どうしようもない

惟風

どうしようもない

 SNSで知り合った女の子に、僕は恋をした。

 このご時世、よくある話ではあると思う。これが自分以外の友人の語る話なら、僕は一笑に付すだけで終わらせていただろう。



 大学生になったばかりの僕は、パッとしなかった中高生時代の轍は踏むまいと「大学デビュー」を試みた。

 それは見事、泥濘に嵌ったタイヤのごとく空転した。

 僕は焦った。

 周りの友人達は類友だったはずなのに、分かれた進路の先でやれサークルだやれ合コンだと着実に波に乗り、気がつけば自分だけが泥の中に取り残されていた。こちらからの遊びの誘いは、彼らの輝く新生活の光に焼かれて消えていった。

 僕はSNSに入り浸るようになった。趣味についての語らいから広がっていったネットの世界には、日常生活から失われてしまった他者との繋がりが薄く軽やかに存在していた。

 そして、僕は一人の女性アカウントと親しくなった。


 僕は彼女の前で、ネット上だけの緩い関係は気楽で良い、なんて嘯いた。

 もちろん嘘だ。本音では必死に異性を求めていた。このチャンスを何としても逃すまいといきり立った。とはいえネカマなんて珍しくないし、テキストだけでやり取りしている間は女性じゃない可能性を自分の理性のアリバイとしてほんの少し頭に留めていた。

 一年かけて距離を縮めていった。この期間の長さは、忍耐や慎重さといった美徳ではなく単なる臆病さに由来するものだ。

 とはいえ、二度目の大学生の夏休みに差し掛かる頃には何とか音声通話で雑談をするくらい仲良くなっていた。最初に「喋ろう」と言ってきたのは、彼女の方だ。僕は両手でガッツポーズをきめた。

 初めて声を聞いた時の高揚感といったら!

 画面の向こう側で話しだした彼女は、甘さは少ないが柔らかい女の子の声をしていた。


「思ってたより落ち着いた声でびっくりしたー、ホントに私と同い年なの?」

「本物の女子だったことの方が僕はビックリしたよ」

「いやいや実はこれオッサンが頑張って高い声出してるだけだから」

 いたずらっぽく笑う声が耳元で弾けた。僕はぎゅっと目をつぶった。脳が痺れて、幸せの色が瞼の裏に散った。


 SNS上では少し毒舌なキャラクターなのに、実際話してみると明るく聞き上手で本当に楽しそうに笑う女性だった。

 通話が終わった後も猫のアイコンが表示されただけの画面を見つめて、僕はため息をついた。彼女のイメージが膨らんでいく。

 夏場はポニーテールにしないと暑いとボヤいていたから、ロングヘアだろう。まとめ上げた黒髪の下から覗くうなじの汗を思って、僕は蹲った。

 僕は幻視する。星空を宿したような瞳で彼女は笑う。色白で、唇はきっと艶々としていて、上気した頬は滑らかで、白いワンピースを翻して僕に微笑む彼女がひまわり畑の中に立っていた。


 残暑がやっと和らぐ頃、二人で話題のアニメの展示会に行くことになった。これも、誘ってくれたのは彼女の方だ。「こっちから声かけようと思ってた」と僕は強がってみせた。

 待ち合わせの時にわかるように、とお互いの画像を送りあった。僕はたった一枚を送信するのに、百回シャッターをタップした。

 彼女の画像は少し上目遣いのアップだった。明るい茶髪のショートカット、やや離れ目で、小ぶりな瞳の色もやや茶色がかっていた。カラコンかもしれない。

 想像との落差に、「え……」と小さく声が出た。こちらの勝手な妄想とはいえ、清楚な黒髪ロングでも、パッチリ二重でもなかったことに軽い衝撃を受けた。

「髪、伸ばしてると思ってた」

「こないだ切ったとこなんだー 顔面もっと盛りたかったけど、別人すぎたら会った時にわかんないだろうから我慢した笑」と返ってきた。

 脳内の彼女のイメージを修正することに必死で、その後の返信は雑になった。

 寝る前に何度も彼女の画像を見返して、「まあこれはこれで」と自分を納得させた。白よりも、濃い色のシャツの方が彼女には似合うかもしれない。パンプスをコツコツと鳴らして歩く彼女と手を繋ぐ自分を想像して、胸がいっぱいになった。


 待ち合わせ場所は大きな駅前の噴水広場だった。

 複数の路線が乗り入れており目と鼻の先に地下鉄もあるその駅は、朝から晩まで人の往来が途絶えることはない場所だ。

 気持ちの良い晴天ではあるが、明け方まで雨が降っていたせいで道のあちこちに小さな水たまりが残っていた。

 大勢が行き来するだけあって、周辺には無難なデートを演出できる店も豊富だった。少し足を伸ばせば“ご休憩”できる建物があることも、調査済だ。さすがに初対面の今日……というのは性急すぎる、でもいつかは、という気持ちを固めていた。

