火と僕とサセ子と

惣山沙樹

火と僕とサセ子と

 その女の話を聞いたのは、大学の食堂であった。僕がカツカレーをかきこんでいるとき、近くにいた男子生徒の二人組が、こんなことを言っていたのである。

 二年ダブって今年大学六年目の女がいる。まあまあの美人だ。黒いロングのストレートヘアーで、背は高め。彼女は喫煙所で獲物を探していて、無料でサセてくれるらしい。無料でだ。

 セックスは本来無料であるべきものだと僕は考えていた。穴に棒を突っ込むだけだ。そこに金銭のやり取りが発生するだなんて、ちゃんちゃら可笑しいではないか。肉体の交差、それは単なる生物としての営み。理性ある人間という殻を脱ぎ捨てて行う獣の諸行。それは無料であるべきだ。

 だから僕は、動画にも金を払わない。広告収入が入っているというのは認識はしている。しかし自発的に支払いはしない。僕は無修正のハメ撮り動画に熱中していた。穴に棒を入れる。その局部と局部の重なり合いを食い入るようにして毎晩眺めていた。

 食堂で話を聞くや否や、僕はコンビニでタバコとライターを買った。銘柄のことはよくわからなかったので、唯一映画で見て知っていたマルボロを買った。赤マルというやつだ。僕は一人暮らしの部屋に帰り、ベランダに出て火をつけようとした。上手くつかなかった。調べてみてやっと、息を吸い込みながらつけるのだということを知った。


「ぶえっ……」


 初めての喫煙に僕は涙ぐんだ。フカシは格好悪い。意を決して息を大きく吸い込み、煙を肺に入れた。不味い。なんて不味いんだ。けれど、セックスとタバコの相性はいい気がしていた。僕の見た映画でも、主人公たちはセックスをして、タバコを吸って、それを繰り返していた。

 さあ、心に火はつけた。

 僕は大学の喫煙所に通った。どれがその女かは分からなかった。僕は女性の喫煙者が来る度、舐めるように彼女らを見た。チビな上にデブ、そして童貞の僕には彼女らが皆サセ子に見えた。

 自ら選んでチビでデブになったんじゃない。チビは明らかに親の遺伝だし、デブも体質だ。僕は何も悪くなかった。そして、チビでデブな僕にも立派な人権があった。中学生のときには皆習ったはずだ。僕は人間なのだ。人間である以上、セックスをする権利が僕にはあると自信を持って言えた。

 喫煙所には、やはりというか何というか、男の姿の方が多かった。すらりと背の高い奴も居れば、筋肉質の奴もいた。彼らが童貞であるかどうかはもちろん知る由も無かった。しかし、必ず童貞だった時期はあるはずだ。それが何よりも心強かった。

 原初、人間は誰でも童貞だ。童貞のまま産まれ、童貞のまま幼児期を過ごすのだ。穴に棒を入れた瞬間、童貞は童貞でなくなるが、それで自己が揺らぐことはあるまい。童貞でなくなっても僕は僕だ。

 サセ子に会えなかった夜、僕はハメ撮りを観るか、その気分でないときは映画を観た。その映画の女優は枯れ枝のように貧相な身体つきだった。彼女の金髪は激しく揺れた。ファックユー、ファックミー。僕は自分の腹をちゃぷちゃぷいわせて自慰をした。

 僕はまだ見ぬサセ子の身体を妄想した。妄想の中の彼女は毎回違う体型をしていた。僕のように腹が出た女のこともあったし、映画女優のようにスレンダーなときもあった。ティッシュを何枚も使った。僕の哀れな生命の種は、ゴミ箱という終着点に落ち着き、悲鳴をあげているようだった。

 幾夜もそれを続けているうちに、サセ子の存在は怪談や都市伝説ではないかと思い始めてきた。しかし、僕はそれにすがるより他は無かった。僕はチビでデブだし、女の子との付き合いなんて当然なかった。それに、段階とやらを踏みたくなかった。デートして、手を繋いで、キスをして。そんなまどろっこしいことをしている奴らの気が知れなかった。

