第17話・暗黒

 真っ暗な闇の中、何が起きているのかはさっぱりわからない。段々と目は慣れてきたとはいえ、ぼんやりと藍色の空が見える程度。真っ暗な塀の影で、男女の人影がわたわたと動いているのがなんとなく分かる程度だった。

 確かなことは今、幸優の目の前で――カップルの片割れ(ミカと呼ばれていた)がパニックになっていることだけである。


「ねえ、何?なんなのねえ!?足っ……何があたしの足掴んでんの!?やだ、気持ち悪い、気持ち悪い!」

「お、おい、おいっ!落ち着けってミカ。なんも見えなくてわかんねえんだよ!足を掴んでるって、何が!?」

「わかんないの!ずっと引っ張って……や、やだ、やだ何!?」


 ただ混乱している様子だった女の声が変わった。気持ち悪さと得体の知れなさに怯えているだけだった声に、苦痛の色が混じり始めたのである。


「や、やだやだやだやだ!痛い痛い痛い痛い!噛まれてる、あたし、足噛まれてる!変な虫に噛まれてるの!?それとも刺されてるの?あ、あああ、痛い、痛い痛い痛い痛い痛いよおおおお!!」


 何が起きているのか。闇の中では駆け寄ることさえままならない。ただ、女の悲鳴に混じって、ぶつ、ぶつ、ぶつ、と肉を突き差すような奇妙な音が聞こえ始めたのは確かだ。

 恐らく、何かが彼女を捕まえている。

 その何かを伝って、虫のようなものは這ってきている、ということだろうか?その這ってきた虫が、彼女の足を刺しているか噛んでいる?


――い、いやいやいやいや!どういう状況だよそれ!?


 大体、一体どこから、誰が足を掴んでいるというのか。塀の穴から、不審者が腕を出して女の足を掴んだとでも?それとも――彼女が履いていた側溝から腕が伸びてきているとか?

 それこそあり得ない話ではないか。さっき見た様子だと、側溝はせいぜい、猫やタヌキなら入れるかなといったくらいの大きさの溝である。どうあがいても、人間が入れるほどのサイズではない。そこから腕が伸びてくるなんて、入っているのが子供であっても不可能ではないか。

 そう、生きている人間なら、絶対あり得ないことで。


「ひ、ひっぱらないで、やめて!やめてええええ!た、助けてケイジぃ!」


 ずるるるる、と引きずるような音が聞こえ始めた。女が、側溝に引っ張り込まれようとでもしているのか。


「痛い痛い痛いよおお!虫、虫がパンツの中にも入ってきてんの……やだ痛いい、いいいい、ぎいいいいいいいいいいいいいいいいい!ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」

「ミ、ミカ、ミカ!つ、掴まれ、俺に!」

「いやああああああ、ケイジ、ケイジいいいいい!」


 幸優はただ、怯えてその場に立ち尽くすしかできなかった。まるでむつみ合うように絡む二つの影。しかし、女の影はどんどん、下へ下へと引きずりこまれていくのがわかる。絶対に入れるはずのない、小さな側溝の中に。狭い中に無理やり骨を砕きながら肉を押し込められるのは、果たしてどれほどの苦痛か。いや、それ以前に、這ってくる虫に噛まれて激痛にもがき苦しんでいるのかもしれないが。


――何が、起きてるんだよ?何が……一体何がっ!?


「あががががががががあああああああああああああああ、あああ、あああああ!」

「え、あ、え?」


 女性の声が遠ざかっていく。どんどん不自然に小さく、地面の中に沈み込んでいく。まさか本当にあの狭い側溝の中に引きずり込まれていっているとでもいうのか。

 そして、彼氏の方の戸惑った声。彼女の腕を掴んで引っ張り上げようとした、はずだ。けれどそれができなかったらしく、彼は地面にしゃがみこんで、そして。


「い、ぐううううううううううう!?お、おいやめろ、やめろよこれ!お、俺まで

……!?」


 彼氏の腕がぐぐぐぐ、と側溝の中に引きずり込まれていった。彼女の腕を掴んだまま、彼も“何か”の被害に遭おうとしているのだろうか。

 ここでようやく、幸優は自分が“固まって状況を見ている場合ではない”ということに気付いた。そろそろ目も慣れてきた。多少動くくらいのことはできるはず。助けるか、逃げるか、人を呼ぶか。人道的に考えるなら、何らかの手段を取るべきではないか。


