第3話 サンスクリットー鳩摩羅什訳ー玄奘訳対照

ここでは般若心経サンスクリット経文を

『梵文 『小本 ・般若心経』和訳』原田和宗 · 2002

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/2002/209/2002_209_L17/_pdf

甚之助の小屋>『般若心経』をサンスクリット原典で読む!

https://jinnosuke-labo.com/archives/20200522_heart_sutra/#free_translation

に基づき私訳したものと、

鳩摩羅什訳である『摩訶般若波羅蜜大明咒經』

https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%91%A9%E8%A8%B6%E8%88%AC%E8%8B%A5%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%A4%A7%E6%98%8E%E5%92%92%E7%B6%93

とを併置し、その経文解釈の変遷を見てみます。


さて、何が出てくるか。



आर्यावलोकितेश्वरबोधिसत्त्वो गम्भीरायां प्रज्ञापारमितायां चर्यां चरमाणो व्यवलोकयति स्म । āryāvalokiteśvarabodhisattvo gambhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ caramāṇo vyavalokayati sma ।

पञ्च स्कन्धाः, तांश्च स्वभावशून्यान्पश्यति स्म ॥ 

pañca skandhāḥ, tāṃśca svabhāvaśūnyānpaśyati sma ॥ 

 アヴァローキテーシュヴァラ菩薩は甚深なる般若波羅蜜多を実践しておられるとき、観察された。自我は自我そのものではなく、五箇の諸群集による、と。しかも、それらが空性を持つもの、すなわち自己本質を欠如したものとして、ご覧になった。

羅什 觀世音菩薩 行深般若波羅蜜時

   照見五陰空 度一切苦厄

玄奘 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時

   照見五蘊皆空 度一切苦厄

 陰と蘊の揺れが気になります。がこの辺「同じもの」と解説は言い切っていていきなりいいかげんにしろ案件。

 空を「自己本質を欠如したもの」とサンスクリット語は語っていますが、まぁ、ここは「世界そのものが道」みたいな感じで理解しちゃってるとすんなり入ってくるんですが、言葉でどう言い直せるかがいまいち難しい。「自我」が「認識」している、と言った考え方もまた思い込みによって成立している、みたいな感じかな。

 サンスクリット経文にはない「度一切苦厄」は、これを挿入しておかないと話が見えにくい、としたのでしょうね。



इह शारिपुत्र रूपं शून्यता, शून्यतैव रूपम् ।

iha śāriputra rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam ।

रूपान्न पृथक्शून्यता, शून्यताया न पृथग्रूपम् ।

rūpānna pṛthakśūnyatā, śūnyatāyā na pṛthagrūpam ।

यद्रूपं सा शून्यता, या शून्यता तद्रूपम् ॥ 

yadrūpaṃ sā śūnyatā, yā śūnyatā tadrūpam ॥ 

एवमेव वेदनासंज्ञासंस्कारविज्ञानानि ॥

evameva vedanāsaṃjñāsaṃskāravijñānāni ॥

 この世では、シャーリプトラよ、五箇の諸群集のうち「物質」は空性を持つ。空性こそが物質である。物質は別個に空性を持つわけではなく、空性は別個に物質であるわけでもない。物質なるものが空性、空性なるものが物質なのである。他の四の諸群集、感受・想念・意志・識も同様である。

羅什 舍利弗 色空故無惱壞相

   受空故無受相 想空故無知相

   行空故無作相 識空故無覺相

   何以故

   舍利弗 非色異空 非空異色

   色即是空 空即是色

   受想行識亦如是

玄奘 舎利子 色不異空 空不異色

   色即是空 空即是色

   受想行識亦復如是

 この辺小説サイトに提出すると「同じ情報を繰り返しすぎです」ってツッコまれそう。ともあれ、鳩摩羅什訳が受想行識亦復如是の部分を強調するために「~空故~」節を挿入しているのがうかがえます。そして色=物質は、なにぶん一番目立つものであるためしっかりと語っていますが、本当はこのあとに「非受異空~非想異空~非行異空~非識異空~」って繋げたいのを略してるんですね。必要とは言え演繹できる情報は可能な限りカットしているのがうかがえます。ともなれば、それでもなおここは繰り返して強調せねばならなかったことである、と。まぁ結果「色が空」だけが見えるようになっちゃってますが。

