…………1-(5)

 深沢のカウントを取る声、曲に合わせて踏むステップの音だけが響く。なつめの細い身体から滝のように汗が流れる。その体を支える深沢の腕の中で、鍛え上げられた肢体が舞う。

「もう少し位置をずらせるか?」

 なつめの立つ位置で、深沢のバランスも変わってくる。なつめの限界まで伸びた体を、絶妙なリードによって様々なポーズへと変化させる。柔軟な体とワイヤーのような筋肉がなせる業だ。なつめのバレエで培った高速回転には、さすがの深沢でもついていけない。瞬時に伸びてくるなつめの手を掴むと、その体の向きを変える。深沢を支えに、一八〇度の開脚は綺麗な直線を描く。なつめの顎を汗が流れ落ちる。

 と同時に、ステレオの電源がフッと落ちた。時間に見境がなくなってしまうため、二十三時を過ぎると、電源が落ちるようにしている。床に崩れ落ちた深沢は床を見つめ、なつめの激しいまでの息遣いが、スタジオのなかで響いていた。床にハラッと散らばった汗を見て、Tシャツを託し上げ、その汗を拭く。

「…いい眺めだな」

 胸の裸体を晒しながら、深沢を睨み付ける。

「あんた、女と手を切ってから、欲求不満?」

 真剣に考える振りをしながら、

「そうか?」

「目付きがいやらしい」

 吹き出して笑いながら、ゆっくり立ち上がる。なつめに背中を向け、ロッカーからタオルを取り出した。冷蔵庫から、数本のスポーツ飲料を掴み、一本は一気に飲み干した。もう一本をなつめへと渡す。全く動くこともせず、半分程度まで飲み干し、掛けられたタオルで汗を拭いていく。

 なつめが動けない事が多いため、動ける深沢がほぼ世話を焼いている。夕方配達してくれた『鹿のや』の弁当を食べるのを、忘れていたことを思い出した。

「…悪い、弁当忘れていた。温めて食うか?」

「あぁ、俺も忘れていた。食べる」

 冷蔵庫に入れておいた弁当を取り出し、温めている後ろ姿を見つめた。意外にも、面倒見がいいのかもしれない。そういうふうに分析したなつめは、動きたくないのもあるが、平気で深沢を使う。これが、意外にも上手くいっているコツでもあった。遅い夕食を食べ終え、満足感にまた床に転がる。

「汚いから、転がるな!」

「うるさいっ」

 床は、ワックスをかけたりするため、蝋やゴミの滓などが落ちている。だから、スリッパでも履かないと汚かった。なのに、なつめはスリッパを履かないし、床に平気で転がる。何度言っても、聞かないときている。渋々と言った感じでソファまで這っていき転がった。呆れた視線を送っていた深沢は、ふと思いついた。

「おまえ、どうしている?」

「なにが…」

 股間に注がれた好奇心な眼差しに、なつめは一瞬、深沢の顔を眺めてしまった。で次に、脱ぎ捨てたスリッパを掴むと、バシッと手加減無しに、深沢の頭を殴りつけた。

「……痛っ。汚ねぇな!」

「これだから、ジジイは!」

「ジジイだと」

「一〇も違えば、充分だろうが!」

 ムッと口篭もった深沢は、最近、衰えてきている体力を少し感じていた。二〇代と三〇代の違いを実感しつつあるから、敢えて言われると、意外と傷つくものだ。

「なら尚更、おまえはやりたい盛りだろうが!」

 眉間にシワを寄せ、深沢を睨み付ける。その冷めた視線を受けても、深沢は別になんともない。なぜなら、深沢には華やかな過去があるからだ。

「おまえさ、付き合った事はあるのか?そんな奇麗な顔して、結構モテるだろう…」

 嫌な話題になったと、内心溜息を吐き出した。実際、なつめはモテる。綺麗な顔立ちとモデルのような手足の長さ、スカウトさせるほどだ。だが、そこにはとても深い落とし穴がある。そうなつめを囲む女たちは、みんな揃ってこんなことを言う。

『なつめ君って、見ているだけの方がいいのよね。他の女たちからの羨望の眼差しが、とっても快感だけど、自分の彼氏の奇麗さに嫉妬するほど、虚しいことはないのよね』

 ということで、女の経験もなく、という以前、小さい頃からバレエという女の環境の中にいた為、女の裸も、女の嫉妬も、嫌がらせなどは日常茶飯事だった。そのお陰で、なつめは女が大の苦手だった。