 僕は待ち合わせの一時間以上前に到着した。噴水の向こう側にあるコンビニのイートインに陣取って、アイスコーヒーを飲みながら彼女が来るのを待った。店内から待ち合わせ場所がよく見える。家族連れ、旅行者風の団体、カップルなどで賑わっている。僕達も、もうすぐあそこの男女のように笑い合うのだ。近づいて、触れ合って……。僕はニヤニヤ顔を隠すのに苦労した。


 約束の十分前になった。まだ彼女らしい人は来ない。

 緊張が高まると共に、少しムッとした。

 僕はずっと前からここにいるのに、まだ来ないなんて。今日のことを楽しみにしていないのだろうか。


 約束の五分前。

 ショートカットの女性が、改札口から人混みを抜けてこちらへやってくるのが見えた。スマホを片手に辺りをキョロキョロして、誰かを探しているようだった。遠目からでも、彼女だとわかった。彼女はスマホを操作しながら噴水の前まで来ると、駅の方に向き直った。


「もう着いてるかな? 白パーカーにネイビーのロングスカートで噴水前にいまーす」


 彼女からのメッセージが僕のスマホに表示された。

 僕はOKのスタンプを送るとコンビニを出て、彼女の後方からそっと近づいた。

 ちょっと驚かしてやろう、なんてイタズラ心だった。

 近づくにつれて、ふと彼女のスカートの後ろ側にシワが付いているのが目に入った。電車のシートに座っていたせいだろう。うっすらとではあるけど、不格好だと思った。

 足元は白いスニーカーだった。水たまりを踏んだのか、水ハネの黒いシミが踵に小さくついていた。これも、汚い、と瞬間的に感じた。

 僕は思わず立ち止まってしまった。


「わあ、びっくりした!」

 僕が立ち竦んでいると、彼女はこちらに気づいて振り返った。彼女は大口を開けて笑った。右下の奥の銀歯が光を反射していた。画像で見るよりも全体的に日焼けしている。膨らみきった風船が、急速に萎んでいくような心持ちがした。


 展示会への道のりで何を話したのか、ほとんど記憶に残っていない。彼女はニコニコと笑っていたように思う。歩くのが速かった。展示会の後、彼女は美味しいランチの店を紹介してくれた。

 僕はただパニックになって、何度も額の汗を拭いた。夢にまで見た彼女は、僕のシミュレーションと何一つ合致しなくて、どうして良いかわからなくなってしまった。

 決して彼女のことが嫌いになったわけじゃなくて、ただ、直面する生々しさ――人間の生臭さと言い換えても良い――の一つ一つに耐えられなかった。

 生身の人間として彼女と向き合うことの恐怖に足が竦んでいた。


 僕は味のわからないパスタを呑み込んで、彼女が「出ようか」と言うまでじっとしていた。

 店を出たところで「まだちょっと時間あるけど……どうする?」と彼女がスマホを見ながら聞いてきた。上目遣いで見上げてくる茶色い瞳は、思っていたほどウルウルとはしていなかった。

「えっ……と……どうしようか……」

 僕はそれしか返せなくて、空に地面に建物に忙しなく視線をさまよわせた。

「……あー……じゃ、初対面で長く連れ回すのも悪いし、ちょっと早いけど解散しようか」

 彼女の口角は上がっていたけれど、口調には微かに苛立ちが含まれていた。

 その時になってすら僕はロクに言葉が出てこなくて、「そうだね」と絞り出すことしかできなかった。


 帰りの電車の中で、僕はスマホを握りしめて項垂れていた。夕方の車内はそこそこ混んでいた。皆、帰って今日の楽しかった出来事をSNSに書き込んだり友達や恋人と振り返ったりするのだろうか。


 彼女が徹底的に不美人だったり不快な立ち振る舞いをする人であれば良かったのに。期待してたらひどいのが来ちゃってさと後になって友達に笑い話として話せて、何の成果も出せなかった今日という日も思い出にできた。そんなことを考えてしまう時点で自分の品性の下劣さに反吐が出そうになった、でもこの期に及んで「出る」とすらならない、「出そう」で誤魔化してボヤけたところに自分を置きにいくのだから救いようがなかった。

 わかっている。今の僕なら、たとえ美人であっても何かしら言い訳を捻り出して、自分から動かない――動けない、ではなく――免罪符にしていただろう。

 どちらにしろ、自分の行動による結果の責任を取りたくないのだ。



 SNSで知り合った女の子に、僕は恋をした。

 このご時世、よくある話ではあると思う。僕は友人にこの恋の顛末を語らないだろう。


 僕はそっとSNSを開いた。

 彼女のアカウントをブロックしようとして――既に向こうからブロックされていた。

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