 もしかしたら鳩摩羅什は、そうやって色ばっかりを突出させることを嫌って「~空故~」節を、敢えて煩瑣の愚も犯して挿入したのじゃないかしらね。



इहं शारिपुत्र सर्वधर्माः शून्यतालक्षणा अनुत्पन्ना अनिरुद्धा अमला न विमला नोना न परिपूर्णाः ।

ihaṃ śāriputra sarvadharmāḥ śūnyatālakṣaṇā anutpannā aniruddhā amalā na vimalā nonā na paripūrṇāḥ ।

 この世では、シャーリプトラよ、一切の諸存在素は空性を特相とするものであり、生起したものでもなく、滅したものでもない。塵垢を伴うものでもなく、塵垢を離れたものでもない。不足したものでもなく、満たされたものでもない。

羅什 舍利弗 是諸法空相

   不生不滅 不垢不淨 不增不減

   是空法 非過去非未來非現在

玄奘 舎利子 是諸法空相

   不生不滅 不垢不浄 不増不減

 世界そのもの、「空」を自分の思い込みで切り出し、目の当たりとしている「と、思い込んでいる」ものの表象が、相。にしても鳩摩羅什訳に紛れ込んでる「是空法 非過去非未來非現在」はいったい何なんだ。サンスクリット経文にはないぞ。ただこのサンスクリット経文、玄奘訳に合わせて切り出し直されてるくさいんだよなあ。あまりにも適合しすぎている。



तस्माच्छारिपुत्र शून्यतायां न रूपम्, न वेदना, न संज्ञा, न संस्काराः, न विज्ञानानि ।

tasmācchāriputra śūnyatāyāṃ na rūpam, na vedanā, na saṃjñā, na saṃskārāḥ, na vijñānāni ।

न चक्षुःश्रोत्रघ्राणजिह्वाकायमनांसि,  न रूपशब्दगन्धरसस्प्रष्टव्यधर्माः ।

na cakṣuḥśrotraghrāṇajihvākāyamanāṃsi,  na rūpaśabdagandharasaspraṣṭavyadharmāḥ ।

न चक्षुर्धातुर्यावन्न मनोधातुः ॥

na cakṣurdhāturyāvanna manodhātuḥ ॥

न विद्या नाविद्या न विद्याक्षयो नाविद्याक्षयो यावन्न जरामरणं न जरामरणक्षयो न दुःखसमुदयनिरोधमार्गा न ज्ञानं न प्राप्तित्वम् ॥

na vidyā nāvidyā na vidyākṣayo nāvidyākṣayo yāvanna jarāmaraṇaṃ na jarāmaraṇakṣayo na duḥkhasamudayanirodhamārgā na jñānaṃ na prāptitvam ॥

 それゆえに、シャーリプトラよ、空性において物質もなく、感受もなく、想念もなく、諸意志もなく、識もない。

 眼・耳・鼻・舌・身体・思考もなく、色・音声・臭い・味・可触物・存在素もない。ならば眼の根源界から思考識の根源界までもない。

 十二支分からなる依存的生起における明智もなく、無明もない。ならば明智を消すことも、無明を消すこともできない。ともなれば老化・死の苦悩もなく、老化・死の苦悩を消すと言うことも有り得ない。

 苦・苦の起源・苦の消滅・苦の消滅に導く道程もない。智慧もなく、涅槃を獲得することもない。

羅什 是故空中 無色 無受想行識

   無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法

   無眼界 乃至無意識界

   無無明 亦 無無明盡

   乃至 無老死 無老死盡

   無苦集滅道 無智亦無得

玄奘 是故空中 無色 無受想行識

   無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

   無眼界 乃至無意識界

   無無明 亦 無無明尽

   乃至 無老死 亦 無老死尽

   無苦集滅道 無智亦無得

 明知こそが悟り? と言うか悟りって単語が般若心経の中では全く登場しない。「はじめの迷妄」がなぜ無明と呼ばれるのかはここで腑に落ちたのだが(明知がない、だから無明になるというアレ)、ううむ。

