寝室

本編

ひりついた掌をもう片方の手で擦る。

人の頬を張るのは思ったよりも自分へのダメージが大きいということを、わたしはその時初めて知った。

ほとんど反射的と言っていいほど勢いよく放たれたそれは、怒りでも悲しみでもなくある種の自己防衛だった。そしてわたしの目の前で涼が呆気に取られたような顔をしていることが、わたしには信じられなかった。

「いくら怒ってたっていきなりビンタすることないだろう?」

「じゃあ次はちゃんと予告してからする、それならいい?」

「違うよ、おれが言いたいのはそんなことじゃなくて」

「分かってる。わたしだって本気で言ったわけじゃないの、でもとにかく涼の言うことを聞く気はないから」

こういう時口が達者なのは、涼からしてみればわたしの嫌なところだと思う。だけどわたしにだって言い分はある。そもそもこの事態は、涼が引き起こしたことなのだ。

「おれが悪かった、もう後輩の女子と二人で飲みに行ったりしないから」

ぼそぼそと涼が言う。

でも、大事なのはそんなことじゃない。大事なのは、彼が他の女の子と二人きりでお酒を飲んだことではなくて、その行為を彼が躊躇わなかったことだ。居酒屋のドアを開ける時、少しもわたしの顔が脳裏をよぎらなかったこと。

彼女とグラスを傾けあったその時に、もしかしたらあいつが悲しむかもしれない、悲しむとまではいかなくても、いい気持ちはしないかもと、そう思ってくれたらわたしはそれだけでよかったのだ。

だけど今、わたしにぶたれた涼の表情を見てはっきりとわかった。彼はわたしがそんなふうに考えていることなど夢にも思わず、グラスを満たすアルコールを飲み干したのだと。その時涼の中にわたしはいなかった。

それがどんなにわたしを失望させ、投げやりな気持ちにさせるか、彼は知らなかった。そしておそらく、今も知らない。

泣き叫んだりヒステリーを起こす気にはなれなかった。ただ一度だけ涼の頬を叩いて、それでこの話は終わりにしてしまいたかった。

「今日は帰って」

いくらかけても電話に出ないわたしにしびれを切らした涼は、深夜わたしのアパートを訪れた。10分程前のことだ。初めはそれも知らんぷりしてやろうと思ったけれど、寒空の下の恋人を等閑にする自分はよくある痴話喧嘩の登場人物みたいで気に入らなかった。それで、彼を部屋に上げた。

「話聞いてくれるまで帰らない」

粘り強いのと頑固なのとは紙一重だと思う。涼はみっともなくわたしに縋るようなことは決してしないけれど、簡単に引き下がろうともしない。いつものこと。

「それは構わないけど、わたしは寝る」

お風呂から出てすぐに涼が来たせいで、化粧水を付け損なった肌が強ばっている。髪はじっとりと濡れていて、放っておけばじきにがびがびに乾いてしまうだろう。洗面所に行こうとして涼に背を向けた。すると涼がわたしの手首を掴む。しっかりと、意志を感じる力で。

「おれさ」

思いの外落ち着いた声だったし、わたしは振り向かずにいたから本当は涼の顔は見えていなかったのだけれど、それでも涼はきっと泣きそうな目をしていると、そう思った。

「自分が菜那を好きなことに自信があったから、どうしてそれを菜那は分かってくれないんだろうって思ってた。不安になることなんて何もないのにって」

彼が話すことを、わたしは黙って聞いていた。一つひとつの言葉がこれ以上ないくらい正しく伝わってきて、そのあまりの純度の高さに目眩がしそうになる。

「でもそれじゃあ駄目なんだよな」

振り返ると、思った通り涼は泣きそうな目をしていた。泣きそうな目で、わたしのことを見つめていた。

「菜那」

ああ。どうしたってわたしはこの人が好きなのだ。好きで好きで、それと同じくらいこの人にうんざりしていて。うんざりする度に好きだと思うし、好きだからうんざりするのだとも思う。繰り返し。足りない者同士。

涼はわたしの手を引っ張って自分の方に向かせると、もう片方の───まだ少し赤みを帯びた───手も柔らかく握って、膝を曲げてわたしと目線を合わせる。今度はわたしが泣きそうになる番だった。

「好きだよ」

いつか涼の恋人であることを後悔する日が訪れるとしても、わたしは今日この瞬間の涼を忘れないだろう。そしてそれこそがわたしにとって何よりも大事なことで、大事にすべきことだと思うのだ。乾燥した肌を潤すことよりも、生乾きの髪にドライヤーをかけることよりも。


瞳に細かい波を作って見つめ合った今日のわたしたちのことを、覚えておかなくてはならないのだ。

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