本編

   

 鬼子母神という神様の話を知っているかな? 「母」という字が示す通り子供を持つ女性の神様だけど、「鬼」の字も入っているように、元々は鬼みたいに恐ろしい母親でね。

 ただ「鬼みたいに恐ろしい」といっても、自分の子供に対しては優しくて、何百人も何千人もいる子供を全て溺愛していた。問題は「それだけ多くの子供を育てるためには栄養が必要」と言い張って、人間の子供を捕まえて食べていたこと。

 そんな彼女を諭すため、ある時えらい神様が彼女の子供の一人をさらって隠した。パニックになって探し回る彼女に対して「たくさんの中から一人消えるだけでも、それほど悲しむのが母親のさがだ。今までお前が子供を奪った母親たちも同じか、それ以上だったはず」と説くと、彼女は大いに反省。人間の子供を食べるのは止めて、人肉と味が似ているザクロで代用するようになり、自分の子供を返してもらった後、安産や子育ての神様になったという。


 そんな「鬼子母神」を祀るお寺が日本にはいくつか存在していて、そのひとつが俺の地元にある雑司ヶ谷鬼子母神だった。

 そこがこの物語の舞台というかスタート地点なのだが、場所がピンとこない者も多いかもしれないから、地理的な説明をしておくと……。


   


 JR山手線の目白駅を出て、駅前の大通りである目白通りを東に向かって10分ほど歩くと、千登世橋という陸橋になっている。陸橋なので下には川ではなく別の大通りがあり、それが池袋東口の駅前に通じる明治通りだ。

 この千登世橋からさらに少し目白通りを進めば、明治通りへと斜めに抜ける道もあり、鬼子母神通りと呼ばれている。

 雑司ヶ谷鬼子母神の参道に相当するのだろうが、近所に住む俺からすれば商店街みたいなもので、毎日の買い物はそこで済ませるのが慣例だった。

 八百屋や肉屋、子供時代はお菓子を買う店だったパン屋とか、象の人形が店先で目立つ薬屋とか、文具よりもプラモデルが充実していた文房具屋とか、小さな洋食屋、床屋や郵便局もあった。

 真ん中あたりで都電が横切っていて、線路のきわには焼鳥屋や豆腐屋があったが、商店街という雰囲気はそこまで。都電を越えると、いかにも参道という感じに変わる。

 道が二つに分かれていて、どちらも雑司ヶ谷鬼子母神に通じるけれど、正面入り口に至るのは右の方。ケヤキ並木にもなっている分、そちらの方がより「参道」らしかった。左の道から行く場合は裏口っぽいところから鬼子母神の境内へ入る形になるが、その「裏口」手前の駄菓子屋の方が印象深くて、子供の俺にとっては「駄菓子屋へ行く道」というイメージだった。


 そんな鬼子母神で行われる大きなお祭りが、10月の御会式おえしきだ。お寺の祭りだからそれなりの由緒もあるだろうが、子供にとって重要なのはたくさんの屋台。先ほどの「都電を越えて、道が二つに分かれている辺り」から正面入り口まで、そしてもちろん境内の中にも、ずらりと露店が並ぶ。それが3日も続くのだから、俺に限らず雑司が谷の子供たちにとっては毎年、楽しみなお祭りだったはず。


 今から語るのは、そんなお祭りの夜の出来事。まだ俺が小さな頃、といっても幼稚園児ではなく、小学生だった頃の話だ。


   


 俺の場合、お祭りの楽しみのひとつが、普段は買ってもらえないようなおもちゃを買ってもらえること。超合金とかジャンボマシンダーみたいな、子供の目には豪華に見える玩具だ。もちろん縁日に限らず、街のおもちゃ屋でも普通に売っているけれど、お祭りの時こそが特別に買ってもらえる機会だった。

 焼きそばや焼きトウモロコシ、わたあめやリンゴ飴、チョコバナナなど、縁日の定番みたいな露店も出ていたし、金魚すくいやスーパーボールすくいも何度かやったが、型抜きは確か一度で懲りたような覚えがある。

 先ほど述べた「左の参道に面した裏口っぽいところ」から境内に入ってすぐの場所には大きなテントが設置されて、いわゆる見世物小屋になっていた。毎年決まってそこにあるものだから興味も湧いたけれど、親には「子供の見るものではない」と言われて、入れてもらえなかった。

