第3話

 結婚式は帝都の大神殿で行われました。帝都大神殿で結婚式が出来るのは侯爵家以上なのだそうです。


 はるかに高いところでアーチを描く神殿の天井には、様々な天井絵が描かれています。大女神様が神々を生み出し世界を創って行く場面でしょう。まぁ、式中の私にはそんな物を見ている余裕はありませんでしたけどね。


 なにしろ皇帝陛下を筆頭とした数十人の来賓に見守られ、真っ白い豪奢なウェディングドレスに身を包み、長い長い裾を引きながらヴァージンロードをお父様に手を引かれて歩くわけです。スカートに足を引っ掛けて転びでもしたら大変です。


 手を引いてくださるお父様のお顔は緊張のあまり角張っていましたけど、私の表情も似たようなものでしょうね。ヴェールがあって助かりました。


 祭壇の前で待つサミュエル様は堂々としたものでしたよ。流石はガーランド侯爵家当主。威厳が違います。私なんかがあの方と並び立って良いのでしょうかね?


 お父様から私の手を引き継ぐと、サミュエル様は幸せそうに笑いました。その表情を見ると私は頬が赤くなってしまいます。


 私とサミュエル様は並んで大女神像の前に出て跪き、大神官の祝福を受けます。


「この日より夫婦となりし二人に大女神の祝福あれ。二人はいついかなる時も助け合い、分かち合わなければならない。空に雲が浮かぶようにお互いがそこにあるのが当然の存在にならなければならない。いずれ大女神様の元に召されるその日まで」


 私とサミュエル様は跪いたまま誓いの言葉を返します。一緒に声を揃えて大女神様に宣誓します。


「「我らこれより夫婦となり、健やかなる時も病める時も愛情を保ち、お互いに協力して過ごす事を大女神様に誓います」」


 大神官がそれを受けてハンドベルをカーンカーンカーンと三回鳴らしました。


「大女神様は貴方達を祝福して下さいました」


 この瞬間、私とサミュエル様は大女神様に認められた夫婦になったのです。


 サミュエル様に抱き寄せられて、誓いのキスをしながら、私は何だか夢の中にいるようでした。我が事とは思えません。


 侯爵邸に移動後に行われた披露宴では、ダークブルーのスーツに身を固めた凛々しいサミュエル様と、薄黄色のドレスを着た私は腕を組んで皆様のご挨拶を受けました。


 皇帝陛下を筆頭に! 帝国の貴顕の皆様が次々やってきては私たちの結婚をお祝いしてくださるのです、ただ事ではありません、流石は帝国の中でも有数の名家であるガーラン侯爵家。指折りの実力者であるサミュエル様です。


 こんな立派な旦那様の横に立って「侯爵夫人」として並び称されるのです。オドオドしていたりビクビクしてはいられません、堂々としていなくては。私は姿勢を正し、昨日までは私よりも遥かに高い身分だった方々のご挨拶を、位が高い者が受ける礼法で受けました。


 そして私とサミュエル様は進み出てお披露目のダンスを踊りました。


 式の前には「妻が死んでからは一度も踊っていないから、踊れるかどうか分からぬな」なんて笑っていらっしゃいましたけど、私の手を引き腰を抱くサミュエル様のダンスは雄大で優雅でしたよ。後で聞きましたが、若かりし頃はダンスの名手として名高かったそうです。


 それに対して私は碌に夜会にも出ませんでしたし、男性にアピールする気も無かったですから、ダンスの稽古はかなりおざなりでした。ですから婚約が決まってから必死に練習いたしましたよ。


 ちなみに、必死に復習したのはダンスだけではなく礼儀作法その他、社交に関わる全ての分野です。伯爵令嬢と侯爵夫人では社交や儀式における重要性が段違いですし必要な礼法礼式も異なりますからね。これが出来ていないと夫であるサミュエル様に恥をかかせる事になります。


 練習の甲斐あって、私とサミュエル様が踊り終えると拍手が湧きました。ほっと一息です。


 サミュエル様と踊り終えると、私とサミュエル様はそれぞれに来賓の方々と踊り始めます。感謝の意を示すためです。私の最初のお相手は畏れ多くも皇帝陛下でしたよ! 手が震えないようにするのが大変でした。


 皇帝陛下は二十五歳と私と同じ歳です。三年前に崩御された先帝陛下の跡を若くして継がれています。茶色い髪とブルーの瞳の、落ち着いた容姿の方です。先帝の頃から重臣として帝国に尽くしているサミュエル様を頼りにしてるそうです。


