告発と告白

鮎崎浪人

告発と告白

 一


 控室のテーブルの上には、クラフト紙の茶封筒と一枚の便せん。

 脅迫状である。

 さきほど大学の人事課の事務員によって届けられたそれには差出人の名前はなく、消印は大学の最寄りの郵便局のもので、受付日時は昨日の午前中の時間帯だった。

 宛名は、「P大学総合心理学部 准教授 古都直能ふるいつ なおよし」となっており、手紙には、これから行われる予定のシンポジウムを中止せよ、という旨の内容が印字されている。

「どうする? 中止する?」と佐々木。

「今ならまだ間に合うし」と高柳。

 二人のどこか臆するような視線を黙って受け止めて、古都はしばしの間、天井を見上げてじっと考えていたが、やがてきっぱりと告げた。

「いや、予定どおり決行する」

「大丈夫かな?」、「今なら、まだギリギリ間に合うよ」と佐々木と高柳が不安げな声をあげる。

「ああ、こんな手紙一通を恐れることはない。

 根拠はある。

 この手紙は、たった今、つまりイベント開始の数時間前に普通郵便で送られてきたものだ。

 だけど、一般的に言って、脅迫状というものは、少なくとも数日前に送ってきて、なるべく僕たちに考える時間を与えようとしそうなものじゃないか?

 あるいは、直前になるなら速達を使うとかさ。

 一方、この手紙は普通郵便で消印の日時は昨日の午前中だから、今回はイベント直前に届いたけれど、もしかしたら郵便の都合で間に合わなかった可能性だってある。

 つまり、送り主からすれば、届いても届かなくても、どっちでもよかったんじゃないか、本気で中止させる気なんかないんじゃないかって思えるんだ」

「だけど」と高柳が疑問を呈する。「あえて直前に到着するように送って、考える暇を与えないようにする。

 そうしてイベントを中止させるという効果を狙ったかもよ」

 続けて、佐々木が、

「あるいは、直前になるまで、送るかどうか迷っていたのかもしれないな」

 二人の意見を受けて、古都は素直にうなずいた。

「たしかにその可能性はあるな。

 だけどね、一つおかしなところは、中止しろと命令はしているが、中止しない場合、危害を加えるとか具体的なことを何も書いていないところさ。

 つまり、脅迫状としての強制力が弱いんだな。

 このことからも、確信とまではいかないが、送り主には本気でシンポジウムを中止させる意思なんてないんじゃないかと僕は思うんだが・・・

 脅迫されたためというよりも、むしろ自主的に中止することを要請されているような変な気分だよ。

 でも、こちらには中止すべき理由などないのだから、やはり決行したいと思う」

「わかった、その意見に乗るよ」と佐々木がうなずき、高柳も「やってやろうじゃないか」と意気込んだ。

「ありがとう」

 古都は、心からの感謝の気持ちで二人に頭を下げた。

 と同時に、あらためて固く決意する。

 彼女のために、今日のシンポジウムは必ず成功させなければ。

 そして、僕のためにも・・・

 そのとき、古都のスマートフォンに着信音が鳴った。

 その彼女、立木理保たちき りほからだ。 

「今、どこですか? え? なんですって? ああ駅前ですか」

 あいにく電波の調子が悪く、理保の声はひどく聞き取りにくい。

「え? 大事な話? 

 ここに来てからではダメですか?