「俺は、あんたと違って淡泊なんだ」

 決して、腹の内は見せず、ニッコリと笑みまで浮かべ、話を逸らす。そんな行動だけで、敏感に大体の予想が付いた深沢は苦笑いを浮かべた。同情的な態度に、怒りを含んだ恐ろしいまでの低い声で、シャツを掴んで引き寄せる。

「そんなに溜っているんなら、俺が抜いてやろうか」

「…お前が?」

 思わず冗談で交わすことを忘れて見つめる。本人は全く気づいていないだろうが、普段あまり喜怒哀楽の表現の少ない顔が、怒りで目元を吊り上げている。その顔が、なんとも幼くなり、多分、なつめの素であるだろう。

 なぜか、こういった素の表情が、深沢の一番好きな顔でもあった。ましてや、唇が乾いているのか、舌舐めずりまでして。

「…おっ…!」

「うわっ…!」

 思わず、力を抜いてしまった為、なつめが深沢の上半身を押し倒す形になって倒れた。目を見開いたなつめを、下から眺めるのはなかなかと、そんなことを考えていた。見下ろしたなつめは、目の前の筋肉質な胸に視線を奪われていた。以前、抱き締めて寝てやろうかと、からかわれた事を思い出して、真っ赤になる。

「………」

 その顔に吸い込まれるようにして、深沢はゆっくりと体を起こした。大きな手が、頬に触れ、そのまま後頭部を浚いこむようにして、唇が重なる。逃げようとすると腰を強く抱かれ、唇を深く合わせる。思わず胸に置いた手が、深沢の早い心臓の音を伝えてくる。逃げ出したいくらい、深沢のキスはとても甘く優しかった。ゆっくり離れていく唇を見つめ、心臓がうるさい程打っていた。あまりにも初心な反応に、深沢は面白そうにからかう。

「なかなかいい味だった。こんな感じで迫ってくれ!勿論、ダンスもな」

「……っ!」

 やっとのことで我に返ると、いいようにあしらわれたようで、歯軋りした。

「だが、舌舐めずりはダメだ。腰にくる」

 なつめの体を軽く抱え、そっとソファに下ろす。真っ赤になって、俯いているなつめを見て小さく笑うと、手洗い場へと消えていく。

「…オレが迫ったのか?」

 それとも、からかわれただけなのか。

 ソファに置いてある深沢のパーカーを掴むと、それを持ってスタジオを出ていく。寒くはないが、なぜか、今は誰にも会いたくなかった。マンションへと走っていくなつめの後ろ姿を、深沢は可笑しそうに見ながら、

「そろそろやばいな…」

 思わず、誘惑に負けてしまったことに、苦笑いを浮かべた。


 深沢主催のパーティも、一週間前までになると、スタジオのなかに緊張感も高まってくる。なつめもその波に飲み込まれつつあった。今まであまり緊張したことがなかったが、こんなにも緊張していると感じることが、余計にプレッシャーとなって、襲い掛かってきていた。落ち着かない、食事が喉を通らない。

 ダンスに関していえば、あまり問題はなかった。深沢が遠慮というモノを知らないからだ。女性ではかなり辛いだろう、鋼のような筋力を要求してくる。繊細で優雅な動きを求めた。深沢の巧みなリードは、体温を感じる程自然に、その流れは一つ一つが優雅に、なつめの動きを変化させる。時には強く、でもその内面は、強さよりももっと柔らかく、気持ちの上では激しく熱く───。

 最近、何も考えられない。

 深沢とのキスが夢にまで出てきた。その事で頭が一杯になってしまって、深沢の手が首筋、肩、頬に触れる度に、心が切なくなる。ルンバでは、何度も抱き締められる時、頭のなかが真っ白になる。絡んだ指先が離れていくのが切なくて、唇を噛み締めた。背中で感じる存在が、目を閉じていても分かる。えも知れない熱い感情に流されそうになるのを、グッと抑えた。眩しさに目を開けると、いつも唇に触れていた。あのキスが忘れられない。

「なんで、今なんだよ…」

 自分の部屋でストレッチをしていたが、考えることが面倒臭くなり、シャツを掴んでバスルームに向かった。こんな日は早く寝るに限る。ドアを開けると、深沢がどんよりとした顔で立っていた。内心溜息を吐き出す。今は会いたくなかった。