 陛下の後も公爵様ですとか侯爵家当主、伯爵など帝国を代表する錚々たる皆様が続きます。私は気を抜く暇もありませんでしたよ。


 この時、サミュエル様もご婦人方とダンスを踊っていました。かつての社交界で名手として名高かったサミュエル様が久しぶりに踊ってくださるとあって、沢山の夫人がダンスのお誘いを待って列を作っていましたね。


 そうしてダンスを終え、私は踊り過ぎで怠くなった足で夫の元に向かいました。緊張しっぱなしでしたから、サミュエル様のところで一息吐きたかったのです。私にとってサミュエル様の側は既に、とても安心出来る場所になっていたのでした。


 私はサミュエル様のお側に辿り着きます。


 ……まさかそこで事件が起こるなど考えもしませんでしたよ。


  ◇◇◇


 サミュエル様の所に参りますと、サミュエル様はグラスでお水を飲んでいました。たくさんダンスを踊ったので喉が渇いたのでしょう。私も先ほど頂きました。しかし、サミュエル様は立て続けに二杯、水を飲み干していました。? どうしたのでしょう。


「どうかなさいましたか? サミュエル様」


 私が呼び掛けると、サミュエル様は嬉しそうに微笑みましたが、すぐに眉を顰めてしまいます。しきりに鼻を気にする仕草をしていました。


「うむ、ちょっと妙な匂いがな……」


 サミュエル様は解せないという表情で首を傾げ、またお水を飲みました。見ると、お顔や首元にびっしょりと汗をかいています。私は驚きました。確かに激しいダンスを何回も踊るくらいの事をすれば汗もかくでしょうが、こんな儀礼の場でそんなダンスはしませんし、している様子もありませんでした。


 私は慌ててサミュエル様の腕を引きました。


「サミュエル様。座ってお休み下さい。お疲れになったのでしょう」


 サミュエル様は若々しいですが、もう五十五歳です。持病もお有りと聞いています。私は妻として夫の身体を労わらなければなりません。


「ああ……。そうだな……」


 サミュエル様は私の勧めのまま、ソファーの方に足を踏み出し、その二歩目でガクッと崩れ落ちました。「う……!」と呻き胸を押さえ、膝を付いてしまいます。私は総毛立ちました。


「サミュエル様!」


 必死で重い夫の身体を支えようとしますが、大柄な男性であるサミュエル様の身体は重いです。地面に叩きつけられないようにするのが精一杯でした。サミュエル様は床にうつ伏せに倒れてしまいます。


「キャァー!」「侯爵閣下!」「大変だ!」「医者を呼べ! 早く!」「父上!」


 悲鳴と怒号が飛び交う中、私は必死にサミュエル様に呼びかけました。


「サミュエル様! お気を確かに!」


 サミュエル様は脂汗を顔中から流しながら呻いていましたが、私の声に答えて薄目を開けました。確かに私の事を見ます。


 そして、サミュエル様の肩を掴んでいた私の手を強く握り、絞り出すように仰いました。


「……エクバールを、頼む……!」


 そして目を閉じるとガクッと頭を落として気を失ってしまわれました。


「サミュエル様! サミュエル様ーー!」


 私は悲鳴を上げるしかありませんでした。


 エクバール様が駆け付け、家臣に命じてサミュエル様を別室に運ばせます。医者が呼ばれたようです。当然私も付き添いたかったのですが、来賓の皆様を放置出来ません。私はパニックになりそうな気持ちを何とか理性でねじ伏せて、皆様に不手際をお詫びして、お帰り頂きます。


 皇帝陛下を始め皆様はサミュエル様の容体を心配なされ、私に労りの言葉を残して帰っていかれました。その中のエセルベール伯爵夫人は私の事を抱擁して「大丈夫です。侯爵様はお強い方ですから」と言って慰めて下さいました。物凄く強い香水が私の鼻を麻痺させましたけど、半ば放心していた私は何とも思いませんでしたね。


 来賓の皆様をお帰しし、会場の後始末、屋敷の厳重な警備の手配をして、ようやく私はサミュエル様の所に駆け付けました。サミュエル様は披露宴会場近くの客間の一つに運び込まれておりました。