 早く今日の打ち合わせを済ませたいんですが・・・

 どんな客層が来ても楽しめるイベントにしたいので、入念に打ち合わせを・・・

 なになに? しに? ああ、シニア層? ええ、もちろん彼らもターゲットですよ。

 ええ? そうじゃない? よく聞こえないな。

 直接話しましょうよ、ね。

 手ぶらで、身一つで来てくだされば、それでいいんです、僕がしっかりフォローしますから。

 え? じさ? ああ、自作のトートバッグですか、あの、身一つというのはあくまで比喩でして・・・」

 いまひとつ要領を得ない会話だったが、とにかく理保がこちらに向かうことだけは確認して通話を切った。

 その後の十数分、仲間と打ち合わせを再開しながらも、ともすれば意識は立木理保に向かいがちで、古都は彼女の到着を心待ちにした。


 二


 彼女との出会いは、四か月ほど前のある暑い夏の日の夕刻だった。

 その日は、夕暮れになる頃から晴天が一転、どしゃぶりの雨が降り出したのだった。

 折りたたみ傘をさして家路を急いでいた古都は、自宅近くの国道で、傘もなく強い雨に打たれるにまかせて、足取りもおぼつかない女性とすれちがった。

 ふだんの古都なら横目でちらりと見て、そのまま通りすぎたことだろう。

 だが、古都はすれちがいざまに振り向くと、後戻りしてその女性に傘をさし向けた。

 後から振り返ってみても、不思議といえばこれほど不思議なこともないのだが、彼がそんな突発的な行動に及んだのは、文字どおり、彼女が「光って」見えたからだった。

 車道を行きかう車や街灯の明かりによってでは断じてない。

 彼女自身だけが、くすんだ町並みと降りしきる雨を背景にきらきらと輝いていた。

「傘もささずに、こんな雨の中を・・・ 風邪ひきますよ」

 そう声をかけたのが、立木理保との出会いだった。

「ありがとう」 

 彼女はつぶやくようにそう言って、なにかを訴えかけるように古都を見つめた。

 古都はその瞳に魅入られたように、いつもの彼なら初対面の女性にそんなふるまいは決してしないのだが、「どこかで休みませんか」と誘ったのだった。

 雨宿りがてら、近くのカフェで温かいエスプレッソをすすりつつ、二人はいろいろな話をした。

 最初は天候やテレビドラマ、芸能界のゴシップなどについての当り障りのない会話だったが、話題が趣味に変わり、お互いに六〇年から七〇年代のフランス映画のファンで、とりわけロベール・アンリコの「ふくろうの河」を偏愛していることを確認し合うと、それまで沈み込んでいた理保の硬い表情がみるみるうちに柔らかな笑顔となった。

 そして遅まきながら、自己紹介めいた流れとなり、古都は現在P大学でメディア心理学科の准教授の職に就く四十五歳でバツイチの独身であること、理保は派遣会社に勤務する三十歳で同じく独身であることを話すに至った。

 さらには軽めの料理を味わいながら飲み物がコーヒーからフランス産の赤ワインへと変わり、ボトルが残り少なくなってきたころには、いつのまにか恋愛遍歴に話が及び、古都は学問に没頭していた自らの責もあるのだが、妻が自分の親友と不倫の末、小学生の娘を連れて去っていってしまい、以来十年ほど誰とも交際せず独り身を貫いていると、初対面の女性を前につい告白していた。

 古都の話につられるように一方の理保も語りだしたが、その話は古都のものよりさらに深刻さを増していた。

 Q女子短大時代から交際していた同級生の男性がいたが、十年の交際の末、三か月前に突然別れを告げられてしまったこと。

 理由は、二十二歳の新しい恋人ができたためであること。

 その若い恋人は、Q女子短大の理事長の娘であること。

 別れ際に、「三十路の豚ババアと結婚するわけねえだろ!」と捨て台詞を吐かれたこと。

 理保の告白を聞いて、古都は強い憤りを感じた。

 その男は、Q女子短大の乳幼児心理学が専門の准教授で、湯上谷篤志ゆがみだに あつしといい、古都も学会でときおり見かける顔だった。

 あんな温厚そうでさわやかで、俳優にでもなれそうなイケメンがそんなことを・・・

 そんなことがあったから、彼女は長い間、悩み抜き、今日もずぶ濡れになりながら街をさまよい歩いていたんだろう。

 許せなかった。

 さらに、理保の話によると、学内で彼のセクハラ、パワハラの噂が絶えないことを、湯上谷と別れた後で親しい友人から聞かされてとても驚いたという。

 絶対に許すまじ!

