさと感触に、そっと目を開いた。サラッと落ちてくる長い艶のある黒髪。淡い光をバックに、眩しい程黒い澄んだ目に見つめられる。

「随分と伸びたな…」

「うん。願掛けしているから、願いが叶ったら切るよ」

「勿体ない…」

 静流は含み笑いをすると、そっと首に腕を回して抱き付く。

「母さんの気持ちには気付いていたんでしょ」

「あぁ…」

「やっぱり、父さんのほうが好きだった?」

「えっ、あっ?」

 驚いたように、静流の顔を見た。

「父さんも基さんが大好きだった」

「君は…」

「だって、父さんは基さんの話しかしなかったもん」

 鷹東は大きな溜息を吐いた。

「どこまで知っているんだ?」

「うーん。母さんが基さんの許嫁で、父さんと母さんが競って、基さんを落とそうと必死になり過ぎて、自滅したって話でしょう。二人で賭けをして、勝ったほうが恨みっこなしってことで。基さんの気持ちを確かめようと、偽装結婚の話をしたら、おめでとうって返されて、二人して粉砕。引くに引けなくて、自棄で結婚したら、僕が出来てしまって別れる事も出来なくて…」

「待て…、それは知らない」

「ええ? もしかして、まずった?」

 長年の疑問が、今解けた気がした。それで結婚式には鷹東とあざみの母親だけが立会ったのか。あざみの母親がずっと機嫌が悪かった理由が分かった。

「馬鹿かあいつらは…。それでか、やっと納得が出来たよ」

 静流はズルズルと滑り落ちると、

「うわぁ、父さんに殺される…」

「あいつはもう死んでいるしな。どうせ、酒でも飲んで愚痴ったんだろう?」

 その通りなので、笑って誤魔化す。

「でも、そうだね。僕は結局、どちらも選べなかった」

「そうなの」

「今ほど、世の中も寛容じゃなかった。僕の両親も生きていたしね。あざみのお母さんにも、今でも嫁に貰ってくれないかって言われるよ」

 静流は祖母の口癖を思い浮かべる。あれを聞いているから、あざみは鷹東を忘れられないのかも知れない。

「そうだろうね。ばあばはいつも、そんなに働かなくても、基さんと結婚すれば、贅沢三昧が出来るのにって言ってたよ」

「………」

 それも知っている。だが、あざみの母親は見た目以上に強かな性格をしている。彼女の資産管理を依頼された鷹東は、将来あざみと静流が、生活に困らないように、その資産を一〇倍に増やした。賃貸も含めて、彼女の収入は裕福なはずだ。口で言う程、鷹東の資産に興味はないはずだ。

 ただ、あざみに嫌味を言いたくて仕方がないのだろう。

 鷹東は、ゆっくりと起き上がると、

「さて、もう寝るか…」

「うん…」

 部屋に向かうとドアを開け、振り向いた。当然のように、くっついている静流を見下ろす。

「なに、入れてよ」

「自分のベッドで寝なさい」

「なんで、子供扱い…」

 むむっと頬を膨らませると、鷹東は部屋に入り、ドアを閉める。この家の部屋には鍵などついていない。入ろうと思えば、いつでも入れる。だが、一命もそうだったが、鷹東の気持ちを一番に思って、この父子は強引に入ってはこない。独りの部屋にいると、寂しさに胸が苦しくなる。

「………」

 隣のドアの閉まる音。

 一命の時もそうだった。ただ、この隣の壁を見つめながら、眠れない夜を過ごした。

 

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