第19話・電話

――えええ、何でよりによって……!


 がっくり、と紬は肩を落とした。ホテルの部屋で一人きり。そんなタイミングで停電になって見舞われなくてもいいのに、と。まったく、ツイていないとしか言いようがない。

 耳を澄ませば、クーラーの音が止まっているのがわかる。そのうち部屋が蒸し暑くなってしまうことだろう。幸い、月明かりもあって部屋の中は真っ暗というほどではない。とりあえずカーテンと窓を開けることにした。定期点検のお知らせなどもなかったし、基本的に全館停電させるような点検をする時に客など入れないだろう。ということは、多分これはなんらかのトラブルによる、不慮の停電である可能性が高い。

 カーテンを開けると、満月より少し痩せた月が目に入った。今日はいい天気だ月明かりがあるだけで、部屋の中が随分明るくなる。窓を開けると、昼間よりだいぶ涼しくなった風が部屋の中に吹き込んだ。これならまあ、エアコンがなくてもなんとか乗り切ることができるかもしれない。


――こういう時、どうするんだっけ?……まあ、部屋から動かない方がいいよね、多分。しばらくしたら予備電源で復旧できるのかもしれないし……ホテルの人が、声かけにきてくれるかもしれないし。


 風呂はトイレに入っているタイミングでなくてよかった。ひとまずはそう思うべきだろう。というか、そろそろいい時間ではある。トイレも済ませたばかりだし、このまま寝てしまった方がいいのかもしれない。

 スマホを見ると、時刻は既に十時半。いつも寝る時間より少し早いが、良い子ならとっくに就寝していてもおかしくない時間だ。


「ふああ……」


 スマホがあるだけで、なんと心強いことか。ホテルのフリーWi-Fiはルーターの電源が切れてしまったせいかマークが消えてしまっているが、そこそこ高いプランを使っているので4Gでもまだまだ使える。今月ギリギリで危ないということもない。充電も85%あるし、まあなんとかなるだろう。

 ベッドに横になろうとしたその時、スマホが震えた。そういえば、マナーモードにしたまま忘れていたなと思い出す。電話やLINEではなく、メールの着信だった。迷惑メールかな、と思って確認して目を見開く。

 表示されていた名前は――細井紗知。

 つい今日、連絡先の交換をした女子高生ユーチューバーの少女である。そういえば、友人が戻ってきたかどうかを聞かなかった。ひょっとしたら部屋で一人停電に遭遇し、不安に思っているのかもしれない。


『夜分遅くに申し訳ありません。島村さん、今電話かけてもよろしいですか?』


 とりあえずメールを先に送ってきたというわけらしい。それだけで、あの少女が元来真面目な性格なのだとわかる。

 お金のなさそうな女子高校生に通話料金を払わせるのもしのびない。紬はこちらから電話をかけることにした。


「もしもし、紗知ちゃん?私、島村紬だけど」

『し、島村さん!す、すみませんこんな時間に電話しちゃって。急に停電して怖くて。玲愛たちも戻ってきてなくて……』

「いいよ、大丈夫。あ、あと私のことは、紬でいいよ。下の名前で呼ばれる方が好きなんだよね!」


 彼女の不安を払拭したくて、なるべく明るい声を出す。下の名前で呼ばれる方が好き、というのは本当だ。紬、というのは“人と人との絆をつむぐことができる子になってくれますように”という意味で、大好きなお父さんがつけてくれた名前であるものだから。紡、という字とどっちにしようかギリギリまで迷ったんだよ――というのはよく両親が語ってくれる話の一つである。


――しかし。お友達、本当にこの時間になっても戻ってきてないんだ。……心配だな。


 女子高校生が十時半になっても戻ってこない。これは、本格的に事故か迷子を疑うべき案件ではないか。警察には届けたのだろうか。本人はかなり、警察沙汰にするのを渋っていたようだが。


『ありがとうございます、紬、さん。……その、ホテルで停電した時って、どうすればいいんでしょうか?内線電話も通じないし、水も出なくなっちゃって、どうすればいいかわからなくて。このまま部屋にいていいのでしょうか?』


 やっぱり、まずそこから気になるところだろう。紬も、自宅以外で停電に遭遇したのは初めてである。ゆえに、人から聞いた話や、おぼろげな知識しかないのだが。


「部屋にいた方がいいと思う。水が出ないのは、ポンプで水を上の階に押し上げてるからじゃないかな。聞いたことあるよ、マンションとかだと、停電と同時に断水しちゃうって。ポンプを電気で動かしてるから、それが止まっちゃうってことみたい」

『ああ、そうなんですね。じゃあ断水とセットで起きたわけじゃないのか……』

「多分だけどね。それと、停電すると自動的にオートロックは解除されるところが多いって聞いたことあるよ。だから、ドアの鍵は開きっぱなしになると思う。閉じ込められちゃったら大変だし」


 電話で話しながら、紬も玄関へ近づいていく。とりあえず、内側からドアはあっさり開いた。反対側から試してみないことにはなんとも言えないが、多分鍵は開いた状態になっているということなのだろう。

 気になるのは、廊下が随分静かだということである。この時間だから大半の客は既に布団で寝ていて、停電にも気づいていないということなのだろうか。しかし、ホテルの人が走り回っていてもおかしくないような気がするのだが。


「予備電源があれば、すぐに復旧すると思うけど……そうじゃないホテルは復旧まで時間がかかると思う。このホテルがどうかは、私にはわからないや。とりあえず、そのうちホテルの人が来て状況を話してくれると思うから、それまで部屋でじっとしてた方がいいと思うよ。暑かったら、窓開けることを忘れずにね。えっと、部屋は何階?」