 古都は率直に彼が感じた怒りや義憤を理保に伝えた。

 理保は、古都の興奮ぶりに初めはとまどったようだが、古都が真摯な態度で共感してくれることがうれしかったのか、徐々に打ち解けた表情に変わっていき、弾む会話は三時間を超え、いつのまにか雨はあがっていた。

 友好的な雰囲気のまま、lineを交換してその日は別れた。

 古都は、久々に満ち足りた気分にひたった。

 妻に去られて以来、女性を愛することができなくなってしまっていた。

 最愛の女性を失った痛みが彼の心をむしばみ、女性から言い寄られたり、あるいは周囲のはからいでお見合いめいた席をもうけたりして、愛の芽が噴き出しそうになっても、その都度、臆病の虫が顔をのぞかせてその芽を食い荒らし、今一歩を踏み出せないでいるまま四十代の半ばに差しかかってしまったのだが、理保に対しては、絶えて久しかったうずくような渇望を覚えた。

 と同時に、激しい怒りを抱いた。

 むろん、湯上谷に対して、である。

 あのような屈辱を受けたまま彼女が泣き寝入りしては、彼女はまったく救われないではないか。

 あまりにも残酷すぎる。

 年齢や容姿で女性を侮蔑し差別する。

 なんという浅ましく卑しい男だろうか。

 男女平等が叫ばれ、女性蔑視が糾弾されるのが当たり前の昨今で、こんな昭和時代の遺物のような男がのうのうと生息していようとは!

 その後も古都は理保にたびたび会って湯上谷のことを聞き出し、また、仕事の合間を縫ってはQ女子短大に出向いて、湯上谷を知る人たちに取材を行った。

 その結果、こんな最低の男が教育者という地位にのさばっているなんて、絶対に許されるべきではないという信念が形成されていったのだった。

 古都はTwitterなどのSNSを駆使し、誹謗中傷におちいることなく、あくまでも冷静に客観的事実に基づいて湯上谷を批判した。

 すると、この問題を身近に感じたとみえ、大学生を中心に大きな反響があった。

 また、様々な大学の教師連からも、古都におおむね好意的な反応が集まった。

 これを好機とみた古都は、さらなる湯上谷追撃の手段として学園祭でのシンポジウムを思いつき、あの夏のむし暑い日に初めて話をしたカフェで理保に提案した。

「なにもそこまでしなくても・・・」と、理保は古都の申し出を渋った。

 理保のこの反応は古都にとって予想外であったが、短い交友期間のうちに、理保の奥ゆかしさやその底に厳然として存在する芯の強さを感じ取っていた古都は、理保のそっけない応答の真意が痛いほどよくわかるような気がした。

 理保は自分には何も告げず、たったひとりで戦おうとしているのではないだろうか。

 湯上谷に対して訴訟という形で孤独な戦いを挑もうとしているのに違いない。

 その証拠は外見に如実に表れている。 

 およそ一か月半前に出会ったときにはふくよかな体型だったのに、今はだいぶほっそりとしているし、オシャレとはほど遠い着古した感じの、体型にも合わなくっている衣服でいつも自分の前に姿をみせる。