「す、すみません!どうしたんですか!?」


 今気づいた。まるでそうとでもいうように、どうにか声を絞り出した。がさがさに枯れてひっくり返り、我ながら情けないとしか言いようのない声であったが。


「だ、誰かそこにいるのか!?」


 そして、ケイジとかいう彼氏の方も自分の存在を知った模様。地面に四つん這いになって踏ん張りながら、こちらに向けて必死の声を上げる。


「か、彼女が、側溝の中に引きずり込まれちまって!お、俺も、なんかよくわかんないもんに腕引っ張られて、引っ張り込まれそうになってて……!ち、小さな穴のはずなのに、ほんと、彼女そこに入っていっちまって!な、なんか、側溝の中、変な虫だらけでがさがさいってて気持ち悪くて……ぎゃああああああ!?いてえ、いてええいてええええ!か、噛んでくる!こ、こいつ噛んで、あ、ああああああああああっ!」


 真っ暗闇ゆえ、こちらの様子が何も見えていないことを理解したのだろう。言葉で可能な限り説明しようとした、彼は正しい。最大の問題は――説明し、幸優が状況を理解したところで、助けられるかどうかはまったく別問題だったということだが。

 がさがさがさがさ、と何かが蠢くような音。

 ぶちぶちぶちぶち、と皮膚を突き破り、噛み千切るような音。

 それに、男の苦痛を訴える声が混ざり合い、恐ろしい不協和音を奏でている。


「た、助けてくれ!痛い痛い痛い、痛いんだよおおおお!あ、ああああ、ががが、がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 ばきばきばき、ぼきぼきぼき、ぐちゃぐちゃぐちゃ。

 おぞましい音が聞こえ、幸優は震えあがった。とにかく、すぐに動いてやるべきことをやらなければ。回らない頭を捻り、考える、考える、考える。

 と、そこでようやく雪優は、自分がスマホを取り出そうとしていたことを思い出したのだった。そうだ、これで照らせば何かが見えてくるのではないか。


――い、急げ、急げ!


 トートバッグの中を探り、ひんやりとした四角い機械に触れる。ホームボタンを押せば、すぐに眩しい光が灯った。ロックを解除し、ライトアプリを起動する。そして、声が聞こえた方へと向けて。


「!?」


 どさ、と音がした。排水溝の前に、大きなものが落ちた音。そして、“それ”を離して、排水溝に蛇のように引っ込んでいく物体が見えた。それは、一対の腕だ。一瞬だったので男か女か、大人か子供かまでは判別できなかったが。

 排水溝の中では、多数の黒々としたムカデのような蟲が蠢いている。それが、ざざざざ、と波のように引いていくのが見えた――排水溝の中に、どろどろとした大量の血肉の塊を残して。

 そして――そう、それから。

 排水溝の前に残された、大きな物体の正体は。


「あ、あああ、あ」


 それは。腰のあたりで引きちぎられた――男性の、下半身。

 切断面から、さながらホースのように腸管と砕けた背骨が伸びている。大量の血液が、川のように側溝へと流れ出して。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 一体、何がどうしてどうなっているのかさっぱりわからない。雪優にできたのは、悲鳴を上げてその場から逃げ出すことだけだったのである。




 ***




「うううううん!んんんんん!」


 夜。ホテルの部屋で、紬は一人うめき声を上げていた。気分はさながら、生者を求めて彷徨うゾンビだ。

 とりあえず設定と、ざっくりとしたプロットを考えなければいけない。ノートを広げ、筆記用具を出し、書きたいネタをまとめるところから始めたはいいが。

 そもそも、ネタの段階でかなり頓挫している。

 山奥の農村で起きる、因習系ホラー。

 なんらかの原因で封印されていた悪霊が復活し、人々が次々呪われてゾンビのようになってしまう話――にしようというところまでは決まった。しかし、まず“なんらかの原因”というのが思いつかない。最初はユーチューバーがうっかり封印を壊してしまったことにでもしようと思ったが、不自然でない形で封印を壊させるのが存外難しい。何より、今のご時世はありきたりが過ぎるような気がする。他の方法を見つけなければ、と思って一端置いておくことにした。いや、いつまでも置いておいていいわけではないのだけれど。

