第7話 やりたいことが分からないのですが……

『良かったじゃないですか。ラトナさん。先生の言っていたとおりですよ。正直にエオール様に話してみたらどうですか?』

「でも、エオール様は用無しって私のことをなじるでしょうし、この屋敷の中で誰一人、私の回復を喜ぶ人なんていませんよ」


 私は暗い表情のまま、ミネルヴァに答えました。

 この三か月間、私がまともに話をしたのは、離れに棲みついた幽霊達だけです。

 エオールは最初に宣言していた通り、一度も私のもとには訪れませんでした。

 最初から期待していないので、それはそれで良いのですけど回復したなんて余計なことを伝えたせいで、彼を刺激したくありません。


『確かに、エオール様はともかく、ラトナさんが元気になったところで、あの義父母がいるこの環境じゃ、生きづらいのは分かりますけど……』


 ミネルヴァが膝を抱えて寝台に座っている私に、寄り添ってくれました。


『まあ……何はともあれ、元気になった要因が分からないとね。また具合悪くなっても、周囲の対応に苦労するでしょうし』


 モリンが空中で逆さ吊になりながら、言いました。


(幽霊でも、髪の毛が逆さになるんですね)

 

 私は現実逃避したくて、モリンのだらりと逆さになった髪をぼんやり見てました。


『けど、それで毎日ぼけっーと過ごすのも、勿体なくないですか?』

「……ミネルヴァさん」


 ああ、今まさにそんな感じになってましたかね?

 そうですよね。

 最近まで体が不自由で出来なかったことをしてみたいし、また具合悪くなってしまうのなら、なおの事、色々なことに挑戦してみたい。

 ……でも、それじゃあ、一体何がしたいのかと問われると苦しいところです。

 どうせ、私は死ぬんだからって、諦めていたので、本気で何がしたいのか、私は一度も考えたことがなかったのです。


『じゃあ、とりあえず、この屋敷を出ていくことを目標にしてみたらどう?』

「へっ?」


 モリンに意表をつかれて、私はようやく覚醒しました。


「それって、エオール様に話すことなく、ここを出て行くということですか?」

『だって、元気になっちゃったかもって告白して、怒られたくないんでしょう?』

「……はい」

『あのー。私、一つ分からないんですけど……。ラトナさんって、どうしてエオール様をそんなに怖がっているんですか? 腹立たしい人ですが、別に危害は加えられてませんよね?』


 純粋無垢なミネルヴァの問いかけに、私は腹黒の本音を何とか隠そうとして、失敗しました。


「実は……ですね。エオール様って実家の兄と同じ匂いがするんですよ。美形って躊躇ちゅうちょなく、ブスを蹴落とそうとするじゃないですか?」

『いや……待って下さい。それは偏見』

「分かっていますって。ミネルヴァさん。私の容姿と性根が腐り切っているってことは……」


 ……ええ。もちろん。

 可愛いらしいミネルヴァが顔をひきつらせているのは、私にとって想定内でした。

 光の当たる道で生きてきた人には、分かるはずもないのです。こんな醜い感情。


『そんなこと言わないで下さい。ラトナさんは、とても可愛いのに』

「いいんですよ。本当のことを仰ってくださって。私……鏡で自分のことはよく見ていましたから、自分の見た目がどんなのかはよく知っています」

 

 美形に生まれた兄には似ずに、私は一人凡庸で、地味でした。

 黒髪に黒い瞳。鼻も低いし、唇も薄くて、血色が悪い。

 私の方がここにいる皆様より、よほど幽霊っぽい見た目をしているのです。

 皮肉ですよね。


『まあ、いいわ。だから、ラトナちゃんは、エオール様が無条件に怖いんだってことは分かったわよ』

「モリンさん。私、用無しだって言われて、エオール様に捨てられてしまうのが怖いのだと思います。私には病気以外、何もありません。そう言い渡されている自分が想像ついてしまうので。ようやく出来た私の居場所がなくなってしまうのが怖くて……」

『じゃあ、他に作れば良いんじゃない』

「はっ?」


 これもまた、モリンがとんでもない提案をしてくれました。


『自分の居場所をここの他に作れば良いのよ。そしたら、この屋敷を追い出されても怖くないじゃない? 然るべき時の為に、ある程度自分でお金を持っていた方が良いとは思うけど……』

「そんな簡単に出来る話とは思えないのですが?」

『でも、ラトナちゃん。せっかく動けるようになったのよ。何の経験もしないで、こんなぼろい部屋で、独り年を重ねていくなんて、もったいないじゃない? 私だって生きていたら、色々したかったわよ。ほら、恋愛とかさ』

「それは……」


 そうでしょうね。

 モリンが死者だからこそ、説得力のある言葉です。


 ――生きていたのなら。

 ――元気だったのなら……。


 私だって何度もそう思って、我が身を呪ったことです。

 せっかく念願が叶ったのに……。


 ――私はまだ生きているのに。


 人を羨み、妬み……。

 自分なんて……と、卑屈に生きてきた(今も現在進行中の)私ですが、今ちゃんと生きているのです。

 私がもし死んで幽霊になっていたとしたら、私はモリンと同じ台詞を負の感情一杯に、この場で放っていたことでしょう。


「私、まだ何をしたいのか思いつきませんけど、でも、確かにお金は貯めておきたいです。いざとなった時、丸腰ではエオール様と普通に話すこともできないでしょうし。それに……モリンさんが言っていた恋愛。私にはおこがましいかもしれませんが、いつか誰かと手くらいは繋いでみたいです。あっ、もちろん、このまま元気で離婚できたら……ですけど」


 顔を赤らめながら宣言すると、モリンさんが透明な身体で抱きしめてくれました。


『その程度じゃ駄目でしょう。もっと親密にならなきゃ。でも、よく言ったわ。だったら、お金を貯めながら、色々と挑戦してみましょうよ』

『そうですよ!』


 ミネルヴァが透けた手で、私の手を握りしめてくれました。


『一度しか生きられないんですからね。楽しく生きなきゃ損です』


 身につまされる言葉です。

 お金を稼ぐといっても、稼ぎ方すら分からない私ですが、ここに至って初めて生きることに執着を持つことが出来たのでした。

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