第2話 人生の分岐点(1)

 悩みは尽きない。一つ消えるとまた現れてくる。

深沢主催のダンスパーティが終わり、三日間、甘い時間を過ごした。あんなふうに、何も考えることもなく、幸せだけを噛み締める瞬間も悪くはないが、三日目の夕方に、深沢の腕の中から逃げ出した。

「まったく…」

 気が付くと深沢のペースになってしまい、なし崩しになるので、少し一人になる時間が欲しかった。それよりも、ふと服の着替えをどうしようか考えていた。

 なつめの実家は、深沢のマンションから歩いて、実は一時間ほど掛かる。電車で通うには、乗り換えも多く不便だ。深沢に会いに、『こもれび』の前を態々通って歩くだけの為に、健気にもよく通ったものだと、自分でも呆れる。

「自転車、買おうかなぁ…」

なつめの父親は既に他界しているし、母親はイギリスのバレエ劇団を経営していて、ここ何年かは、数ヶ月戻ればいいくらいだ。隣に住んでいる優美まさみの父親は、定期連絡を入れておけば、そんなにうるさくは言わない。実家でほぼ一人暮らしをしていたなつめは、これからを考えていた。

 社交ダンスを本気で始めるなら、深沢のダンス教室の方へ通えばすむことだ。パーティが終ってしまった事が、深沢のパートナーとして、役目を終えてしまったようにも思えて、あのマンションに一緒に暮らしていく意味を考えてしまう。

「ちょっと実家に戻るか…」

 なつめは青い空を見上げた───。


「………」

 三日目の夜から戻ってこないなつめに、深沢は溜め息を吐き出した。なんとなく、予想はしていた行動だった。お互いにこれからを考える時間が必要かと、

「仕方ないな…」

 ただ、広く感じる部屋に、以前よりも寂しさを感じた。

 教室のレッスンを開始し、いつもと変わらない日常に戻っていった。勿論、パーティでの深沢となつめの演技の話は尽きることなく、持ち切りだ。周りから予想以上の賛辞を貰い、深沢の中でこれからどうするかが、大きな問題となっていた。

「………」

 現実を考えるならば、なつめとの演技が、自分にとって完成度の高いものであるだけに、このままでいいはずもなかった。女装させ続けることを望んでいるわけでもない。だからといって、パーティ以外で、深沢のパートナーにはなれない。

 次の競技会に出場するなら、そのためのパートナーを探さなければならない必要性に迫られている。だが、最高のパートナーとして認めたなつめ以外で、探すことに躊躇いがある───。

「………」

 ふと時計を確認した。本当なら、なつめがバイトで来る時間でだが、今日はさて来るだろうか。そんなに忙しくない深沢は、いつも通りのメニューで生徒とレッスンをしていた。

「はい。それでは松田さん。新しいステップを入れますよ」

 カウントを取りながら、女性のステップを踏む。

 初心者相手のマニュアルは、初日にジルバを教える。ステップも難しくなく、はっきりいって楽しんで貰える。パーティでも踊れるので、カウントの取り方や姿勢を直していく。ここで社交ダンスが、とても楽しいものに見えてくるから、次のルンバでなかなか難しいステップになっても、当分の間は、それでも頑張ろうと思う気持ちがある。

 ルンバの緩やかなテンポに合わせ、体の体重移動と、バランスの取り方、筋肉の使い方などをマスターしていく。ベーシックがきちんと出来れば、何度も同じことばかりを言われることはない。がしかし、誰もがベーシックを嫌う。どんなに大切であっても、やはり出来ないことへの矛盾感は、ただやる気をなくすだけだ。それは仕方がないと、深沢も諦めてはいるが、実際言わなければならないのが辛いとこである。

 ルンバの曲に合わせて、次のステップを入れていく。

「では、次にナチュラルトップ」

 カウントを取りながら、進む方向を開けてやる。女性は、男性の開けた場所へと、真っ直ぐに歩いて行けばいいだけである。言葉で説明しても、やはり伝わるのは難しい。案の定、違う方向へと向かっていく。

「松田さん、男性に向かって、まっすぐに歩いてください」

「えっ、こうですか?」

 真っ直ぐに男性に向かって歩いて来る。男性は、バックウォーキングで逃げていくから、まずぶつかることはない。

「うん。そうです…。で、次は踏み替えです」

「後ろに体重乗せて、前に体重乗せて、右左ですよね?」

「そう…」

 まぁこんなものかと深沢が納得していると、ふと前週にやった内容を思い出し、

「では、ハンド・トウ・ハンド」

 男性の右腕から左腕へと、女性は前進ウォーキングとバックウォーキングをするだけだが、面白いことにものの見事に忘れている。

「こ、これで合っています?」

 深沢の顔色を伺いながら尋ねてくるのは、みんな一緒だった。一応、忘れてしまったことに対する、罪悪感はあるらしい。

「さて、ここまでですね。ちゃんと、覚えておいてください」

 一応、釘は刺しておくのだが、どこまで覚えているのかは分からない。

 その時、ドアが開いた。なつめが不機嫌な顔のまま入ってくる。深沢と視線が合うと何も言うこともなく、カウンターへ歩いて行く。自分の指定席になりつつある、受付の椅子に座るのを見て、深沢は側へと近寄っていく。三日会わなかっただけなのに、随分久しぶりな気がした。

「おまえ、何処にいたんだ?」

「実家…」

「そうか」

 納得してみても、なんだが違和感がある。あまり実家での話を聞いた事がなかった。一人暮らしをしているのだとばかり思っていた。半年も深沢のマンションに転がり込んでいて、今更ながら大丈夫なのか心配になってきた。なつめの荷物は置いてあるので、帰って来る気はあるらしい。