 それよりも問題は、ゾンビがどのように溢れ出し、主人公を追い詰め、閉鎖された村から脱出できるようにするか、である。

 バイオハザードのパクリをやりたいわけではない。迫ってくる脅威を、もう少しリアルで、かつ和風ホラーに寄せる形にしたいのだ。ひとまずゾンビと名称したが、できればここも日本のホラーっぽい別の名前がほしい。ナントカ鬼、とかつくとそれっぽいだろうか。いや、それもそれで、前にどっかで似たような名前のゾンビを見たことがあるような気がしないでもなく。


――主人公は、私と同じ女子大生くらいにする?若い子の方が、共感してもらいやすそうだし。なんなら、相棒におじさんとかを添えれば、年配者にもわかりやすい話になるかも?


 サークルの合宿で、田舎の村に来たということにしようか。相棒は、大学教授。それなら、女子大生と一緒に行動しても何もおかしくないし、オカルトに詳しい先生ということにすれば戦力としても申し分ないはずだ。

 サークル合宿中に運悪く、村の地下の悪霊の封印が解けてしまう。

 その悪霊に触れられた者は、次々死んで、自分達も悪霊になってしまうということにしよう。生きている者達が妬ましくて次々と襲ってくるというパターンだ。問題は、ただの悪霊相手だと“部屋に鍵をかけて籠城”が通用するのか怪しいということ。ゾンビ映画で籠城が可能なのは、あくまでゾンビが“物質的な存在だから”に他ならないのだから。


――ううん、敵を悪霊、にするのが無理なのかな。じゃあ、まったく別の怪物、にするとか?


 そういえば、と紬はあることに気付いた。

 この下蓋村の地下に封印されている、と言う存在。それについて、貴子や貴子のおじいさん達はなんと言っていただろうか。確か。




『そ。なんでも、下蓋村って、すっごく“良くな居場所”にある村なんだってさ。周囲を山に囲まれた、くぼんだ土地で……。山から下りてくる邪気とかが、村のあたりに思いっきり溜まっちゃうんだって。その場所に、怖い神様?だとか妖怪?みたいなのが住み着いて、大昔悪さをしてたっていうのよ』




『実は、私らもあんまり詳しいことを知らんのや。昔々……本当に、それはもう神話の時代くらいの昔。この山に囲まれた土地に悪い気が溜まってしまってな。おっそろしい邪神だかあやかしだか、そういうものが生まれて棲みついてしまったという。その結果近隣の人々を疫病で苦しめ、農作物を枯らし、多くの天災を齎した。それに気づいたとある神社の神主だかなんだか……とにかく偉い人がな、その邪神を、この村の地下深くに封印して、大きな蓋をしたという』




 思い返してみると、二人とも“地下にいるもの”の情報が随分ふわっとしている。邪神なのか、妖怪なのか、それさえはっきりしていない。




『呪い岬、で出て来た邪神!そのモデルになった本物の怪物が、この村の地下に封印されてるって話なんですよねえ!』




 ユーチューバーの女の子たちは“怪物”と呼んでいた。こうして考えてみると誰一人、下蓋村が何を封印している村なのかさえ、ろくに知らないような気がしてならない。なんとなく“怖いものが封じられているらしい?”というぼんやりとした認識しか持っていないような。

 ひょっとして長い月日を経るうちに、邪神(仮)の正体がちゃんと伝言ゲームとして伝っていかなかったということなのだろうか?あるいは、村の中でも一部のエライ人は、ちゃんとその正体を知っているのだろうか。

 結局今日は、神社に行かないで終わってしまっている。明日、神社の人にそれとなく話を訊いてみてもいいかもしれない。


――ネットには、何か載ってるのかな?聖地として有名ってことは、下蓋村について調べたことのある人も多いんだろうし。


 紬はスマホを取り出して、スリープモードを解除したのだった。

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