「どうしたんだよ、その顔」

 いい男が台無しじゃないか。肩を押され、部屋に戻される。綺麗に整えたばかりのマットレスに胡坐を組み、真剣な眼差しで見つめてくる。諦めて、深沢の目の前に座りこんだ。

「おまえ、俺のことどう思っている?」

「はあ?」

 なぜ、こんな質問が今なのか。自分の感情だけでも手一杯なのに、深沢の面倒までは手に負えない。黙ったまま何も言わない深沢に、長い間、腕を組んで考える振りをする。はっきり言って今は困る。その考えを停止したばかりなのだ。

「あんたは?俺の事どう思っている」

「好きさ。決まっているだろ?」

 はっきりと、それも直に答えたその言い方が妙にひっかかる。

「どこが?」

「顔と体!」

 思わず絶句したなつめは、眉間にシワを寄せた。そうだった。初めから体目的だったのを、今更ながら思い出し、馬鹿らしくなる。真剣に悩んでいた自分が阿保みたいだ。

「………」

 何故だか無性に腹が立つ。ワイヤーのような長い足で、深沢の胸を蹴飛ばした。後ろに転がり、壁で頭を打った深沢は、起き上がり睨み付ける。

「痛いだろうが!」

「それだけか!」

「決まっている」

 キスして以降、なつめの余所余所しさに、物足りなさを感じていた。今までのパートナーとは、明らかに全てが違う。言葉に表現出来ない熱い何かがもっと欲しい。やっと完成された最高のダンスの世界に足りないものを、深沢はずっと探し彷徨っていた。

 なつめの存在は、今の深沢にとって、作り上げた世界観を共有する同志であり、時々一体感さえ感じる。自分の思うままに動く柔軟な体。かと思うと、どんなに捕まえても風のように擦り抜けていく。抱き締めても、自由に飛んで行ってしまう。離したくないと手を伸ばしてしまった時さえある。

 腕のなかに戻ってくると、熱い眼差しで思いを激しくぶつけてくる。限界まで激しく伸びる身体を支えているだけで、筋肉の動きを感じるくらいだ。瞳を閉じた顔を、唇が触れる寸前で見つめると、視線が奪われる。自分の腕のなかで、こんなにも綺麗で優雅に踊るパートナーを見たことがない。こんなに切ない思いで、パートナーを見たのも初めてだった。

 なつめを愛し始めている───。

 漸くその思いに辿り着いた。だが、なつめの気持ちが分からない。今の時期、パーティの成功しか考えていないはずなのに。それ以上に気になって仕方がない。どこか焦ってしまう自分が歯痒かった。

「……っ…」

 ふとルンバの曲が脳裏に木霊す。デモストレーションにある一つのシーンが思い浮かぶ。バックウォーキングからの逆三回転、体の向きを変え、深沢の肩に片足を乗せた。その足首を掴まえ、腰を引き寄せると、深沢を支えに一八〇度の開脚したまま、両手を離す。一番の見せ場であり、そのラインは美しかった。ふと、ゆっくりと下ろしていく足が頭のなかに浮かぶ。

「………」

 しっくりこなかった流れが、思いと共にイメージが沸く。この思いを伝えるには、そっとなつめの腕を掴むと抱き締めた。これくらいのスキンシップは、慣れてしまっているために全く動じない。そこに閃きがあった。今浮かんだシーンはどうしても必要だ。

「やりたい…」

 懇願するように真剣な眼差しで見つめる。ふと視線を時計に滑らせながら、なつめは溜息を吐き出す。

「体だけが目当てだろう?」

「やりたくて狂いそうだ」

「でも、オレ…」

 静まり返った沈黙に、迷ったなつめが困った顔をする。

「お願いだ…」

「…分かった」

 なつめが体の力を抜くと、深沢は嬉しそうにニタッと笑う。仕方なくといった感じで、手を引かれながら嫌々ついていく。リビングのドアを開け、テーブルとソファをいつものように、端の方へと並べていく。なぜか急に機嫌が良くなり、弾んだ足取りでステレオの前に立っている。流れてきたルンバの曲に、やっぱりなつめは愚痴をこぼす。

「あんたが、もう夜はレッスンなしだって言ったんじゃないか。何も、こんな夜中にしなくったって」

「踊りたいものは、踊りたいんだ」

 何かを思いついたときの深沢は、それを実行しなければ収まらない。なつめは伸びをすると、軽くストレッチをする。曲が始まっても、深沢は目を閉じている。

 スッと出された深沢の手の上に置くのは、すでに条件反射。やはり、例の決め技の少し前から始める。ベーシックからのバックウォーキング。逆三回転し、深沢の肩へと右足を振り上げる。一八〇度開脚した足首を深沢が掴んだ。腰に回された手に力が入ると、そのまま両手を広げながら倒れていく。支えられた深沢の腕によって、ゆっくり起こされる。いつもなら向きを変えられるが、背中に回された腕は、そのままなつめの体を抱き寄せた。