 玄奘訳と鳩摩羅什訳は完全一致。一方サンスクリットには漢経で見える「色」の強調はない。ここ下手に色の強調をしない方が良かったんじゃないかなあ。そのせいで前段における「色即是空」だけが現代において悪目立ちする状況が発生しちゃってる気がする。いやわかるんだけど、五蘊のうち色以外を認識するのが既に難しいってことも。「受・想・行・識を文字あるいは概念として認識した瞬間それは受・想・行・識から色に引き戻される」とか言う狂った世界だからな。あまりにもとんち過ぎて書いてて意味がわかんなくなって笑う。



बोधिसत्त्वस्य प्रज्ञापारमितामाश्रित्य विहरति चित्तावरणः । 

bodhisattvasya prajñāpāramitāmāśritya viharati cittāvaraṇaḥ ।

चित्तावरणनास्तित्वादत्रस्तो विपर्यासातिक्रान्तो निष्ठनिर्वाणः । 

cittāvaraṇanāstitvādatrasto viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ ।

त्र्यध्वव्यवस्थिताः सर्वबुद्धाः प्रज्ञापारमितामाश्रित्य अनुत्तरां सम्यक्संबोधिमभिसंबुद्धाः ॥ 

tryadhvavyavasthitāḥ sarvabuddhāḥ prajñāpāramitāmāśritya anuttarāṃ samyaksaṃbodhimabhisaṃbuddhāḥ ॥

 菩薩たちはこうした道のりから涅槃を獲得しようとせず、般若波羅蜜多に依存して、心に遮蔽をもたないものとして住み続ける。心に遮蔽がないのだから、恐怖を抱かないし、錯倒を超越しているし、究極の涅槃を有している。三世に住する一切のブッダたちは般若波羅蜜多に依存して、無上にして正しく完全な覚醒にありありと覚醒したのである。

羅什 以無所得故

   菩薩 依般若波羅蜜 故

   心無罜礙 無罜礙 故 無有恐怖

   離一切顛倒夢想苦惱 究竟涅槃

   三世諸佛 依般若波羅蜜 故

   得 阿耨多羅三藐三菩提

玄奘 以無所得故

   菩提薩埵 依般若波羅蜜多 故

   心無罣礙 無罣礙 故 無有恐怖

   遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

   三世諸仏 依般若波羅蜜多 故

   得 阿耨多羅三藐三菩提

 鳩摩羅什が菩薩と略したところを、玄奘は何故か菩提薩埵に開いている。冒頭の観世音「菩薩」は bodhisattvo で、こっちは bodhisattva 。ここの語尾変化がなんか関連してるんだろうか。ここは読み味優先とかそんな感じなんでしょうかね。

 にしても āśrityānuttarāṃ saṃyaksambodhiṃ、アーシュリトヤーヌッタラーム・サムヤックサンボーディムを「あのくたらさんみゃくさんぼだい」と、ぜんぜん違う発音にしといてどんだけ真言として効果があるんだって感じはします。「よりすぐれた目覚め」じゃねんじゃ。目覚めはひとつだろうが。まぁ目覚めだと思い込んでたけどぜんぜん目覚めじゃありませんでした、はいくらでもありますしねー。



तस्माज्ज्ञातव्यः प्रज्ञापारमितामहामन्त्रो महाविद्यामन्त्रो ’नुत्तरमन्त्रो ’समसममन्त्रः सर्वदुःखप्रशमनः सत्यममिथ्यत्वात्  प्रज्ञापारमितायामुक्तो मन्त्रः ।  तद्यथा

tasmājjñātavyaḥ prajñāpāramitāmahāmantro mahāvidyāmantro ’nuttaramantro ’samasamamantraḥ sarvaduḥkhapraśamanaḥ satyamamithyatvāt  prajñāpāramitāyāmukto mantraḥ ।  tadyathā