 これらは、湯上谷に対する訴訟に向けて、費用捻出のための節約の結果であるのだろう。

 もっとも、やせた理由の一つは恋する乙女の努力の結果かもしれないけれど・・・

 うふふ、なんていじらしいんだろう。

 義侠心と親愛の情に突き動かされた古都は、向かいに座る理保の両腕を思わずがっしとつかんで、

「理保さん、僕に対して遠慮しているのなら、それは間違いであるとあえて言わせてください。

 ひとりの力はたかが知れています。

 だから、もっと僕を頼ってください!」

 そう言って古都は理保をどうにか説き伏せ、さらに趣旨に賛同する学生や教師に、スタッフや出演者として参加してもらうように要請した。

 そして、今日がP大学の学園祭当日なのだった。


 三


 教室を控室として利用している部屋に、二十人ほどの学生や教師でにぎわう中、最後に立木理保が到着した。

 今日の理保も普段と変わらない装いだった。

 ごくごく薄いメイクをほどこし、肩までの長さの黒髪を無造作に後ろで束ね、少し色の褪せたようなグレイのニットワンピースをまとっている。

 いつもながら、オシャレとはかけ離れた地味すぎるファッションである。

 古都と出会った頃はいわゆるぽっちゃり体型だったのが、最近では瘦せぎすといってもいいくらいの細さで、ワンピースはぶかぶか。

 シンポジウムを控えての緊張からか、その表情は堅い。

 そんな理保に「わあ、これ、かわいい!」と声をかけた少女がいる。

 理保が肩にかけている、クマを刺しゅうしたトートバッグに対する賛辞だった。

「これ手作りなの」と答える理保の表情がこのときはほぐれた。

 その少女は、神希成魅かみき しげみといって、現役のアイドルなのである。

 P大学にほど近い場所に専用劇場を構えるアイドルグループのメンバーで、シンポジウムのゲストして招かれていた。

 学生スタッフの一人に熱狂的なアイドルファンがいて、彼女を推薦したのだ。

 男女平等社会の成熟、女性蔑視の根絶という今回のテーマからいえば、ゲストは例えば子育てと仕事を両立している管理職の女性などがふさわしいかもしれない。

 しかし、男性に媚びを売ってあくどい商売をしていると世間からみられることもあるアイドルもまた女性蔑視の被害者ではないだろうか。

 そんな女性からの意見も貴重なのではないか。

 そう主張する学生スタッフの熱意に折れる形で、古都は承諾した。

 それも一理あると思ったのだ。

 もっとも、大好きなアイドルと間近で接したいというその学生スタッフの門田の下心は見えすいていたが。

 さて、全員が集まったところで、用意された昼食をみんなでわいわいと食べた。

 古都は、理保の緊張のせいだけとは思えないどこか元気のない様子が気がかりだったのだが、一心不乱といった感じでお弁当をぱくぱくと口に入れている姿にいくらか安堵した。

 ただ、持参した白いカルピスウォーターのペットボトルにはいっさい口をつけずにいたので、食べ物をのどに詰まらせやしないかと心配ではあったが。

 昼食後に最終的な打ち合わせをして、本番前のしばしの休憩時間となった。

 めいめいが思い思いの行動をとっていたが、神希と門田の二人はひときわ騒いでいる。

 門田のスマートフォンでプロ野球中継を見ているらしい。

 やがて、門田の「やられた~」という絶叫と神希の「やったぜ!」という歓喜の雄たけびが響き渡った。

 門田いわく「いやあ、今、賭けをしていたんですよ。

 ピッチャーが打席に立ったから、絶対アウトだって僕が言ったら、神希さんが『いや、ホームランを打つかも』って。

『そんなことありえない』って、僕が言ったら、『じゃあ、勝負しますか?』って。

 もちろん僕は応じましたよ。

 そうしたらなんと!

 ライトの前にポトンとボールが落ちたんで、ヒットではあるけれど、僕が勝ったと思ったら、どういうグラウンドの加減か、そのボールが大きく跳ねて、外野手の頭を飛び越えてしまったんですよ!

 外野にボールが点々と転がって、その間にランニングホームランです! 