 そうして半年ほどが過ぎた。季節は冬になっていた。僕はかじかむ指でライターを取り出し、紫煙をくゆらせていた。

 僕はとうとう、そのサセ子に声をかけられた。本当の名前はサエ子だったかサチ子だったかそれはどうでもいい。サセてくれるのだからサセ子で十分だ。彼女は飲みに行こうと誘ってきた。僕たちは安居酒屋へ行った。

 サセ子は飲んだ。よく飲んだ。ビールジョッキをドカリと右手で置き、左手でタバコを吸った。たまに枝豆を食べた。腹が減ってはセックスはできぬ。僕はサイコロステーキと鶏の鉄板焼を貪り食った。サセ子の顔はよく見ていなかった。のっぺらぼうでも構わない。穴があればそれで良かった。

 僕はなぜ六年間も大学生活をしているのか問うた。それくらいしか話題が無かったのである。彼女には手厚い仕送りがあり、何年かかってもいいから大卒の資格を手に入れろと親に言われているということがわかった。それ以上のことはもう聞かなかった。

 勘定は割り勘にした。同じ大学生だもの、それが道理というものだ。僕はびた一文サセ子に尽くす気は無かった。むしろ彼女の方が明らかに年上なのだ。多く払ってもらってもいいくらいだった。

 僕はサセ子の部屋に連れ込まれた。酷い部屋だった。ローテーブルの上にはいつ食べたのかわからないカップ焼きそばの容器が乗ったままだった。タバコも室内で吸うらしく、灰皿には何本もの吸い殻が積もっていた。一応、消臭剤のようなものがパソコンデスクの上に乗っていた。それでどうにかできる程度ではないくらいすえた臭いが漂っていた。

 サセ子はまずタバコを吸った。僕もならって自分のタバコに火をつけた。じりじりと燃える紙タバコは僕の心のカウントダウンを示していた。大丈夫だ。もう準備ならとっくにできている。

 おそらくサセ子は酷く酔っていたのだと思う。酒臭い息を僕にぶつけてきた。そして僕のズボンのボタンをせわしなく外し、中身を露出させた。彼女はそれをくわえこんだ。くわえながら、自分のパンツをおろしていた。器用な女だ。


「上に乗って、お願いします」


 僕はそう頼んだ。サセ子は僕にまたがった。ズン、と彼女の体重が僕にかかった。何回かすらせているうちに、奇妙な感覚が僕を襲った。


「ま、待って」


 サセ子は棒を引き抜いた。僕はそれを握った。べっとりと赤い血がついていた。


「え? 処女だったの?」


 うんざりしたような声でサセ子が言った。


「そんなわけないでしょ」

「じゃあ生理?」

「違うわよ。あんたから出てるのよ」


 紛れもなく僕の血だということは、ひりつく痛みでようやく理解できた。僕はサセ子を突き飛ばした。壁に頭をぶつけ、彼女は呻いた。僕はパンツとズボンを履いて、部屋を飛び出した。


「痛ぇなクソ野郎!」


 サセ子の絶叫が僕の背中を刺した。

 酒だ。酒を買わねばならぬ。股関の痛みに耐えながら、僕はコンビニへ走った。アサヒスーパードライのロング缶を買い、そのままコンビニの外でごくごくと飲んだ。僕は穴に棒を入れた。だから僕はもう童貞ではない。そのことに僕は泣いた。なぜだか泣いた。コンビニに出入りする客が訝しそうに僕を見ていた。

 童貞でなくなっても、僕は僕であるはずだった。しかし、どうだろう。今まで二十何年間か付き合っていたこの肥満体が遠く思えてきた。これは本当に僕の肉体なのか。僕の意識すらも、宵闇に溶けていくようだった。

 次はタバコだ。タバコを吸えば何とかなる。しかし、タバコは見当たらなかった。サセ子の部屋に置いてきたのだ。新しく買おうかと思ったが、やめた。僕は帰宅してパンツをおろし、ウエットティッシュで丁寧に股間を拭いた。血はもう、止まっていた。

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火と僕とサセ子と 惣山沙樹 @saki-souyama

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