 お部屋に入ると、ベッドでサミュエル様が苦しそうなお顔でいらっしゃるのが見えました。それを見て、必死に繋いできた私の理性の糸が切れます。


「サミュエル様!」


 私は駆け寄り、夫に取り縋りました。枕元をエクバール様が譲って下さいます。私の目からは涙が溢れてきてしまいました。


「落ち着け。先生。父上は一命を取り留めた」


 エクバール様の言葉に私は頷きました。もしも危篤であれば、流石に私も呼ばれると思っておりましたので、命に別状は無いとは思っていましたが、実際に伝えられて安堵しました。


「ただ、病状は良くない」


 エクバール様の硬い口調に私は思わず顔を上げてしまいます。


「……意識が戻るか、分からぬそうだ」


「! そ、そんな!」


 医師の説明では、サミュエル様は心臓の持病の影響か、一瞬心臓が止まってしまったそうです、しかし、本人の精神力が優ったか、再び心臓は動き出したのですが、その時にしばらく脳に血流を送れない状態になったとか。その影響で意識を失ってしまい、戻らない状況になっているらしいとのことです。


「目覚めるのがいつになるか、分からぬそうだ。明日か、一週間後か、一ヶ月後か、あるいはもう死ぬまでこのままなのか……」


 エクバール様の言葉に、私は足元に底の見えない穴が空き、そのまま真っ逆さまに落ちていってしまうような心地がしました。ガクガクと身体が震え出します。視界が歪んで、何も見えません。


「……父上は、強い。信じるしかない」


 エクバール様の言葉に、私は辛うじて頷きました。そうです。サミュエル様はお強い方です。医師のお話によれば一度死んで戻ってきたとのことではありませんか。きっと帰ってきて下さるに違いありません。しかし、もしも目覚めないなどということがあれば……。


「先生を妻に出来てあれほど喜んでいた父上だ。先生に指一本触れぬまま死ぬような無念な事はせぬだろう。大丈夫だ」


 エクバール様があえて明るい調子で仰いました。もしもサミュエル様がすぐにお目覚めにならない場合、一番大変な事になるのはエクバール様です。帝国の実力者であるお父上のサミュエル様が突然いなくなり、若干十六歳のエクバール様が跡を継がなければならないのですから。


 私は涙を拭いました。泣いている場合ではありません。私は侯爵夫人。そして次期侯爵エクバール様の義母で先生です。サミュエル様にも頼まれました。私がガーランド侯爵家を守らなければなりません。


 私はグッと表情を引き締めて、エクバール様を睨むと、しっかり頷きました。その瞬間エクバール様はなぜか気圧されたように僅かに仰け反りましたね。


 ◇◇◇


 医師を雇い、サミュエル様を看護する状況を整えます。お部屋はサミュエル様の私室に移動しました。侍女と護衛にも付きっきりで付いてもらいます。


 ただ、医師の話ではサミュエル様の病状は安定しているとのことで、急変する危険性はあまり無いだろうとの事でした。


 そもそも、サミュエル様は確かに心臓がお悪かったものの、それほどの事は無く、なぜこんなに大きな発作を起こしたのかは分からないそうです。容体が安定して安心したエクバール様は「先生と結婚出来て興奮し過ぎたのだろう」など軽口を叩いていましたけど、少し不可解です。


 とりあえず、サミュエル様のお目覚めを待つにしても、ガーラン侯爵家としては当主不在の状態を続けるわけには参りません。お目覚めになったとしても後遺症が残る可能性もあり、サミュエル様が速やかに政務に復帰出来ない可能性もあります。


 侯爵領の経営もですが、サミュエル様が帝国政府内でお持ちの地位も放置出来ません。この地位はサミュエル様個人の地位では無く、ガーランド侯爵家の権益だからです。放置して地位に対する責任を果たせないと、皇帝陛下から地位を取り上げられて権益を失ってしまう可能性があります。


 これを防ぐためにはエクバール様をガーランド侯爵家当主代行にして、速やかにサミュエル様の地位と権限を引き継いでもらわなければなりません。エクバール様はお若いとはいえ十六歳。成人済みです。そのくらいのお年で家を引き継ぐ例はままあります。


 この場合、サミュエル様が亡くなっている訳でも無く、隠居の宣言をしたわけではありませんからあくまで代行ですが、一度代行させた地位と権限をサミュエル様がお元気になったから戻すという訳にもいきません。お元気になった暁には正式に隠居届を出して頂き、エクバール様を後見する立場になって頂く事になるでしょう。早すぎる引退ですがやむを得ません。


