光の葛藤

 誰もいない無人の食堂。さっきまで向かい合って勉強を教えていた俺と咲は、今は隣同士に座り手が触れるか触れないかの距離感にいた。


「咲、本当に、こんな関係を持って良いのか?」


「うん、いいよ。さっき言った事、忘れたの?」


『私と光で、リハビリ関係を築きましょう』、数分前に咲は、そう言うと三つの条件を提示した。


 一. リハビリ内容は、お互いの同意をした上で行う。

 二. 心の傷に塩を塗り込むような行動をとらない。

 三. 友達以上、恋人未満の関係を理解した上で、リハビリ関係を保つこと。


「都合が良すぎないか?」


 あまりにも都合が良すぎる関係だ。個人的に考えると、よくない気がする。第三者が見たら不健全な関係に見えるのは、確実だ。


「いいよ。お互いのトラウマを知っているから、できる関係だよ」


 だけど、咲は気にしていない様子だ。


「いや、さすがにダメだ。咲を実験道具みたいな扱いをしたくない」


「光、これは私のためにもなるの」


「咲のため?」


「うん。私には……好きな人がいる。今、その人は私の事を恋愛対象として見てくれない。だけど、見てもらった時、この状態じゃ恋愛できない。だから、光。私の事を助けるためだと思って、協力して」


 咲は、自分の目的があるようだ。確かに、好きな人がいるのに、異性の事が怖いなら、恋愛がしたくてもできない。


「咲のためでもあるのか」


 ここで、咲の要求を拒んだら、咲は、一生恋愛ができないまま人生が終わるかもしれない。


「うん」


「わかった。リハビリの関係なんだよな?」


「そう、リハビリの関係」


「お互いのトラウマを克服するまでの間だな?」


「うん。お互いのトラウマがなくなるまでの間」


 これ以上、拒絶する事ができなかった。咲のトラウマを克服するためにと思い、この要求をのみ込む事にする。


「お互いのトラウマがなくなるまでの間、よろしく頼む」


「うん。光なら受け入れてくれると思った」


「まずは、何すれば良いんだ?」


「て、手を繋ごう」


 手を繋ぐ、咲の覚悟は本物だ。咲の白くて綺麗な手が、目の前に差し出される。


「咲、本気なんだな」


「本気だよ。私は、トラウマを克服して、前に進みたい」


「わかった。咲の願いを叶えるために、俺も頑張る」


 ここまで来たら、俺も腹を括るしかない。


「光、ありがとう」


「手を繋ぐぞ」


「うん……」


 自分の決意を固めて、ゆっくり、咲の手に手を伸ばす。


「行くぞ」


「ん……」


 咲は小さな声を出す。手の指を絡めて、手を合わせようとした、その瞬間。


「や……」


「ん?」


「やめてぇ!」


 その瞬間、俺の頬に衝撃が走った。何? 何が起きたんだ?


「あ、光」


 床の上に俺は倒れている。椅子から落ちたのか、何で落ちたんだ?


「ご、ごめん!」


 声がする方向を見てみたら、咲が、俺の隣に座っていた。


「いたた、咲。何が起きたんだ?」


「私、光の事をビンタしちゃった。反射的に」


 突然、頬に走った衝撃。これは、ビンタされたのか。


「初めて女子にビンタされた」


「本当にごめん!」


「大丈夫。リハビリ関係だからな。こういう事故もあり得る」


 少し傷ついたけど、咲のトラウマを考えると仕方ないと、心の中で割り切った。


「私から提案しておいて、本当にごめん。元カレに、手を繋いだまま、殴られた時の事を思い出しちゃった」


「気にすんな」


 立ち上がって服の汚れを落とす。それにしても、咲のビンタ速かったな。見えなかった。


「まだ、手を繋ぐのは早かったな。もう少し、慣れてからにしよう」


「そうだね。どうしよう?」


「手を絡ませた段階の時は、大丈夫だったから、小指だけ繋ぐ?」


「うん。そうする」


 小指だけ絡ませる。触れた瞬間、咲の体が一瞬震えた。だけど、ビンタしてこない。小指だけ、なら大丈夫みたいだ。


「初めて恋人が、できたカップルみたいだね」


「そうだな」


 気の利いた返事が出来なかった。無言の時間が過ぎていく、しばらくして咲が、『そろそろ、帰ろう』って提案したので、帰る事にする。咲は、緊張していたのか頬を少し赤く染めていた。


 だけど、俺は、咲と指が触れ合っている間ですら、心の感情は揺れ動かなかった。

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