「……っ!」

 右手に重なるように触れた指先は絡めながら、高く振り上げていく。深沢の絡める熱い視線に、一瞬にして体温が上がる。こんな視線で見つめられたら、

「…深沢…」

 絡めた手が、深沢のリードを瞬時に感じ取る。体の向きを変え、ステップを踏む。背中を向けた深沢の肩に手を置き、顔の向きを変えると、ポーズを決める。何気ないポーズだが、なつめのラインの美しさがとても映える。なつめの背中に腕を回し、

「あっちの方向に三回転…。足は俺向きにポーズ」

 言われるまま、三回転し、高く足を振り上げ、前に向かって手を指し伸ばす。

「そのままキープ出来るか」

「あぁ…」

 上ずった声で呟いた。

「じゃあ、引っ張るぞ」

「えっ…!」

 片足を掴まれ、凄い力によって、一メートル程引き寄せられるように滑った。深沢の首に腕を回されかと思うと、体がふわりと宙に浮いた。抱っこのまま一緒に回転し、太腿の上に座らされる。呆然としたなつめの顔を見て、

「出来れば、優雅に足を組んでくれ」

 まさか、自分がリフトをされるとは思っていなかったので、深沢を見つめたまま動けなかった。

「もっと誘惑してみろ。お前の気持ちも、本気もまだまだ俺には足らない」

「……!」

 なつめは押し黙った。

 深沢への思いは本気だ。今までの逃げていた自分とも向き合った。誰にも文句を言わせたくない。深沢宗司の最高のパートナーだと認めさせるために──。それは深沢本人に対しても一緒だ。なつめの目の色が変わった。

 ルンバの曲がまた繰り返される。深沢の目の前に立ち、頬に手を添え、鍛え上げられた胸板まで下ろす。規則正しい呼吸に自分の呼吸も合わせる。その様子を見つめていた深沢は笑みを浮かべ、なつめの頭を抱き締めた。顎を軽く持ち上げると、驚いたように瞳が揺れた。

「まだまだ、これからだ」

 決して視線を外さない。視線を逸らそうとするなつめを捕まえて放さない。曲は、リピートされているため、直ぐに同じ曲が戻ってくる。ルンバのスローなリズムを体で感じながら、ゆっくりと重なった身体が、深沢の身体で押されて、その反動で離れていく。その瞬間、なつめの右手首をしっかりと掴んで、引き戻して強く抱き締められる。そのまま身体は、深沢を支えに倒れていく。片足は天井へと真っ直ぐと伸び、頭は床擦れ擦れのラインまで落とされる。深沢の息遣いが今までよりも近く感じて、逃げ出したいほどの切なさに唇を噛み締めた。

「……ッ」

 今までと何かが違う。逃げれば逃げるだけ追いつめられる。深沢の熱さに侵されていくようだ。深沢の手が、首筋に触れ動く方向を示す。肩を掴まれると左右へと回転させられる。頬を優しく掴まれながら、温まりが離れて行く。上半身を限界まで捻って、その反動で体が瞬時に高速回転して、片足を振り上げる。長い足が宙を舞い、深沢の腰の高さに導かれ、綺麗な長い足のライン。盾に足を開き、深沢の股の下で床での開脚。両手を挙げたなつめの手を掴み、そのまま反動をつけて持ち上げる。

「ナツメ、勝手に動くな!」

「分かっている!」

 なつめの全体重を支えている深沢は、微妙な動きでさえ、バランスが崩れてしまう。不意に、なつめの気持ちのブレを敏感に感じた。

「このやろう、違うだろっ!」

「なにが」

 なつめはソッポを向いた。思わず身体が熱くなって、ダンスどころではなくなってしまった。抱き締められる熱い腕を、その胸を押し戻してしまった。

「俺を見ろ!俺だけを見て感じろ!俺だけを愛せ!」

「───!」

 ダンスの事を言っているのではないことは分かる。自分の中途半端な態度に苛ついていることも。あのキスを受け入れた時、深沢を好きなことはばれているだろうとは思っていた。真剣な目に、掴まれた腕が痛い。自分を好きだと言えと言っている。素直に認めて、あの腕のなかへ落ちてしまえばいいと。深沢の事は好きだ。踊っている時は、深沢は自分のものだと思っている。でも───。