 いやあ奇跡が起きちゃいましたよ、僕の完敗です」

 悔しそうに、門田は頭をかいている。

 一方、首尾よく一万円をせしめた神希はニコニコとご満悦だ。

 そんな神希に目をやりながら、古都は彼女に対する不快感を抑えられなかった。

 ギャンブル好きなアイドルとはいかがなものか。

 どうしても不真面目だという印象がつきまとう。

 もしかしたら、アイドル活動も遊びの延長戦上で、ストイックに打ち込んでいるわけではないんではなかろうか。

 彼女には、今回のシンポジウムのような硬派なテーマはそぐわないかもしれない。

 彼女をゲストに呼んだのは失敗だったかもしれないという思いがよぎったのだった。

 いまさら後悔しても仕方のないことだったが。


 四


 会場はキャンパス内の中央広場の特設会場だった。

 観客は百五十人程度といったところ。

 エンタテインメント要素の少ないイベントしては、まずまずの入りだろう。

「やっぱり学生さんがほとんどですね。

 古都さんは、会社員の人たちとか、おじいちゃんおばあちゃん世代とかにも来てほしかったんですよね?」

 壇上から観客席をぐるりと見渡して理保が言った。

 隣に座っている古都はうなずいて、

「そうなんです。このテーマには全世代が興味をもってくれなくては困るんですけどね。

 まあ、一歩一歩進んでいくしかないですね」

 今回のシンポジウムはインターネットでも無料で配信される。

 古都はそちらに大きな期待をかけていた。

 いよいよ開始五分前となり、古都が話の組み立てを最終的に頭の中で確認しているとき、ふと脅迫状の送り主について思い当たった。

 よく考えれば、というより深く考えるまでもなく、送り主は湯上谷かもしれないぞ。

 彼こそがイベントを中止させたい張本人ではないか。

 いや、しかし、と古都は思いなおす。

 湯上谷は今まで、古都の言動を完全に黙殺している。

 それに、学究の徒ともあろう者が、言論を封殺するという乱暴な手段に訴えるとは、さすがに思えない。

 やはり湯上谷は送り主ではないだろうと古都は結論づけた。

 とはいえ、湯上谷以外の該当者となると思い浮かぶ人物はいなかったのだが。

 そんな不明な点を残しつつも、定刻通りにシンポジウムは開始された。

 まず古都が立ちあがって、穏やかだが張りのある口調で観衆に語りかける。

「・・・さて、みなさんは、今回のテーマである『男女平等社会の成熟、女性蔑視の根絶』なんて聞くと、なにやら堅苦しい議論を想像されるかもしれませんが、実は全然そんなことはないんですね。

 興味本位ではありますが、テレビのワイドショーや写真週刊誌などでしばしば取り上げられることからも分かるように、みなさんにとってもすごく身近な問題なんでして・・・」

 まず古都は不倫やレイプ、公的な場での女性蔑視発言など、巷をにぎわせた事件を手始めに語ったうえで本題に入るというテクニックで観客をひきつけた。

 さらに、形式的平等と実質的平等の混同が招く諸問題や無意識の先入観に潜む危険性を力説し、最終的には湯上谷の教職からの追放を求める糾弾で話を締めくくった。

 その後もゲストとの活発な討論が行われ(神希の等身大の少女としての意見も好印象だった)、最後には観客との質疑応答を行った。

 何本もの手が上がり、この種のイベントとしてはまずまずの盛況のうちに幕を閉じた。

 だが、持ち時間が十分ほど残っている。

 ここからが古都にとって、第二の正念場であった。

 会場のアナウンスが観客に向かって、今しばらく席を立たないようにと呼びかけている。

 何も聞かされていないはずの理保は、これからなにが起きるのかを探るように、古都をじっと見つめている。

 古都はこれから行うことを考えるとふと恥ずかしくなって、つと視線をそらし理保の手元に目をやった。

 彼女は討論の間も控室からわざわざ持参したカルピスウォーターにはいっさい口をつけなかったんだなあ、とふと頭の片隅で思いつつ、時が来るのを待った。

 やがて、音楽が流れだした。

 最初はアカペラで、しばらくして演奏が加わる。

 軽快なメロディーだ。

 すると、壇上に座っていたゲストたちが立ち上がり、曲にあわせて踊りだす。

 壇上の脇に陣取っていた学生スタッフたちも、一緒に踊りだす。

 さらには、観客席を占めていた学生たちの一部も同調する。

 それらの面々は徐々に壇上に集まると、後方でひとかたまりになって踊りはじめた。 

 最後に、勇気を振り絞って古都も立ち上がり、皆を従えて踊る。

 流れている楽曲は、平井堅の「POP STAR」だ。

 近ごろの流行りに、フラッシュモブ・プロポーズというものがある。

 共通の友人や家族が協力して、公共の場で突然ダンスなどのパフォーマンスを行い、サプライズでプロポーズをするというものだ。

 今、古都たちが行っているのは、その告白版なのである。

 古都の理保に対する想いを知った友人たちが提案し、「そんなガラじゃない」と抵抗した古都だったが、このイベントを盛り上げるためだし、きっと彼女は喜ぶからという説得に負けて、ついには賛成したのだった。

