甲子園の怪

アカニシンノカイ

甲子園の怪

水道橋駅の改札をくぐったところでスマホが震えだした。

「もしもし、どうした?」

――やばい、今日行けるわ。チケット、もう買った?

「いや、これからだけど。今、水道橋着いたとこ」

――じゃあ、俺のぶんも買っておいてよ。

「特リン?」

――お前のおごりならな、社長。

「ご冗談を。お互い平社員だ。南の安い席でいいな」

 うんとも言わず、感謝も告げず、やつは通話を切った。

 交番がすぐ近くにあるのにほとんどの人が守らない駅前の信号が青に変わるのを待ちながら、陸橋を渡るか、横断歩道を使うか迷った。暑いので坂をのぼらないルートを選んだ。

 思えば、このときからすでに俺の背後には「あれ」がいたのだ。

 かつてはいかにも場外馬券場という感じの売店があった場所も、今は「ばえる」おしゃれスポットに変貌を遂げていた。誰もいないキッズスペースを右に、営業していないキッチンカーを左に見て、後楽園ホールに向かう。

 格闘技の聖地、後楽園ホールだ。

 プリズムホール前のベンチは、ジャイアンツのレプリカユニフォームを着た人で埋まっていた。

 今日は東京ドームでナイターがあるらしい。帰りは混むだろう。水道橋駅は野球の聖地でもある。

 いつもなら飯田橋か御茶ノ水まで一駅歩くのだが、こう暑くては混雑したホームのほうがまだましなはずだ。

 チケット売り場では、いかにもプロレスファンといった風体のおじさんが細かく指定しながら席を探していた。

 中年男性とスタッフにプレッシャーを与えないように「へぇ、ここでプロレスやってるんだぁ」という雰囲気を醸しだし、少し離れたところからモニターを見る。特別リングサイド、リングサイド、A席、B席、どの席種も売り切れていない。

 おっさんがどいたので、チケットカウンターに進み、よどみなく告げる。

「指定B、二枚。後ろでもいいので、できれば通路寄りの並びで」

 ホールのスタッフは優秀だ。すぐさま希望通りの席を選んでくれた。気持ちよく代金を支払い、財布にチケットをしまって売り場に背を向けた。

 そのときだ。


 目の前に妙な風体の女が立っていた。

「兄ちゃん、兄ちゃん、すまんのう」

「なんでしょうか」

 セーラー服を着ているから女子高生なのだろうか。それにしては落ち着きがあるというか、態度がでかい気がする。

気圧されて、つい敬語になってしまう。

いや、初対面の人ならば、年齢にかかわらず敬語でいいのだが。

「チケット、ここで買えますのん?」

 関西弁だ。けれども、どうにもイントネーションがおかしい。関東の人間が無理して関西弁を使っているのとも少し違う気がする。

「買えますよ」

「せやろな。悪い思たけど電話で話すの聞いてたんや。で、どことどこが試合しますの?」

「えーっと、メインはP1トーナメントの決勝ですけど……」

「野球、わい、野球観にきたんやけど」

 どうりで話が噛みあわないわけだ。

「そうですか。ここは後楽園ホールのチケット売り場ですね。ドームの当日券売り場は階段上って、右に行ってください」

「さよか。ありがとな。しかし、東京も暑いのう。おーん」

「どちらからいらしたんですか」

「甲子園や」

「うらやましいな。わざわざ兵庫から遠征に来るなんて相当の野球ファンなんですね。じゃあ、高校野球もご覧になってますか?」

 謎の女は「あかんあかん」と首と手を振った。

「今年は暑すぎるで。それに毎年、毎日、観とるからな。たまには観ない年があってもええやろ」

 毎年、毎日、観戦しているとはうらやましい。甲子園球場の近くに住んでいる子どもでなければできない芸当だ。

「タイガースファンですか」

 女は顎をなでる。

「せやな。ファンいうよりは……そやな、母親のようなもんちゃうか。甲子園の試合はずっと観とるからな。おーん」

 俺はあることに気付いた。

「あの、でも今日、阪神戦じゃありませんけど、大丈夫ですか」

「ええねん、ええねん。わし、もう野球観てへんとあかん体になってもうてん。いつもなら甲子園を見守ってんねんけど、今年は暑くて暑くてたまらん。逃げてきたねん。にしても東京まで暑いとはのう。おーん」

 制服の襟元をつかみ、バタバタとおっさんのように手であおぐ。

「なぁ兄ちゃん、ビール飲まへん?」

「いや、いやいやいや」

 俺は大慌てで手を振る。

「遠慮せんと。親切にしてくれたんやから、わし、おごるで」

「いや、未成年でしょ、君」

 はぁん、と女はのけぞった。

「君? 君いうたか君? あんな、わし、何歳やと思ってんねん?」

「高校生でしょ」

 俺は制服のスカートを指さす。

「あんな、今年の高校野球、足がつるとか、エラーとか、アウトカウントの勘違いとか多いやろ。あれ、なんでかわかるか?」

「暑いからですよね」

 うん、と女はうなづいた。

「それもある。それもあんねんけど、もっと大きな理由があんねん」

「なんですのん?」

 つられて俺も怪しい関西弁になる。女は自分を指さす。

「わしや、わし。わしが甲子園球場におらんからや。あんた、わい誰やと思ってますのん?」

「誰って……」

 言葉に詰まる俺に女は、こう告げた。

「わいな、魔物やねん。甲子園の魔物。聞いたことあるやろ、甲子園には魔物が棲んどるって。あれや、あれ。兵庫があんまり暑いもんで避暑に来たねん。おーん」

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