第14話・晶子

 下蓋村のモチーフとして、蒲公英が用いられることは多い。

 初代村長が蒲公英が好きだったからとか、その程度の理由だったと聞いている。確かに、コンクリートの隙間にも根を伸ばし、逞しく育ち大輪の花を咲かせる蒲公英に好感を持つ人は少なくないだろう。幼い頃、綿毛を吹き飛ばして遊んだ人も多いのではなかろうか。

 マンホールの蓋には、そんな蒲公英の花が彫り込まれている。

 よく、マンホールを見ればその土地の住所がわかるなんて人もいるが、この蓋なんかはその最たるところだろう。大輪の蒲公英が中央に、それから小さな蒲公英が右下に群れるように飾られている。昔から見慣れた、晶子も好きなデザインだった。

 そのマンホールの黒い蓋が、だ。今、小刻みにカタカタ、カタカタ、と震えているのである。


――地震?……いや、足元は別に揺れてなへんよね?


 単純な好奇心。街灯の明かりに照らされた蓋を、まじまじと観察する。

 事故防止のため、マンホールの蓋のようなものは、特殊な危惧や技術がなければ開けられないようになっていると聞いたことがある。また、行政の許可も必要だ、とかそんな話もあったような。新聞かテレビでチラ見しただけの話なので詳しいことは何もわからない。

 要するに、こういったものは簡単に開くようにはできていない、はずなのだ。ところが、さっきから蓋は横ではなく――縦に、震えているように見えるのだ。まるで、中から何かが蓋を押し上げようとでもしているかのように。


――猫でも落ちちゃったんやろか。せやったら助けてあげなあかんけど……。


 いなくなった観光客なんぞより、猫の方がよほど心配だ。しゃがみこんで蓋に触ろうとした、その時だった。


「え」


 住宅街を煌々と照らしていた街灯が、ぱちん、という音とともに消えてしまったのだ。

 一気に周囲は真っ暗闇に包まれた。街灯だけではない、周辺の家の明かりも消えてしまっている。


「やだ、停電?」


 そうとしか思えなかった。よりにもよって、自分が屋外にいる時に。晶子は心底うんざりする。同時に、己が携帯電話の類を持っていなかったことを少しだけ悔やんだ。

 夫は“便利だし、万が一の時の為にも持っておいた方がいい”と勧めてきたが。晶子は使い方を覚えるのが面倒だったこともあって購入しなかったのである。狭い村の中で生きるだけなら、携帯なんて持っていなくてもなんら問題はなかった。しかし、今のように突然闇の中に取り残された時は、携帯があるだけでもまったく状況が違うと気づかされる。

 懐中電灯なんてそうそう持ち歩くものではない。けれど、携帯ならばきっと常日頃持ち歩くものだろう。いきなり明かりが消えても、携帯で照らせば最低限足元は確保できたはずだ。


――どないしよう。……とりあえず、眼が慣れるまで動かん方がええよね?今夜、新月じゃなかったとは思うけど……。


 この闇の中、闇雲に動いて側溝にハマったら笑えもしない。しゃがみこんだまま、まずは目が慣れるまで待とうと判断した。闇に眼が慣れてくれば、月明かりで多少動くこともできるはずだ。お月様を探そうと、空を見たその時である。


 ズズズ、ズ。


「!?」


 重たいものが、ずるずると引きずるようにして動く、音。

 重たいもの――そう、金属を引きずるかのような。


 ズズズズズ。

 ズズズズズ。

 ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ――。


――え、え?これ、目の前、から。


 やっと気が付いた。音は、自分のすぐ目の前から聞こえてくること。

 それが、マンホールの蓋を動かす音によく似ていること。


――うそ、この真っ暗な中で、何か出てくるん?何が……。


 何が。

 そう思った時、ようやく晶子は思い出した。下蓋村のお祭りは三日間行われる。その三日間のお祭りの時、一つだけ、昔から口が酸っぱくなるほど両親から言われた言葉があったことを。


『この村は、悪しきものの上に存在しているから。つまり……本当に恐ろしいものは“下から来る”んや。お祭りをするのは、その封印が夏に最も剥がれやすくなるためと言われとる。せやから、お祭りの時期は油断したらあかん。悪いもんは、明るいところを嫌う。明かりをつけて寝れば、寝ている間に悪いもんに食われる心配はない。でも、真っ暗闇の中やと、そいつらは当たり前のように足元から這い寄ってくる。晶子、あんたも気ィつけや』


 背筋に冷たいものが走った。村の言い伝えなんて、本気で信じたことなんてない。それでも両親があれだけ真剣に言い含めてきたのだから、きっと何か意味はあったはずだ。少なくとも自分は昔から、言いつけを守ってお祭りの時期に夜、明かりを消したことはなかったのだから。


――もしかして、ほんまに……何かがおる、のかもしれへん。この村の下には……!


