第18話 日常

「おはよー」

「はよー」

 あちこちで朝のあいさつが聞こえる。

 いつもとかわりない、現実世界での登校風景だ。


「……」

 スミカこと本邸ほんやしきかすみは、ぽーっとした感じで朝の道を歩いていた。

 いや、もとからぽーっとした感じの子ではあるのだが、今朝はいつにもましてぽーっとしている。

 まわりの風景をぼんやり眺める。空、雲、電線。家、ビル、建物。看板や電柱。生け垣、垣根。そして垣根のそばで、猫が気持ちよさそうに寝ていた。

(にゃんこ、かわいいなあ……。ねこねこにゃんこ。ネコネコニコニコ、垣根ににゃんこ。カキネに……ニケちゃん……はっ!?)

 連想がにゃんこから描猫かきねニケ氏までいったところで、急にかすみの顔がパッと赤くなった。いかにも何かを思い出して赤面している、という様子である。


(べ、べ、べつに! あれはゲームの中だし!)

 何かを否定したい、とでもいうようにブンブンッと頭をふる不審者の動きでかすみが歩を進めていると――ちょっと離れたところでかわされる、生徒たちのあいさつが聞こえてきた。


「おっはよー!」

「おーニケちー。はよー」

 級友が呼んだ「ニケ」の名前を聞いて、かすみの体がピクリと反応する。

 そしてニケもすぐにかすみに気づいて、

「あ。、おは――」

 全部を言う前に、シュタタタタッ! すごい速さでかすみが遠ざかっていった。

「……」

 おはよーの手を上げたまま、あっけにとられるニケ。その隣の級友の頭の中では、

(……スミカって誰?)

 とクエスチョンマークが点灯していた。


 光の速さで昇降口を駆け抜けたかすみは、矢のような速さで階段を駆け上がり、煙のように教室に滑りこみ――いつもの席についたときには、いつものあまり存在感のない彼女に戻っていた。

 けれど心臓はバクバクしたままだ。

(う〜〜っ、何だろ!? ニケちゃんの顔、まともに見られないよぉ〜〜っ)


 現実では昨晩のこと。

 ゲーム内の時間では、昼間から夕方にかけてのことだ。

 あの、空が焼け落ちるようなものすごい夕焼けの下の、カフェでの出来事。

 それが原因なことは、自分でもわかっている。

 何か大きなことが起こったわけでもない。むしろ小さな、ささいな出来事だった。

 簡単にいえば、本に夢中になっているかすみスミカを、ニケがスケッチした――ただ、それだけだ。

 けれど、かすみにとっては「それだけ」では終わらなかった。

 ニケが描いてくれた自分の姿は――アバターの容姿をちょっと盛っているのは、まあご愛嬌あいきょうとして――自分でもびっくりするくらい、きれいだった。

「きれい」というか、「惹かれる」というか、「魅力的」というか。

 それは、見た目が美人とかそういうのではなくて、もっと根源的な……美術館ですっごい絵を見て、雷に打たれたみたいな衝撃を受けるような、そういう「美」がそこにあったからである。


 ニケが描いたのは、パッと目には読書をしている少女だった。

 けれどニケが描こうとしたのは、読書をしている少女の外見ではなかった。

 ニケがとらえようとしたのは、読書をしている少女の内面そのものだったのである。


 普段の生活では表に出すことのない、心の中。

 もし誰かに見られると、つっつかれて傷つくんじゃないだろうかと思うような、よわく、やわらかく、きずつきやすく、はかないところ。

 ある意味、自分の裸を見られたような、そしてそれを紙の上で形にされて、そこで時間を止められたような――そんな気恥ずかしさが、あのとき心の中に渦巻いたのだった。

 それでいて、「うれしい」とも思った。

 たぶん誰にもわからないであろうことを、ニケはわかってくれる――のかもしれない。自分のやわらかいところを見せても大丈夫な子なのかもしれない。そういった期待感のようなものも確かにあった。

 しゅうしん、うれしさ、高揚感、胸の高鳴り、それでも残る不安感……そんなものが心の中に去来きょらいして、ぐちゃぐちゃになって、わけがわからなくなって、とうとう彼女はフリーズしてしまった。


(あのあと、どうしたっけ……)

 教室の席でぽーっと頬づえをついて思い出す。

 たしかニケもちょっと照れた顔になって、

「あーっと……そろそろいい時間かなー? リアル世界じゃそろそろ朝になってるころかなー。今日はここでお開きにしようか?」

 それに対して、どういう表情で返したのか憶えていない。

 そのあとはログアウトの仕方を教えてもらったはず……。ステータスウィンドウを開いて、タップするだけの簡単な作業をして――


 チチチ……。

 チュンチュン。

 ピューィ。

 リー、ルルル……。

 気がついたら、いつもの小鳥たちの朝の歌声が聞こえていて。

 ――そして、かすみは目覚めたのだった。


(目が覚めたらいつもより早かったけど、いつもよりすっきりしてた……。一晩中がっつりゲームしてたはずなのになあ。ぐっすり寝て起きたみたいで変な感じ……)

 学校の机でぽーっとするのはいつものクセだ。ぽーっとしているか、本を読んでいるかの二択である。

 クラスメートたちはその姿を見て、「本邸ほんやしきさん、アンニュイ……」「ちょっとミステリアスなのがたまんねえ……」と解釈していて、彼女の隠れファンもそれなりにいるのだが、あまり表立ってはアピールしてこない。なので、かすみ本人はまだ感知していない。


 授業中だった。

「はい。それで未来形というのは、be going to ホニャララと動詞の原形がくっつきます。同時に未来をあらわす語句がだいたい後ろにくっついてきますので覚えておいてくださいね。たとえば明日tomorrow、来週next week、来月next month……」

「せんせー。じゃあ、あさっては?」

 先生を試すような、ちょっと生意気な質問がとんだ。

明後日あさってはthe day after tomorrow ね。歌詞とかにも出てくるから、知っているとすぐに意味がわかるわね」

「おおーっ……」

「ふふんっ(どやぁ)」

 黒板の前では、熟女ちゃんが授業を進めている。


 ……、とは?