गते गते पारगते पारसंगते बोधि स्वाहा ॥

gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā ॥

 それゆえに、知られるべきである。般若波羅蜜多は偉大なるマントラ、偉大なる明知のマントラ、無上のマントラ、比肩すべきものなく平等なるマントラにして、ありとあらゆる苦しみを止息させるものである。真実である。虚偽ではない。般若波羅蜜多のもとに、かくマントラが説かれた。

 ガテー(道程よ)・ガテー(道程よ)・パーラガテー(彼岸への道程よ)・パーラサンガテー(彼岸への完全なる道程よ)・ボーディ(覚醒よ)・スワーハー(めでたし)!

羅什 故知般若波羅蜜

   是大明咒 無上明咒 無等等明咒

   能除一切苦 真實不虛

   故說般若波羅蜜咒 即說咒曰

   竭帝 竭帝 波羅竭帝

   波羅僧竭帝 菩提僧莎呵摩訶

   般若波羅蜜大明咒經

玄奘 故知般若波羅蜜多 

   是大神呪 是大明呪

   是無上呪 是無等等呪

   能除一切苦 真実不虚

   故説般若波羅蜜多呪 即説呪日

   羯諦 羯諦 波羅羯諦

   波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

   般若心経

 うん、ここもサンスクリットが玄奘訳に寄せられてる気がします。鳩摩羅什訳が不自然に採用されてなさすぎ。印象としては、まぁ「同じ原文を訳したわけではない」に尽きるかな、と。鳩摩羅什が解説のために色空故無惱壞相以下を挿入し、いやそれいらんやろと玄奘が省いた、とは考えられるのかもですが、是空法 非過去非未來非現在に至っては解説でもなんでもない。あるいはどこかから紛れ込んだんでしょうかね、唐突過ぎる。このサンスクリット経文が後世の再構築とされる説もあるそうですが、これ、ある程度は支持かなー。

 一方、こうまで玄奘訳が鳩摩羅什訳の内容を保管するのであれば、鳩摩羅什訳もまた別の訳経をたたき台にしていた、と考えるのが自然な気もします。というのも、阿耨多羅三藐三菩提の samyaksaṃbodhim における saṃ と波羅僧羯諦の pārasaṃgate における saṃ に付される発音記号が一緒なんですよ。この言葉は、同じインドヨーロッパ語族である英語における same に比定されてるそうです(ちな gate は go)。経典のうち、特別な用語においては原語発音を保管するって思想が見受けられるわけですが、その割にだいぶ珍妙な措置が取られているよう感じられます。こうした宛字の齟齬、ある程度権威化してると想定しなかったら、鳩摩羅什や玄奘みたいな知恵者が見逃すはずもないんじゃ、って思うんですよね。

 まぁ真言は「唱えること」そのものが目的、意味を考える必要がない、だから、それでいいのかもしれませんが。


 本来、般若心経の意味をあーたらこーたらするなら、般若経そのものに突っ込んでけやって感じではあるのですが、まーそこは遠い未来に。「漢文として」意味合いを拾いたい、が目的ですしね。とりあえずここで一旦終了です。仏教がらみの本、これで少しは読みやすくなるかしらね。



なお、デーヴァナーガリー文字は Wikisource から、

https://sa.wikisource.org/wiki/%E0%A4%AA%E0%A5%8D%E0%A4%B0%E0%A4%9C%E0%A5%8D%E0%A4%9E%E0%A4%BE%E0%A4%AA%E0%A4%BE%E0%A4%B0%E0%A4%AE%E0%A4%BF%E0%A4%A4%E0%A4%BE%E0%A4%B9%E0%A5%83%E0%A4%A6%E0%A4%AF

アルファベット表音化は Sanscript にて変換。

https://www.learnsanskrit.org/tools/sanscript/

デーヴァナーガリー文字とかマジで手も足も出ませんですね……なんなんだこれ。

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揺訳 般若心経 ヘツポツ斎 @s8ooo

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