 当時は「大人になったら入ってみよう」と思ったりもしたが、大きくなれば鬼子母神の祭りには行かなくなったし、そもそも「見世物小屋」という文化自体が廃れたからね。どこのお祭りや縁日でも、もう見る機会はないのだろう。


 そんな感じで賑わうお祭りに、親や祖父母などの大人と一緒に出かけて……。

 ある時、俺は人混みの中ではぐれてしまった。いわゆる迷子というやつだ。


   


 境内で出店でみせに目をやりながら歩くうちに、ふと気づいたら一人になっていた。ほんの一瞬前まで母親に手を引かれていたはずなのに、その手の感触がいつなくなったのか、それすら自覚ないほど。

 しかし不思議と、動揺も恐怖も感じなかった。遠出した先で迷子になれば大いに焦るだろうけど、しょせん近所のお祭りだ。鬼子母神は何度も遊びに来ているから帰り道もわかっているし、家族と合流できなければ自分一人で戻ればいい。

 むしろ逆に「自由になった」とか「ちょっとした冒険だ」みたいに、一人になったことをポジティブに感じるくらいだった。


 まずは見世物小屋へ向かってみた。「入っちゃダメ」と言う親がいない今こそ入るチャンスと思ったわけだが、それは子供の浅知恵。よく考えてみればお金を持っておらず、見世物小屋どころか他の屋台で何か買うことも出来ない有様だった。

 ならば出店でみせを見て回っても面白くない。俺は境内を突っ切って、別の裏口から鬼子母神を出た。見世物小屋近くの出入り口とはちょうど反対側の、本堂の右側あたりに位置する出入り口だった。


 その辺りも鬼子母神の参道のはずだが、もう参道らしさは薄くて、住宅街っぽい。唯一の参道らしさは、小さな土産物屋が一軒あること。

 いや「土産物屋」と呼ぶのも大袈裟だろうか。鬼子母神の名物なんて種類も少なく、売っているのは郷土玩具のすすきみみずくだけのはず。俺としては、すすきみみずく屋という認識だった。

 すすきみみずくというのは、その名の通り、すすきで作られたみみずくの人形だ。昔々この辺りに住んでいた貧しい娘が、やまいに倒れた母親のために鬼子母神に祈ったら「すすきの穂でみみずくの人形を作って売り、薬代にしなさい」とお告げがあり、それに従ったのが始まりだという。

 子供や母親が登場する点が、いかにも鬼子母神関連の言い伝えっぽくて、すすきみみずくはその近辺の郷土玩具となっていた。


   


 迷子になった夜に話を戻せば、郷土玩具の話は知っていたものの、だからといって今更、すすきで出来た人形に心惹かれることはなく、そのお店にも興味はなかった。

 そこは素通りして、住宅街の裏道へ入っていく。少しゴチャゴチャした道だが、その辺りは以前に何度も歩いていた。住宅街の先には鬼子母神とは違うお寺だか神社だかがあり、その境内を通ったり灰色の塀に囲まれた墓地の横を歩いたりすると、南池袋や東池袋へ抜ける近道だったのだ。

 しかしその夜は、いつもとは勝手が違っていた。知っている場所のはずなのに、見覚えのない土地を歩いている感じだった。

 夜の暗さのせいかもしれない。背後からは祭りの賑わいが聞こえてくるし、振り返れば一応、それらしき明かりも見えてくる。だから鬼子母神の方角は把握しており、道に迷ったわけではないのだが……。