 英語の授業をしている、菅野かんの先生のことだ。

 菅野かんの雨礼うれい先生。

 最初はみんな「菅野先生」と呼んでいたのが、だんだんくずれて「菅野ちゃん」になる。そして――

 かんのうれい。かんのう、うれい。「官能」と「熟れ」い。先生の名前からこの二つの言葉が抽出ちゅうしゅつできる、と気づける生徒が、このクラスにいたのが運の尽き。

 続けて連想の連鎖反応が起こる。

「官能」ならば「熟女」だろ?

 そこからあだ名が生まれた。

「官能ちゃん」、そして「熟女ちゃん」。

 そしてクラスに定着したのが、熟女ちゃんの方だった。

 しかし本人の前で「熟女ちゃん、ここわかんないんだけど……」とか口走ろうものなら、「アァン?」みたいににらまれるので、それを実行しようという猛者もさは少ない。……しかし皆無かいむではない。


(熟女ちゃん、今日もかっこいいなあ……)

 かすみはぽけーっと先生の姿を眺めていた。パリッとしたパンツスーツスタイル。タイトなつくりのせいか、スタイルの良さが際立っている。このように見てくれはいい。……いいのだ。

 もっとも熟女ちゃんはまだなんとか二十代である。しかし中学生からみた二十代など、おばさ……大変年上の、熟した……大人な女性に思えるので、熟女ととらえられてもしかたがない。

 激安スーパーで、よれよれジャージにボサボサ髪の熟女ちゃんが、ビールをカゴいっぱいにつっこんでいた、という目撃情報もあるにはあるのだが――うん、独身女性にはありがちなことだから、問題ない。


 そんな感じでその日は、いつものようにいつもの日常が過ぎていった。

 そしてかすみは微妙にニケを避け続けていた。授業があるうちはまだいい。けれどすべてが自由になる放課後となると、そうもいかない。

「スミ――かすみ〜? かすみちゃ〜ん?」

「う……」

 昇降口。靴を履き替えようとしているときに、背中にかかってくる猫なで声。とうとうかすみさんがニケさんに捕まってしまった……。

「どうしたんだよぉ〜。どうして今日は避けまくりなのさぁ〜〜(嘘泣)」

「べ、べ、べつに……避けてるとかじゃ……」

 視線を進行方向、戸外に向けたまま、かすみはしどろもどろだ。

「ハッ!? もしかして昨日のことが原因? あぁ、どうして……? 昨日の夜はあんなに激しく求めあったのに……」

 誰かに聞かれたら、激しく誤解されそうなセリフだ。

「そんなヘンなことしてないし――!」

 振り向くと、ニンマリとした表情のニケの顔があった。

「う……」

 やっぱり恥ずかしくて目をそらす。

 現在のかすみの心境としては、「裸の心を見られた気恥ずかしさ」というのがいちばんしっくりくるだろうか。


 するとニケが、ふっと真顔になった。

「えとね、まじめな話だけど。ゲームがイヤだったとか、わたしとあんまりはなしたくないとかだったら――」

「そんなことないっ! もっとしたい!」

 即答。……もっとシたい? ちょっと誤解されそうな返答でもある。

「ほっ……。ん〜? じゃあなんで避けてるのさ〜? このこの〜っ」

「……」

 再びニンマリ顔になったニケが肩を抱いてきた。ニケのほうが小柄なのでがんばって背伸びしている。

「フッ。全部オレに打ち明けてくれても、いいんだ、ぜ……?」

 突然のイケメン・ニケ・ボイスに、かすみは思わずふふっとなってしまった。


「あー……そのね。急に仲良くなりすぎてびっくりしたというか。あんなに長い時間、誰かと一緒にいたこともなかったし……」

「ふんふんっ」

 ボッチなかすみさんの話をニケはしっかり聞いている。聞き上手な子でもある。

「それから、あと、そのー、あのー……、ええと……スケッチ?」

「我が生涯における最高傑作が、何か?」

「ええっ!? ええと、そのー、恥ずかしかった、というか……ごにょごにょ」

「あ……描かれるの嫌だった?」

「べべ、べべ、べつに嫌ってわけでも、ないんだけど……」

 かすみはうまい言葉がみつからない。もどかしい。

「ただちょっときれいすぎたというか……。私あんなにきれいじゃないし」

「かすみはきれいだよ?」

 何をいまさら、という顔でニケがきょとんとしている。

「き、きれいとか……そんなんじゃっ……!」

「あー……なるほど」

 ニケが「察した」顔になった。この子、自分のきれいさに気づいてないな、という表情である。


「だいじょうぶ。あの絵はさ、ほかの人には見せないから。現実世界こっちには持ってこられないし。そのへんは安心していいよ」

「そっかあ……」

 ほっとしていると、

「スクショは持ってこられるけどね!」

「このーっ!」

 そんな感じでイチャイチャしながら、二人は今夜もWBCにログインする約束をして帰途についたのだった。

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