時間が巻き戻ったかのようだった。暗い教室、黴と埃の匂い、向かいあった椅子、それぞれに座る女と少女。足元に置いたライトの光に薬子の横顔が照らされている。これからなにか面白いことでも始まるのかと期待するような含み笑いをしている。

 ――ラトリーは殺してないよ。

 簡単なことだった。薬子はいつでも瞼を細めて意識を集中するだけで真賀人に質問することができる。犯人はラトリーなのか? 幽霊の答えはノーだった。

 ここで話をしていては千香にみつかるかもしれない。菜々歌は薬子を二階の教室に誘った。椅子に腰を下ろし、しばらく声もないまま菜々歌は考えを巡らせていた。

 実のところ、この教室へ来るまでの間に菜々歌は答えを思いついていた。ただ動機がわからない。その人物はなぜ史郎を殺したのか。そもそも薬子がここへ来て水平思考ゲームを提案した目的がわからなくなる。

「犯人は、るららテラスにいますか」

 菜々歌の問いに薬子が頷いた。イエスだ。

「大門敬次、越木飛雄、鎌ヶ家雪乃、平目千香、灰月薬子、春洲菜々歌。犯人はこの六人の誰か」

 再び頷く。イエス。

 想えば、このゲームに言葉のあいまいさはどうしてもつきまとう。もし殺したのがラトリーなら「犯人」という表現は不正確だ。ラトリーは犬であって人ではないのだから「犯犬」とでも呼ぶべきだ。けれど、そこまで言葉の厳密さを気にかけるとイエスでもノーでもないという回答ばかりになり、解く側はかえって混乱してしまう。戸籍上の名前でなければダメだなんて普通はそんなこと気にしないだろう。

 一方で、それでも線引きはあると感じる。広間での謎解きを終えて校舎へ戻ってくるとき、狩猟犬だから面白半分で追いかけたのだろうと千香が言った。そのとき菜々歌はひっかかるものを感じた。ラトリーに殺意が無かったのなら、殺人ではなく事故だ。それこそ「犯人」という表現は似合わない。

「私が知ってる六人と、あなたが知ってる六人は同じ。ペンネームとか、なにか偽名の類で混乱しているなんてことはない」

 ――イエス。

「自殺でも事故でも、そして共犯でもない。史郎さんを殺すつもりで行動した人が一人だけいる」

 ――イエス。

 そもそも真賀人は、いや薬子はなぜラトリーが犯人だと思ったのか。史郎の遺体にラトリーの毛でもついていたのか。菜々歌はそんなもの目にした覚えがない。ラトリーに追いかけられて藪へ自ら突っこんだのなら、ラトリーは史郎に一度も触れておらず毛がつくこともない。

「史郎さんを殴ったのは雪乃さんで、犯人はたまたまその場を目撃した」

 ――イエス。

「犯人はラトリーに命令して史郎さんを藪へ追いこんだ」

 ――イエス。

 答えはもうでたようなものだ。薬子は一昨日も昨日も散歩していてラトリーに逃げられた。飛雄はラトリーにお座りをさせるのに苦労し、マガトがいればと嘆いていた。ラトリーに命令して思いどおりのことをさせられる人物は一人しかいない。その人を「人物」とか「一人」と呼んでいいのかはさておくにしても。

 昨日の朝、薬子は橋の様子を確かめに行く飛雄についていき、渓流の近くに倒れている死体を発見した。それは果たして偶然だったろうか。真賀人の人格は薬子の行動に無意識レベルで影響を与えたり、ときには完全に行動を乗っとることさえできるのかもしれない。

 どうすればいいのか、菜々歌は迷った。この少女を警察につきだすべきなのか。亡くなった兄の人格が宿っているなんて話を信じてもらえるだろうか。

「犯人は、」

 続けて名前を告げようとして、菜々歌は言葉を止めた。

 薬子が顔を上げていた。半眼にしていた瞼をわずかに開いている。あるはずのない表情がそこにあった。今にも泣きだしそうに頬や目のまわりの筋肉が緊張している。この少女にはそぐわない表情だ。まるで救いを求めるような、憐みを乞うような顔をしている。

 なにかが見えてきた。宙を漂う煙のようなものが、徐々に具体的な形に変わっていく。灰月真賀人は十六歳で命を落としたという。菜々歌にしてみればほんの三年前のことだ。けれどそれはとても長い三年間だった。

 薬子に発見されたときの光景が脳裏に蘇った。ただ思いだすだけではない。映画撮影のカメラがそこにあったように情景を別の角度から眺めていた。少女の目の前には草むらに半ば埋もれている女性の姿があった。

 ――たすけて。

 若い女がそう言った。このままでは命を落とすと、いま見放されたら死んでしまうと必死だった。助かりたい一心で精いっぱいの憐みを声に込めた。

 それを真賀人は聞いてしまった。十六歳の多感な少年は、美しい年上の女が必死にすがろうとする姿を目にした。

 すべてはそこから始まった。朝のニュース番組で史郎が指名手配されたことが報道された。菜々歌の命を奪おうとした男の顔写真を薬子は、そして真賀人は目にした。ラトリーを連れた散歩の途中、絶好の機会を得た。

 そして少年はこの教室にやってきた。暴漢から身を挺して守ったほど愛する妹が、警察へ突きだされる危険を覚悟して。それでも少年は知ってもらう衝動を抑えられなかった。愛する女を守った男がここにいると。

「犯人は……」

 同じ言葉をもう一度くりかえす。しかし、その先を続けることはできなかった。

 胸の鼓動が高鳴っていく。闇の中に花が咲いたかのごとく、目の前の顔にひきこまれてゆく。破滅が迫っているのに目を逸らすことができない。ほのかな燐光を放つ青白い花が咲き乱れ、教室を埋め尽くしていく。

 春洲菜々歌が幽霊と恋に落ちたのはそのときだった。


〈了〉

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狼を食べた赤ずきん 小田牧央 @longfish801

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