「POP STAR」は比較的ダンスが平易なので、素人でもそれなりのレベルに達することができるとはいえ、古都を含めほとんどの者が未経験だった。

 理保には絶対に知られないようにと警戒しつつ、けっこうな時間をさいて練習を積み重ねたのである(神希だけはぶっつけ本番だったが、ダンスが本業の彼女には造作のないことだった)。

 二分ほどで曲がフェイドアウトすると、古都は唖然として自席で固まっている理保の前にひざまづいた。

「理保さん、偶然の出会いのときから、僕たちは意気投合し、男女平等社会の成熟や女性蔑視の根絶という崇高な目的のために、お互いがんばってきましたね。

 そのうちに僕は、理保さんのことが、いや、ほんとは一目合ったときから、僕はあなたのことが好きになってしまったのです。

 この年になってちょっと恥ずかしいんですけど、この場を借りて言います。

 理保さん、僕と付き合ってください!」

 古都は理保をまっすぐに見つめて右手を差し伸ばした。

 いくらかの時が流れた。

 無表情だった理保の顔に徐々に変化があらわれる。

 その顔には歓喜の色がさしはじめた、わけではなかった。

 紅潮した憤怒の表情がさっと浮かぶと、右手を古都の方にではなく、手元のペットボトルに差し伸ばしてつかみ、すっくと立ち上がった。

 そして、「このバッカ野郎! あんたは何もわかっちゃいないんだ!」と絶叫すると、ペットボトルを口元へともっていく。

 その瞬間。

 パシッ!

 勢いよく伸びてきた左手が理保の手の甲を打ち、彼女が握っていたペットボトルがはたきおとされた。

 口の開いたペットボトルからこぼれでた白色の液体が壇上をひたしていく。

 震えながら立ちすくむ理保。

 神希はさきほど理保の手を強く叩いたその左手を今度は彼女の肩に優しく添え、いたわるように声をかけた。

「理保さん、あなたがとてもつらくて苦しいのは、わたしにも少しはわかっているつもりです。

 でも、自ら命をたつのは絶対にダメです・・・」


 五


 シンポジウムは混乱のうちに解散となった。

 控室に戻った古都は、事情を説明してくれと理保にはげしく詰め寄ったものの、理保はかたくなに口を開こうとしないそぶりだったが、神希が「この際だから、すべてを打ち明けたほうがいいと思います」と穏やかにうながすと、やがてぽつりぽつりと語り始めた。

「古都さん、あなたはなんにもわかっていないのです。

 あの日、出会ったとき、あなたが傘をさし向けてくれたことは、ほんとにうれしかった。

 あの日は、わたしが勤めている派遣会社から突然解雇を告げられた日だったからです。

 これからどうしていいやらわからず、頭の中が空っぽになって、街中をさまよっていたとき、あなたが声をかけてくれた。

 カフェに入って、たくさんお話をして、ほんとに楽しかった。

 湯上谷さんとの失敗に終わった恋愛にも心の底から同情してくれたようで、その優しさがほんとに身に染みました。

 でも、わたしが解雇の告知を受けたことは言いだせなかった。

 だって、あなたは有名大学の准教授。

 一方、わたしは会社をクビになって無職になる。

 そんな自分が恥ずかしくて情けなくて、ほんとのことを言えなかった。

 だから、あなたは、わたしの様子がおかしいのは失恋を引きずるっているせいだと解釈したようでした。

 ほんとは、失恋のことなんか、もはやどうでもよくって、ただこれからどう生きていけばいいのかが不安だったのに・・・

 わたしはそれから一か月後にクビになり、ハローワークなどでも職を探しましたが、このご時世、希望に合った仕事はなかなか見つかるものではありません。

 ただこんなことを言うと、世間の中には、職種にこだわらなければ仕事は見つかるものだ、見つからないのは本人の単なる甘えだ、なんて説教口調で反論する人もいます。

 そんなことをいう人たちは、今まで事務職として働いてきましたわたしに対しても、例えばトラックの運転手や建築現場員、あるいは水商売や風俗業など、仕事はいくらでもあるじゃないかと冷たく突き放すのでしょうね。