 深沢は汗を拭いながら、ソファに座りこむ。

 なつめは生徒からレッスン料を受け取り、次の予約の確認をしている。談笑している所を横目で見る。そうあのパーティ前後から、なつめに話しかける人が増えた。以前の取り澄ました態度はなく、楽しそうに生徒と話をしている。そんななつめを見つめ、良いことだと思っていた。

だが、予想もしないことは、突然やって来る。いつも長いことなつめを独り占めしている松田は、例の如く、楽しそうに話をしていたが──、

「あのなつめさん。みんなが聞けって、うるさくて」

 笑みを浮かべていたなつめは、不思議そうに松田を見る。

「なにを?」

「おもいっきって、聞くね」

「はあ…」

「次の大会は、いつ出場するの?絶対に見に行くから!」

「───!」

 その言葉に深沢の方が驚いた。話の内容が確認というよりも、なつめが出るに決まっている。それ以外は、許さないって感じに聞こえてきた。

 なつめは真面目な顔で、静かに深沢を盗み見る。なんと答えて良いものか、正直言葉が出なかった。出来るものなら、そう心のどこかで思っているだけに、返答が出来ない。

「…っ……」

 深沢は眉間に皺を寄せた。なつめ以外のパートナーを選べば、疑問が湧く。何処までも誤魔化せるわけはなかった。なつめは男であって、これ以上の巻き込みは、深沢自身が許せない。もうバラしても良いだろう。そう決心した深沢を見つめていたなつめが、咄嗟に小さく微笑みながら、

「みなさんの応援、期待していますから」

「……っ!」

 営業スマイルで言い切った。その言葉に、深沢となつめは睨みあっていた。なつめの一言で、深沢の機嫌は一気に悪くなった───。


 レッスンを終え、マンションに戻るなり、呑気にシャワーを浴びて出てきたなつめを捕まえた。

「なぜ、あんなことを言った!」

「………」

 床にバッグが投げられる。深沢が本気で怒っているのが分かる。

 捕まえられた腕を振り払い、冷蔵庫から飲料水を取りだし、一気に飲み干す。

「別に、一度も二度も変わらない」

「おまえは男だ。俺のパートナーとして、競技会の出場は出来ない」

 改めて深沢から言われた言葉に、なつめは唇を噛んだ。

 良く分かっている。分かっていても気持ちが納得出来なかった。深沢のパートナーでいたかった。

 なつめの思い詰めた表情に、溜息を吐き出した。その細い肩を抱き寄せ、ソファに座りこむ。

「俺は、おまえにダンスの才能があると見込んでいる。俺のパーティでなら、後で実は男でしたって言っても、笑ってすませられる。だが、競技会はそういうわけにいかない」

「…あの時は仕方がなかった」

 深沢がバラすであろう事とは予想がついた。思わず、口が勝手に言ってしまった。やっと掴んだものが、逃げてしまうそうで怖かった。

「おまえが黙ってさえいれば、俺がなんとかしていたさ」

 生徒の中には何人か、なつめが男であると気がついている人もいる。なつめが知らないだけで、それでも認めて受け入れているのだ。

「でも、俺は…」

 深沢のパートナーとして踊りたい。

「今回だけは、お前では駄目だ」

「……っ!」

 なつめは眉間に皺を寄せ、唇を噛み締めた。なつめの柔らかい茶色の髪に触れながら、彼の存在の大切さを思い知る。このままこの状況で苦しめるのは、あまりにも可哀想な気がした。深沢にとって、ダンス以上に、なつめが大切になっていた。

「なつめ、此処に一緒に住まないか…」

 その言葉は、今この状況で聞かなかったら、素直に喜んで頷いていた。

「パートナーは…」

「探す…」

 もう明日には、噂は広がっているに違いない。早急に対処する必要性が出てきた。もう迷っている時間はない。そっと携帯に視線を向けた。深沢の行動を読むと、目の前にある缶を握り潰し、徐に立ち上がった。

「なら、俺がきっちりと責任取る!」

「おまえじゃダメだって言っているだろう」

「どうして!」

 珍しく聞き分けがなかった。何かに拘るかのように、引き下がろうとしない。

「俺は出場したい」

「出場するなら男としてだ」

「俺は、あんたのパートナーのはずだ」

 悲しそうに瞳を閉じると口を詰むいだ。

 必要とされたいと願っているだけなのに──。深沢の拒否に小さく呟いた。

「分かった」

 顔をあげたなつめの顔には、冷たい表情しかなかった。

「俺の失態なら、どんなことをしても、俺が責任を取る」

「おまえ、一体…」

「少しの間、皆にいうのは待ってくれ」

 そう言い切ったなつめは、深沢の手を振り払った。深沢は立ち上がると、なつめの行く手を遮る。

「待て…。返事を貰っていない」

「あんたのパートナーじゃないなら、一緒に住む必要ないだろう」

「俺たちにはそれだけしかないのか」

 自分じゃない誰かと組んだ深沢をただ待つだけに、此処にいるのは苦痛以外なにものでもない。

「あんたに囲われるのは、もっと嫌だ」

「……っ!」

 なつめはそのまま振り返ることなく、マンションを出て行った。なつめの激しい拒絶に、少しの間呆然と立ち竦んでいた。

 どうすれば良かったんだ。

「どうして分からないんだ」

 苦しさに、その場に力なく座り込んだ。一番大切なものが離れてしまった。




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