 みんな祭りへ行ってしまった後らしく、人とすれ違うこともなかった。そんな寂しい住宅街の裏道を歩き続けるうちに、突然ひとつの人影を目にする。

 街灯の影から、小さな女の子がこちらへ向かって走ってきたのだ。

「えっ?」

 という声が俺の口から飛び出したのは、それだけ驚きが大きかったからだろう。

 水色の服と黄色の帽子、同じく黄色の鞄を斜めにかけている姿は、明らかに幼稚園児だった。しかし幼稚園へ通う格好は、祭りの夜の住宅街には場違いで……。


 動揺する俺の前で幼女は立ち止まり、小首を傾げながら声をかけてきた。

「お兄ちゃん、どうしたの? 夜遅くに一人歩きなんてダメだよ。早く帰らないと、誘拐されちゃうよ」

 幼女のくせに、少し大人びた口調。しかも「お前が言うな」とツッコミを入れたくなるような発言内容だ。

「いや、君の方こそ……」

「危ないから、早く帰ろうね!」

 俺の言葉を遮りながら言うと、幼女は再び走り出す。

 その後ろ姿を確認しようと振り返った時には、既に夜の闇の中に消えていた。

「何だったんだ、今のは……」

 独り言と共に視線を下げると、薄茶色の塊が視界に入る。拾い上げてみれば、郷土玩具のすすきみみずくだった。

 幼女が落としていった物らしい。それを手にしたまま正面に向き直った途端、俺は再び驚いてしまう。

 そこに一人の男が立っていたのだ。


 帽子を目深に被り、トレンチコートの襟も立てている。まるで顔を隠したいみたいで、怪しげな男だった。

 突然出現したように感じてしまうけれど、実際には、俺が後ろを見ている間に近寄ってきたのだろうか。

 そう考える俺に対して、男は質問をぶつけてきた。

「おい、坊や。吉本さんの家、知らないかい?」

 広い意味ではこの辺りも地元だが、俺はこの住宅街の人間ではない。だから『吉本さん』と言われてもわからなかった。

 黙って首を横に振ると、男は困ったような顔をする。

「そうか。だったら……」


「それ以上はダメよ」

 いきなり割り込んだのは、大人の女性の声。俺の背後から聞こえてきたので、一瞬「先ほどの女の子か?」と思ってしまう。

 いや実際には「大人の女性の」という時点で幼女のはずもなく、振り返って確認すれば、当然のように別人。顔の輪郭や目鼻立ちなど、あの幼稚園児とは似ても似つかない、20代か30代くらいの女の人だった。


「お前は……」

 彼女を見て、トレンチコートの男が小声で呟く。

 俺が再び前に向き直ると、男は不思議そうな表情を見せていたが、すぐに何かに思い至ったらしく、大きく目を見開いた。

「……そうか! 誘拐までは成功したのか! だけど結局……」

「思い出したなら、もう消えなさい。ただし成仏はさせないわ。私があなたを何度でも呪い殺してあげるから」

 男と女は、俺を挟んで会話する。最後に男は、

「……チッ!」

 と舌打ちしてから、まるで煙かかすみみたいに、スーッと姿を消してしまう。

 驚いて振り返れば、ちょうど女の方も消えるところだった。今まで男がいた場所を、鬼のような形相で睨みつけながら。


 驚きが増すと同時に怖くもなって、俺は走り出した。暗くて寂しい場所にこれ以上いるのは嫌だから、明るく賑やかなお祭りの方へ向かって。


   


 どこをどう走ったのか具体的な記憶はなく、気づいた時には鬼子母神の境内、本堂の前あたりだった。

 いつのまに合流したのか、親たち大人も一緒。しかも不思議なことに、

「ほら、手を離してはダメでしょう? しっかり握っていなさい」

 と、あっさりした口調で言う。俺が迷子になっていた時間などなく、ただ一瞬手が離れただけという雰囲気だった。

 ならば、あれは全て夢だったのだろうか。しかし夢ではなかった証拠として、母親とは反対側の手に、郷土玩具のすすきみみずくが残っていた。


 帰る途中で、大人たちに尋ねてみた。この辺りに『吉本さん』という家はあるか、と。たぶん小さな女の子がいる家だ、と。

 大人たちは顔を見合わせて、なんだか嫌そうな表情を浮かべる。渋々教えてくれたのが、鬼子母神近くの『吉本さん』の家で起きた事件の話で、数年前に一人娘が行方不明になったという。

 幼稚園から帰る途中、母親が一瞬手を離した隙の出来事だったらしい。「一瞬手を離した隙」という状況から母親の不注意を責める者もいたし、しかも彼女は後妻で問題の娘とは血の繋がりがなかったため、いっそう非難は大きくなった。

 世間の風当たりが強すぎたのか、責任を重く感じ過ぎたのか、あるいは両方か。母親は結局、自殺してしまったという。


 噂として広まったのはそこまでで、それ以上の事情は不明らしい。しかし俺が遭遇した者たちの話と照らし合わせるならば、おそらく犯人の男は既に亡くなっているし、自殺した彼女も幽霊となって彼を追いかけ続けているのだろう。

 たとえ血が繋がっていなくても、子供を想う母親の気持ちというのは、それほど大きなものなのだ。その意味では、鬼子母神の話にも微妙に通じる部分があるように思えて……。これが雑司ヶ谷鬼子母神の近くで起きた出来事という点に、俺は妙な感慨を覚えてしまうのだよ。




(完)

   

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幼女が落としたすすきみみずく 烏川 ハル @haru_karasugawa

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