 明かりをつけなければ。慌てて自分の手元を探す。真っ暗闇の中、買い物かごを探るのも一苦労だった。触れるのは財布や、買ったばかりの牛乳、ハンカチといったものばかり。懐中電灯はもちろん、マッチの一つも入ってはいない。

 危ないけれど、明かりよりも逃げることを考えた方がいいのか。幸い、真っ暗でもだいたいの道はわかる。そのうち目も慣れてくるはずだ。晶子は意を決して買い物かごを肩にかけなおし、立ち上がろうとした――その時である。


 べちゃ。


「ひっ!?」


 何かが、右の足首を掴んだ。ぬるぬる、べたべたに汚れた誰かの手だ。それが、ゆっくりと晶子の足を引っ張り、どこかに引きずっていこうとしている。


「ちょ、やめて!誰!やめてえな、ねえ!!」


 慌てて手で掴み、引きはがそうとした。そして、気づく。

 生臭い。

 鼻孔を突き差すような、血の匂いがしている。しかも、触れた物体が妙にでこぼこしているのだ。確かに晶子の足を掴んでいるのだが――その形が、明らかに歪なのである。

 五本の指が、ない。

 晶子が触れたそれは、親指と、薬指と小指しか見つからなかった。たった三本の指なのに、驚くほど握りしめる力が強い。晶子が全力で引きはがそうとしてもまったく動かない。

 ちぎれた中指らしき場所から、ごつごつとしたものに触れて悲鳴を上げた。切断面から骨が飛び出している。ぬるぬるとした血肉が溢れ続けている。――これが、生きた人間の手であろうか、否。


「いやああああ!やめて、離して、離しなさいよ、ねえっ!!」


 晶子が気付いた瞬間、腕の力が強くなった。闇の中、ずるずるずるずる、とさらにどこかへ引きずられる。

 どこかへ。決まっている――あのマンホールの中へ、だ。がつん、と足が重たいものを蹴飛ばす感触を知った。マンホールの蓋だ。ああ、蓋が完全に、開いている。


「いやああああっ!」


 買い物かごが肩から外れて吹っ飛んでいくのがわかった。必死で腕を左足で蹴るものの、まったく効果がない。一瞬、体が浮き上がるような感覚を得た次の瞬間――晶子の体は深い深い穴の中へと落ちていった。


「ひっ」


 ああ、それで終わったなら。何もわからなくなってしまったならどれだけ良かっただろう?

 暗闇の中、わらわらと自分の体に絡みつく何本もの腕。血なまぐさい腕が晶子の手足を、胴体を、首を、耳を掴んでどこかへ連れていこうとする。

 右足の靴が脱げたのがわかった。いや、脱がされたのだろうか。靴下の上から、何かが力強く親指を掴んだことに気付く。冷たくてかたい感触――これは、ペンチ?


『潰そう、潰そう、潰そう』


 低く、呻くような男の声が聞こえる。


『一本ずつ、指を。指が終わったら、手足を。潰して、引きちぎっていく。長く苦しめて、それから埋める。そうだ、それがいい、それが』


 真っ暗闇の中。血まみれの男の顔が、ぼう、と青白く浮かび上がった。苦痛に顔を歪ませ、憎しみと恐怖に彩られ。その唇が、恨みがましく言葉を紡ぐ。

 それこそが自分達にとって、唯一無二の答えだというように。


「や、やめて、おねがっ」


 何でそんなことをするのか。自分が一体、何をしたというのか。

 ぐ、っと親指を挟む金属の感触が強くなった次の瞬間――ごきごきごき、と骨が砕ける音が響いた。他ならぬ、晶子の体の中から。

 一泊遅れて、足先から迸る激痛が。


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 ぶちぶちぶち、と靴下の布地ごと皮と肉が引きちぎられていく。人間は、小指を箪笥の角にぶつけただけであれだけの痛みを覚えるイキモノなのだ。それが、生きたまま親指をペンチで潰されて引きちぎられるなんてことになったら、どれほど痛いかなんて言うまでもあるまい。

 髪の毛を振り乱し、頭をぶんぶんと振って激痛に喚く。だが、そんな晶子が暴れないようにと、全身を抑える力が強まっただけだった。暗闇の中なので、自分の体が具体的にどうなっているかはわからない。ただ、肉をちぎられたと思しき激痛と音だけが真実だった。

 何で自分がこんな目に。そう思った次の瞬間、今度は右足の人差し指が挟まれる感触が。


「や、やだ、やめてっ」


 今度は人差し指が潰されるのか。未来に気付き絶望するも、逆らう方法など見つかるはずもない。

 ぐぐぐぐ、と力がこめられると同時に、ごきごきごき、と砕けていく骨。ぶちぶちぶち、と引きちぎられていく皮。

 目の前が真っ赤に染まった。


「ひぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!ぎいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」


 じわり、と股間が湿った。漏らしたのだとわかったが、恥だと感じる余裕はない。なんせ、暴れている間に、今度は中指が挟まれたのだから。

 どうして、なんで、一体何が。

 せめてひと思いに殺してくれればいいのに、何故こんな残酷な真似をするのか。


『潰そう、潰そう、潰そう』


 男の声が、縋るように続ける。


『少しでも長く苦しめて蓋をする、少しでも長く痛めつけて固める、下から来ないように、それが、それが、我々の』


 一体どういう意味だ。そう思った刹那、再び激痛が。


「がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 晶子の地獄は、まだ始まったばかりだった。

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