 でも、やっぱり人にはそれぞれ向き不向きというものがあると思うのです。 

 それをみなさんは甘えというのでしょうか?

 みなさんがわたしと同じ立場になったら、本当にそんなことができるとお思いでしょうか?

 それはともかく、元から蓄えもなく、高齢で年金暮らしの両親を頼ることができないわたしは、たちまち生活が困窮におちいりました。

 ところが、あなたはそんなわたしの変化にはまるで気づかず、男女平等社会の成熟や女性蔑視の根絶といった理念にとりつかれ、わたしがそんなことを気にかける余裕がないのにも気づかず、わたしを巻き込んでいったのです。

 理念だけでは、ごはんを食べることすらできない。

 たったこれだけのことに気づいてくれないのです。

 もちろん、わたしにも非はあります。

 自分の生活が苦しいと正直に打ち明けることができずに、表面的にはあなたが喜ぶように話を合わせていたんですから。

 だって、あなたには嫌われたくなかったから・・・

 そうしていつしか、あなたのわたしに対するイメージと、実際のわたしの思いとの間には大きなズレができていったんです。

 そして決定的な亀裂が起こりました。

 シンポジウムのことについて具体的な打ち合わせをしているときのことでした。

 わたしはさりげなく、この不景気の中で女性の自殺者が急増していることを話題に挙げてみました。

 するとあなたは、そんなことにはまったく無関心な様子で、しかもわたしが求職中であることなど思いもよらなかったのでしょう、あざ笑うような表情でこう言いました。

『いくら不景気だからって、仕事なんて探せばいくらでもあるのに。

 見つからないのは、百パーセント、本人の甘えですね。

 それで生活が苦しくなって自殺したとしたって、それは、いわゆる自己責任というものですよ』

 わたしは絶望しました。

 この人だけは分かってくれると思っていたのに、見事に裏切られたのです。

 私のあなたに対する好意と信頼は、一転して憎悪に変わりました。

 そんな頃です、シンポジウムの際に、わたしへの告白を企画として行うことを知ったのは。

 みなさんはわたしに隠していたつもりでしょうけど、あなたはウソのつけない性格ですし、わたしはうすうす感づいていたのです。

 そこでわたしは決心したのです。

 シンポジウムでの告白企画の後で自殺してやろうと。

 男女平等や女性蔑視をかかげ、全女性を救おうとした人間が、たったひとりの貧困の女性を救えないとは、なんという皮肉でしょう。

 また、こうしてインパクトのある自殺をすれば、世の中の注目が集まり、わたしのような立場の人間がたくさんいることを世間の人たちに知ってもらえると思ったのです。

 ただ、いったんそう決意したものの、迷いはありました。

 だからといって、あなたに素直に面と向かって生活が困窮していることや自殺を考えていることなんてやっぱり言えなかったし、言いたくもなかった。

 わたしにだって最後のプライドがありますし、それに、さっきもお話したように、あなたは現実に起こっている女性の困窮についてはまるで関心もなければ同情の欠片もないのだから。

 だから、遠回しなやり方ではあるけれども、わたしは脅迫状を送ったのです。

 わたしが絶望して自殺しようとしていることには気づかないまでも、ギリギリのタイミングでもいい、わたしがこのシンポジウムの開催を本当は望んでいないことをあなたに察して欲しかった。