「今は言えない」

「なぜ…」

「今言ってしまったら、全てが駄目になってしまいそうなんだ」

 自分はそんなに強い人間ではない。今まで知らなかった甘えを知ってしまったら、どうなってしまうのか。今はまだ不安で仕方がない。自分から飛び込んで行けるほど、もう少しだけ考える時間が欲しかった。

 いつものツンとした表情ではなく、切なく俯いたなつめに、彼がまだ二〇歳であることを思い出した。そして、根は外見に似合わず、とても真面目な性格だ。深沢は大きな溜息を吐き出した。待つのは初めてだった。

「分かった…」

 少しの間、休憩とばかりに手が上がる。一つの気分転換としてと、なつめが頭の中で考え込んでいるときの癖でもある。なつめは五分もしないうちに、深沢の目の前に立ち塞がった。穏やかな真っ直ぐな目だった。

「そんなに力んでて、大丈夫なのか」

 深沢のからかいをまるで相手にもせず、瞳を閉じる。

 今は言葉にしなくていい。ただ、この思いがどんなものか教えてやる。

「───」

 なつめの指先が、先程とは打って変わって触れていく。胸の上に置かれた手は、遠慮もなくシャツのなかまで入って、強く背中を抱き締める。数センチ踏み込んだ場所は、深沢の求めていた距離だ。唇に触れるか触れないかで、一気に離れて行く。思わず踏み込んでなつめの体を支える。心臓が激しく高まる。思わず息を飲んだ。

「……っ」

 離れていく手を掴み損ないかけて焦る。見つめる視線は、熱く輝き、瞬時も離そうとはしない。なつめに振り回されている。これ程の情熱を秘めていたのか。

 深沢は必死になってその体を求めた。より柔らかく動く体の無謀さに、ギリギリまで追い詰められていく。愛しい気持ちが膨れ上がり、大切に抱き寄せる。今まで踊っていた自分のスタイルを、全て見失った気分になった。

 ラスト──。背を向けたなつめが振り向いて、そのまま手を離して歩いていくはずだった。なのに、手を絡めた指を解かないので、そのまま引き摺られる感じで、彼の体を抱き締めていた。ズルッと腕のなかで、なつめが力を抜いた。

「なつめ…」

 最高の気分のまま、そっと呼んでみる。気持ちが重なるというのは、また違った満足感があるのだなと、実感する。不器用な言葉じゃなくても、こんなに思われているのかと笑みを浮かべる。

「まいったなぁ…」

 手足の力を全て抜き、深沢の体に凭れたまま、気を失ったかのように眠っている幼い顔。前髪を掻きあげ、そのまま座り込んだ。なつめの体を支えながら、頭だけを膝の上に乗せてやる。綺麗な顔に前髪が汗で張り付いている。近くにあったタオルを取ると、ゆっくりと汗を拭いてやる。少し痙攣を起こしている足に気付き、そっと離れる。温めたタオルで全身を拭いていく。

 情熱という言葉がよく当て嵌まる。こんな一面があったとは、驚きである。半年間でよく此処までついてきたものだ。

「よく頑張ったな」

 その唇に軽いキスを落とした。口説き落されたって感じで、深沢は苦笑いを浮かべるしかない。

「今回は負けたな」

 そんな事を呟いている深沢に、なつめは隠れて笑っていた。気絶したのは瞬間だけで、ただ動くのが、面倒だっただけだ。部屋まで運んでくれるのを、ただ待っていただけだ。でも───。

 いい時間だった。こんなにも誰かを好きになったのは初めだ。体だけが目当てのクセして、真剣に向き合ってくれた。見つめられる視線が、狂おしいまで熱くて、恋焦がれるって、こんな感じだろうかと思った。

 踊っている時は最高にいい男だ。間近で見ると堪らない程、好きになってしまっている。こんな自分に初めて会った。初めは、本当に純粋に憧れだった気持ちが、今では手に負えないでいる。

 好きだって、素直に言えるだろうか。

 なんて返事をくれるのだろうか。

 深沢の腕のなかは居心地がいい。抱き締められると、満たされたものを感じてしまう。すでにもう後戻りなんて出来るはずはない。答えも気持ちも認めてしまっている。もう前に進むしかない。


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