 私はエクバール様にその事を説明いたしました。エクバール様は驚いていらっしゃいましたね。


「まだ早過ぎるのではないか? もうしばらく父上の目覚めを待ってみても……」


「エクバール様? 甘い事を言っていると、我が家の権益は全て奪われてしまいますよ。ガーランド侯爵家の権勢を羨み、憎んで取って代わりたいと思っているお家はたくさんあるのですからね」


 私はエクバール様を睨みます。ガーランド侯爵家はかねてから名家でしたが、サミュエル様が先帝の信任を受けてから特に権勢を高めたお家です。サミュエル様の剛腕で政敵を吹き飛ばしてその地位を高め、保ってきたのです。


 サミュエル様がお倒れになったこの時こそチャンス、と考える方は少なく無いでしょう。その妄動を防ぐには一刻も早くエクバール様を当主代行にして、サミュエル様の穴を少しでも埋める必要があります。


 私の説明にエクバール様は表情を引き締めました。彼ならば今のガーランド侯爵家がかなり危険な状況にある事が理解出来たでしょう。


「……分かった。当主代行の申請を紋章院と皇帝陛下に出そう。……しかし、私に父の代わりなど出来るだろうか……」


 当然の懸念でしょう。サミュエル様は偉大過ぎますからね。エクバール様はこれからサミュエル様の元で実務経験を積み、二十代前半位で地位と権限を引き継ぐ予定だったのです。準備不足は否めません。


 しかし、私はあえてニッコリと微笑み、楽観的な事を言いました。


「大丈夫です。エクバール様なら。自信をお持ち下さい。私も微力ながらお手伝いいたします」


 するとエクバール様は頬を紅潮させ、力強く頷きました。


「分かった。先生がいれば安心だ。よろしく頼む」


 私だって侯爵家の実務についてはこれからですし、サミュエル様が帝国政府内部でなさっていた業務については何も知りません。安心というほど頼りにならないかも知れませんよ。……とは言えませんでしたね。


 ◇◇◇


 そうして、エクバール様は紋章院と皇帝陛下にガーランド侯爵家の当主代行になるための申請を出しました。緊急ですので、紋章院の認可はすぐに下りました。紋章院は貴族の家や財産の管理をしている機関ですので、これでエクバール様はガーランド侯爵家の財産と家臣たちを自由に動かせる権限を得ることが出来ました。


 ところが、皇帝陛下からの認可が保留になったのです。


「現侯爵が目覚める可能性があるのなら、当主代行の任命はもう少し待ったらどうか。エクバールはまだ若い。慌てて代行に任命しても政府の業務は出来ぬだろう」


 と皇帝陛下が仰って保留になったそうです。


 何を馬鹿な! 私は驚きました。サミュエル様がなさっていた政府業務は国事ですから非常に重要です。つまり何日も放置出来る性格のものではありません。すぐに代行が必要な筈でした。


 代行が必要なのにエクバール様の代行は認めない。つまりサミュエル様の政府業務を他に回す、という意味になります。


 サミュエル様の業務は、ガーランド侯爵家の権益です。サミュエル様が引退なさったらエクバール様がお継ぎになるのが当然のものです。それ以降、エクバール様の能力や功績により、その権益が増減するにせよ、ガーランド侯爵家に何の落ち度も無ければそのままエクバール様に引き継がれねばなりません。それが慣例です。


 それなのに、皇帝陛下が慣例を覆してガーランド侯爵家から権益を奪うのだとすれば、これは大問題です。貴族政治にとって慣例は非常に重要なものです。それに当主が亡くなったら政府での地位を失い権益を全て失うとなると、貴族は安心して皇帝陛下にお仕え出来なくなります。


 それを覚悟で皇帝陛下がこれを言い出したのであれば、皇帝陛下ご本人だけのご意見だとは思えません。必ず政府内の大貴族。表立ってか潜在的にかは分かりませんがサミュエル様に敵対する、失脚を狙っている者が関わっているでしょう。厄介です。サミュエル様は大きな権力をお持ちでした。敵も多かったのかも知れません。


 当主代行のご勅許が下りなかった事を知ったエクバール様は蒼白なお顔になってしまいました。エクバール様なら私が考えたのと同じ結論にすぐに達した事でしょう。私と対面のお席に着いた彼はガックリと項垂れてしまいました。