『二階です。二階の、204号室です』

「じゃあまあ……泥棒とかの心配もあんまりないって思っておこう。一階の部屋よりセキュリティはいいだろうし。えっと、部屋のどこかに懐中電灯があると思うから、手元に持っておくといいよ。私も探しとく。カーテン開けておけば、今夜はそこそこ明るいだろうし、部屋が真っ暗になることもないとは思うけどね」

『ありがとうございます、本当に……』

「いやいや。困った時はお互い様ってね!」


 暫く、ごそごそという音が聞こえてきた。懐中電灯を探しているのだろう。自分も探しておこう、と紬はベッドルームに戻る。こういうものは大抵、枕元とか、カーテンの近くとか、そのへんに置いてあることが多いはずだ。あるいは内線電話の近くかもしれない。


「あ、あった」


 ありがたいことに、目的のものはすぐに見つかった。懐中電灯を手に取ってスイッチを入れると、一気に明るい光が部屋を満たす。最悪、これがあれば廊下に出ることも可能だろう。


「紗知ちゃん、懐中電灯は電話の横にあったよ。一応持っておこう」

『あ、はい!今紗知も今……』


 その時、紗知の声が中途半端に途絶えた。どうしたんだろう、と思ったところで、電話の向こうからぱたぱたと音が聞こえてくる。どこかに駆け寄った、足音のような。


「どうしたの?」


 何かに気付いたのか。あるいは何か聞こえでもしたのか。紬が声をかけると。


『今、窓の外から変な音がして。水音みたいな……誰か、池に落ちたんでしょうか』

「ええ!?」


 この旅館は、庭に大きな池がある。特に鯉や金魚が泳いでいるわけではないのだが、小さな滝があり、蓮の葉が浮いており、まさに日本庭園といった風情の綺麗な池だった。チェックイン前に写真を撮ったからよく覚えている。

 もしかして、その池に誰かが落ちたのではなかろうか。こんな真っ暗な状態で池に落ちたら大変なことになる。見たところ足がつく程度の浅い池だったが、人間はその気になった水たまりでも溺れることができてしまうイキモノなのだ。顔が水に浸かって身動きがとれなくなったら、浅い池でもまったく油断することができない。

 とりあえず確認しなければ、と慌てて紬はベランダに飛びついた。窓を開け、サンダルを履いて窓の外を見る。そして、ようやく事の異常さに気付いたのだった。

 窓の外が、真っ暗なのである。

 月明かりはあるが、それだけだ。ホテルの明かりどころか、街灯も、少し離れた住宅街の明かりも見えない。どうやら町全体で停電を起こしてしまっているらしい。ひょっとして、どこか大きな電線が切断してしまったのだろうか。地震や雷、土砂崩れが近くであったならさすがに気づきそうなものではあるが。


――これ、結構まずいんじゃないの?復旧にめっちゃ時間かかるやつじゃ……えええ、どうしよう。困るよお。


 はああ、と深くため息をついた時だ。ぼちゃん、びちゃん、という水音がどこからともなく聞こえてきた。そうだ、自分は池を確認したくてベランダに出たのだった、と思い出す。

 紬の部屋からは、丁度真正面に池を臨むことができる。木陰が多くてやや暗いが、それでもまったく様子がうかがえないほどではない。何より、紬は視力が良かった。両目とも2.0。夜目もそれなりにきく方だと自負している。だからわかったのだ。

 庭の池。その水面が、不自然に波打っていることに。それが、石を投げ込まれて波紋を広げるとか、そういう波打ち方ではないのだ。

 文字通り、奥から緩やかに、波が押し寄せているような。ぼちゃん、ばしゃん、という音とともに、やけに濁った黒い水が縁石に打ち寄せているのである。まるで海で、波が浜辺に打ち寄せるかのように。


――何あれ?風もないのに……というか。


 つん、と刺激臭が鼻をついた。思わずおえ、と口元を抑える。なんだろう、この臭いは。掃除していない公衆便所の臭いを、さらに悪化させたかのような。そう、まるで、汚物をため込んだ肥溜めのような。


――き、気持ちわっる。これ何の臭い?一体どこから……。


 その時だった。唐突に、紬の脳裏にあの言葉が蘇ってきたのである。ついさっき見たばかり、ユーチューバーのガッチャンズが紹介していた、下蓋村の言い伝え。かつて、生贄を捧げる方法の一つに、こんなものがあったと言っていなかったか。そう。




『他にも、土を用いないパターンだと、もう使わないことになった井戸に人を落としてしまうっていうのもやったらしいですね。しかも、その井戸にわざわざ、糞尿と泥を混ぜた汚水を大量にため込んで、そこに生贄を落として溺れさせ、蓋を締めて漬物石で固定すると。真っ暗闇の中、汚水の中でひたすらもがき苦しんで生贄は死んでいくわけです。……これは、下蓋村の一人目の生贄がやられた儀式だって噂で……』




 この臭いは、まるで。

 汚物を大量にため込んだ井戸から立ち上ってくるかのような。


――まさか、あの、池に……。


 気づいたその瞬間、紬は見てしまうことになる。ホテルの従業員と思しきスーツ姿の女性が、懐中電灯も持たずに池の方へ歩いていくのを。

 その姿を見た途端、紬は背中にびりり、と衝撃が走るのを感じた。自分でもわからない。直観でしかない。それでもわかってしまったのだ――これは駄目だ、と。


「その池に、近づいちゃ駄目!」


 その場で。紬は絶叫していたのだった。

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