 そしてシンポジウムを中止し、結果的に自殺を止めて欲しかった。

 わたしとしては、あえて強制力のない脅迫状を送り、あなたがわたしの秘めた真意に気づくことを促したかったのです。

 あくまでもあなたの主体的な判断で、シンポジウムを中止してほしかったんです・・・

 そして、今日ここに来る直前のことでした。

 駅を降りたときに突然、やはりあなたに直接訴えてみよう、脅迫状なんて姑息な手段に頼らずに。

 そう思い立ち、電話をかけたのです。

 しかし、運命のいたずらということなのか、電波が不調でわたしの言葉がまったく正確に伝わりませんでした。

 絶望に打ちひしがれながら、こちらに来てみると、脅迫状の内容については検討したようでしたが、やっぱりというか、半ばわたしが予期した通り、あなたは開催の決断を下しました。

 それでもまだ、最後の最後に気づいてくれるんじゃないか、わたしはそう念じつつ、洗濯洗剤を溶かしたペットボトルを持ち込み、あえて口をつけないことで、あなたに注意を向けたのですが・・・

 とうとう、このサインにも気づいてもらえませんでした。

 そこで、いよいよ自殺の覚悟を決め、あのばかばかしい茶番劇が終わり、ペットボトルの中身を飲もうとしたとき、わたしの自殺の意図に気づいていた神希さんが、わたしを救ってくれたのです・・・」

 そう語り終えると、理保は心からの感謝のまなざしを神希に向けた。

 神希は両手を理保の両手にそっとのせて、やわらかく微笑んだ。

 古都はそんな神希に目を移し、不思議でならないというように、さきほどからの疑問を口にした。

「それにしても、神希君、君はなぜ立木さんの自殺の意図に気づいたんです?」

 すると、神希は心底から軽蔑したように、うすら笑いを浮かべた。

「逆に言いたいですね。なぜ気づかなかったんです?と。

 理保さんとは、初対面でしたが、わたしはおや?と思いました。

 体はやせほそり、メイクはごく控えめ、髪は無造作に束ねただけだし、観衆の前に出るのにサイズの合わない着古したワンピースを着ている。

 さらに、昼食のお弁当をむさぼるように食べていました。

 そして、深刻そうに思いつめたような表情。

 これらのことから明らかに、『ああ、この人はそうとう貧しく苦しい生活をしているんだな』とわかりました。

 そう考えたとき、古都さんと理保さんとの電話での会話を思い出し、事態は深刻であると確信するに至りました。

 古都さんは電話で理保さんが『しに』、『じさ』と口にしたのを、よく聞き取れない中で、それぞれシニア、自作と解釈したのですが、本当は理保さんは『死にたい』、『自殺』と言ったのです。

 この解釈が間違いないことは、到着した理保さんが『シニア層』、『自作』といった言葉を使わず、代わりに『おじいちゃんおばあちゃん』、『手作り』と表現していることからも明らかでした。

 そして、白色のペットボトルを手元に置いているにもかかわらず、控室でも壇上でもいっさい飲もうとしなかった。

 それで、わたしは、理保さんの自殺のサインに気づいたのです。

 ああ、そうそう、古都さんは誤解しているようですけれど、わたしはギャンブルが決して好きなわけではありません。

 生活が苦しい理保さんの少しでも助けになるようにと、手っ取り早い手段をとったのです。

 結果は成功でした。

 ビギナーズラックというやつでしょうか。

 それとも神様が味方してくれたのかな?」

 神希はポケットから一万円札を取り出し、それを理保の手に握らせて、

「わたしの安月給では、これぐらいしかできないけれど・・・

 一生懸命に生きていれば、必ずむくわれるときがくるって、わたしはそう信じてます」

 神希の力強い言葉に、理保は満面の笑顔でうなずいた。

「さあ、行きましょう!」

 ほがらかにそう言って、なにかを断ち切るように、理保は勢いをつけて元気よく立ち上がった。

 神希もそれに合わせる。

 理保と神希は長年の親友であるかのように仲良く肩を並べながら、後ろをいっさい振り返ることなく、控室を去っていった。

 そんな二人を、古都はただただ呆然と見送るのみだった。

(了)

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告発と告白 鮎崎浪人 @ayusaki_namihito

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