漆 除霊の効果

 応接間から本堂へと移った俺達は、正装に着替えた住職による祈祷を受けた。


 本尊の前の護摩壇で高々と炎を燃やし、真言という密教の呪文のようなものを繰り返し唱える、いわゆる〝護摩供養〟というやつだ。


 やはり老人とは思えない、気迫に満ちた声を張りあげて護摩を炊く住職のその背後で、正座して居並ぶ俺達も汗だくになって手を合わせる……。


 締め切られ、真っ赤に燃えあがる炎に不気味な影が揺らめく薄暗い本堂の中、どれくらいその苦痛に耐える時間が続いたのだろうか?


「──よし。やるべきことはやった。あとは御仏のご慈悲に任せるしかないの」


 護摩供養が滞りなく終わり、こちらを振り返った住職にそう言われて我に返ると、なんだか心が少し軽くなったような気がした。


 まあ、汗をかいたからさっぱりしただけのことで、本当にただの気のせいだったのかもしれないが、どこか清々しい気分になれたのは確かだ。


「ともかくもまだ油断は禁物じゃ。とりあえず、しばらくの間はこれを肌身離さず身につけておけ。まだ悪霊はおまえさん達のことを狙っておるからの」


 除霊を終え、ホッと安堵の溜息を吐く俺達に、何かを乗せた漆塗りの盆を差し出しながら住職はそう告げる。


 見ると、それは錦の白い小袋で作られた御守りだった。俺達の人数分、五つ同じものが並んで置かれている。


「よいな? 命が惜しかったら必ず肌身離さず身につけておくのじゃぞ?」


 その御守りを各々手に取った俺達に、住職はもう一度、改めて凄むようにして念を押す。


「あ、は、はい……」


 一方、なんだか一仕事終えたというような心持ちで惚けてしまっていた俺達は、呆然とした面持ちのまま住職に生返事を返した──。




「──いやあ、お祓い受けに来てよかったな! 体が軽くなった気がするぜ!」


 寺からの帰り道、以前の調子を取り戻したモッチャンがハイテンションに声を弾ませる。


「ああ。なんか感覚的にあの店主の呪いから開放されたって感じがするな」


「うん。不安がなくなったっていうか、晴れ晴れとした感じ?」


 それにはサンロウとミハラも賛同の言葉を口にしている。


「住職はああ言ってたけどさ、さすがにもう大丈夫なんじゃねえの? ま、言いつけ通り御守りは持っとくけどな」


 また、エバラは一変したこの精神状態からか、完全に安心し切ってそんなことを言っている。


 それは、俺にしても同じ思いだった……あれほど俺達を苦しめていた店主と人肉の幻覚であるが、最早、あれが目の前に現れることはないような確信がある。


 その上、念のために住職が保険にくれたこの御守りもある……そうだ。すべては終わったのだ。


 俺達はそんな確信を持つと、すっかり救われた気分になって、その日はそれぞれに家路へとついたのであるが……〝人肉館〟の呪いは、まだ完全には終わっていなかった──。




 その夜、心地よい倦怠感とともにベッドで横になった俺は、久しぶりにあの悪夢を見ることもなく、ぐっすりと深い眠りにつくことができた。


 こんなに安心して眠れるのはいつぶりだろうか? 住職はまだ心配しているような口ぶりだったが、〝人肉館〟の悪夢は本当にすべて終わったのだ。


 ……そう、思った矢先のこと。


「……うぅん…」


 せっかく久しぶりの安眠を貪っていたというのに、なぜか俺は不意に目を覚ました。


 部屋の中はまだ暗く、夜が明けたというわけでもない……壁の時計に目をやると、まだ2時半を少し回ったあたりだった。


「……なんだ。まだこんな時間かよ……もう一度寝直すか……」


 そう、独り言を呟き、再び目を閉じようとした俺だったが。


「……!」


 俺の視界の隅に、何か白い影のようなものが映ったのだ。


 と、同時に、いつもの如く身体が重くなり、どんなに力を込めても指一本動かせなくなる……金縛だ。


「…うぅ……うぅぅっ……!」


 逃げることはおろか、口を利くことさえままならない状況の中、その白い影はゆっくりと俺の方へ近づいてくる……言うまでもなく、あの白いコックコートを着た店主である。


 店主はやはりいつもの如く、血塗れの肉切り包丁を頭上高く振り上げると、俺の顔を見下ろせる位置にまで迫ってくる。


「……ううぅ……くっ……」


 なんとかして逃れようと全身の筋肉に力を込めてみるが、相も変わらずまったくもって身体は微動だにしない。


 そんな俺を血走った眼で見下ろし、店主はその口元を凶悪に捻じ曲げる。


 ……またか……今夜もまた、俺はこのままあの包丁で斬り殺されるのだ……いや、現実にそれで死ぬわけではないが、けっきょく除霊してもヤツから逃れることはできなかった……こうして徐々に徐々に精神をすり減らし、まるでなます切り・・・・・にでもされるかのようにして、最後は店主の怨霊に取り殺されてしまうのだ。


「……ひぃっ…!」


 今度もまた振り下ろされる肉切り包丁に、声にならない悲鳴をあげて俺は強く目を瞑る……だが、これまでとは異なり、視界が真っ赤に染まることも、堪えがたい激痛とともに意識を失うようなこともない。


 ……え?


 不思議に思い、恐る恐る目を開いてみると、頭上の店主は悔しそうに表情を歪め、包丁も振り上げたままの姿勢で固まっていた。


 まるで、向こうも金縛りにかかって動けないかのようである。


 ……動けない? ……ああ! そうか!


 そこで、俺はあの御守りのことを思い出した。あの住職にもらった御守りである。


 すっかりその存在を忘れてしまっていたが、住職に言われた通り肌身離さず、首から紐で下げるようにして携帯していたのだ。


 ……もしかして、この御守りのせいで俺を斬れないのか?


 その可能性に気づいた俺の目の前で、店主は俺に斬りつけられないばかりか、口惜しそうな顔をしたまま後退りまでし始める。


「…クゥ……ナマイキナマネヲ……」


 その上、驚くべきことにもヤツは声を発したのだ。


 ヤツの声は初めて聞いた……聞くに堪えないほどの不快極まりない、なんとも耳障りの悪いしわがれ声である。


 喋ったことには驚いたが、ともかくも御守りは効果覿面てきめんだったらしい……俺達の安堵感に反して、ほんとに除霊の祈祷だけでは不充分だったのか……住職の言うことをちゃんと聞いておいてよかった。


「シカタナイ、キサマラ、マトメテイットウブンデユルシテヤル……」


 後退りして俺から距離をとった店主は、再び不快なしわがれ声でそう告げると、闇に溶け込むかのようにしてその姿を消す。


「…………フゥ…」


 と同時に金縛りもようやく解けて、俺は深く溜息を吐く……御守りのおかげでなんとか助かったようだ。


 今度こその本当の安堵感が、自由を取り戻した俺の身体の隅々にまで行き渡る……心身ともに弛緩した俺は、そのまま自然と深い眠りについた──。

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