「……我が家は、私は、皇帝陛下に疎まれているというのか」


 そういう考え方もあります。皇帝陛下がエクバール様を信頼なさっていれば、この様な事態は起こらなかったでしょうから。ただ、エクバール様はまだ業務引き継ぎのために帝宮に参上してもいませんから、陛下に能力を知られていなくても無理はありません。


「もう、我が家は終わりでは無いか……。ああ、父上が早く目覚めてくれさえすれば……」


 サミュエル様が今すぐ目覚めて下されば、敵対者の企みも覆せるでしょうけど、サミュエル様に目覚めの兆候はありません。医師は言い難そうに「目覚めるかどうかは五分五分です」と言いました。……目覚めない事も考えておかなければならないのです。


「諦めている場合ではございませんよ。エクバール様。やることをやりましょう。私も協力いたしますから」


 すると、エクバール様は力無く首を振った。


「いや、先生にはもはや頼れぬ。先生は実家に帰ると良い」


「え?」


 私は仰天しました。何を言い出すのでしょう。


「皇帝陛下のこの動き、恐らくは政府内部の我が家に反感を持つ者と図ってのものだろう」


 流石の洞察力です。そこまでお気付きでしたか。


「であれば、全力で我が家を潰しに掛かって来るだろう。権益を奪うくらいで済むとは思われぬ。難癖を付けての取り潰しまで企んでいると考えるべきだろう」


 ……あり得ない話ではありません。政界は弱肉強食。同じような政変で取り潰しにあった家などいくらでもあります。大権益を持っていた大貴族でも。いや、復活を企む事が出来る大貴族の方が危険です。復讐されないように徹底的に潰されるのが常ですから。


「先生は嫁入りしたとはいえ、まだ我が家への関わりが薄い。巻き込むに忍びない。我が家と縁を切って実家に戻るが良い」


 なるほど。私は侯爵夫人になったとはいえ、結婚したばかり。今すぐ実家に帰り閉じこもれば、今後の政変でガーランド侯爵家が取り潰されるような事態になっても、私は巻き込まれなくて済むかも知れません。


 エクバール様は自分の家と我が身の危機を前にして、そのような事まで考えられるようになったのですね。私は生徒の成長を感じて嬉しくなりながらも、同時に沸々とした怒りを覚えておりました。


 実家に戻り引きこもり、ガーランド侯爵家が嵐に見舞われボロボロになって崩壊して行く様を、耳を塞いで見ないふりしてやり過ごせと? サミュエル様との結婚を無かった事にしてエクバール様を見捨てて、保身を図れと? ……冗談ではありません。


「エクバール様?」


 私の声にエクバール様が反射的にビクッと震えました。私の顔を見て口元を引き攣らせています。私は微笑みを浮かべながらエクバール様をジッと睨みました。エクバール様はその美麗な顔に汗を浮かべてしまっています。


「エクバール様? そのような事、次に仰られたら舌を引き抜きますからね。侯爵夫人権限で」


「ひっ!」


 エクバール様は悲鳴を上げますが構いません。私はエクバール様を笑顔で睨み付けたまま立ち上がります。エクバール様も反射的に立ち上がって逃げ場を探すように左右を見ました。逃げ場などありませんし、逃げる必要はありませんよ。


「エクバール様?」


「は、ハイ!」


「大丈夫です。私が本気を出します。容赦は致しません」


 エクバール様なら私が「本気を出す」と言った時の無茶苦茶さ加減はお分かりでしょう。冷や汗をだくだく流しながら、それでもなんとか私に言った。


「何をするつもりだ。先生」


「知れたこと。これは我が家と皇帝陛下含む政府との戦争ではありませんか。大人しくこちらが滅ぶくらいなら、帝国ごとまとめて滅ぼしてやりましょうぞ」


 エクバール様の表情が真っ白になり、二の句が告げない様子になりました。しかし私は構わず言い放ちます。


「ご安心下さい。エクバール様は私の言う通りに動いて下さいませ。何も心配はいりません」


「心配しか無いのだが⁈」


 エクバール様が悲鳴を上げるのを無視して私は強く決意していました。ガーランド侯爵家は私が守ります。私は侯爵夫人なのですもの。サミュエル様に任せられたのですもの。逃げるものですか!


 こうして、私はガーランド侯爵家を守るための戦いを始めたのでした。後に私が「竜巻のシェリアーネ」などと大袈裟な名前で呼ばれるようになる、その原因となった事件の始まりです。

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