腐敗、凡才、キミ、ワタシ。

平山芙蓉

腐敗、凡才、キミ、ワタシ。

 ビールの泡は、グラスの中で、破れたコンドームみたいな円を描いていた。見るからに飲む気の起きないそれを、一口、飲んでみる。予想通り、苦味しか残っていない。口当たりは妙に柔らかくて、気も抜けて温い。舌の上には、最初の一口とは全く違う後味が居座っている。控え目に表現しても、不味い。


 だけど、頼んだ手前は飲まなければならない。息を止めて、なるべく舌に乗らないよう、喉に流す。嚥下。胃の中が膨張する感覚。


 ああ、やっぱり最悪だ。


「ご注文、如何ですか?」


 厨房から私のことを観察していた店員が、すかさずやってくる。こいつから金を巻き上げてやろう、という意図が見え透いていた。意地悪してやろうか、なんて考えが、一瞬だけ頭を過る。例えば、無茶苦茶なクレームを入れてやるとか、狂ったフリをして怒鳴りつけてやるとか。でも、そんなことをしても意味がないぞ、と、酔いの中で膝を抱えた冷静な自分が、窘めてくる。確かにその通りだ。嫌な気分とは言え、他人に当たるのは良くない。だから私は素直に、生ビールをもう一杯、と注文をする。


「で、どこまで話したっけ?」


 割って入ってきた店員が、厨房の奥へと戻っていくのを見送ってから、神崎が話しかけてきた。


「さあ、どこまでだったかな」握るモノを失くした私は、テーブルの上に視線を遣りながら、適当に答える。何か握れそうなモノが欲しい。そうしていないと落ち着かない。


「えーと……。そうそう。みのりは本当に凄いよね、って話」


「お待たせしましたー」


 私の細やかな抵抗が駄目になりそうになった時、店員が私と神崎の間に割り込むように、ジョッキを置きにくる。間を置かずに取っ手を取り、分厚い泡へ口を付けた。一気にジョッキの半分がなくなるくらいまで飲む。最悪な気分は絶賛、更新中だ。でも、こうしておけば、返事をしなくても良い。もしかすると、あの店員は、私の胸中に気付いて助け舟を出してくれているのかもしれない。そう思うと、意地悪をしようなんて考えたことが、申し訳なく思えてしまう。


「本当に、ストイックに作品を出し続けてさ。それでバイトも一人暮らしもして、バイタリティに溢れてると思う」


 神崎は私がまだ飲んでいるというのに、一人で話を続けた。やれやれ、ここまでか。抵抗も限界だと悟り、手にしたジョッキをテーブルに戻す。


「そんなこと、うっ……、ないと思うけどねぇ……」


 吐きそうになるのを堪え、私は応える。頭が違う意味で回っている。心臓は早鐘を打っていて、指先の血管に至るまで、脈動を感じた。身体中も汗が伝っていて、ブラウスが張り付いて不快だ。入店時には寒かったけれど、今はもっと空調を下げてほしい。


「わたし、思うんだけどさ」神崎は私の相槌を無視して、話を続ける。もちろん、反応をくれたのかもしれないけれど、憶えていない。「やっぱり、わたしと実は、根本的なところで違うのよ。物事に対しての、根本が」


 またその話か、なんて考えながら、口ではそうかな、なんて頷く。この話は、大学を卒業してから、会う度に聞いている。一発屋の芸人みたいだ。いや、彼らの方が持ちネタは多いに違いない。つまり、とても無駄な時間ということ。


「まあ、そうかもしれないね」私は小皿の中に一つだけ残った枝豆を見ながら答えた。


「そうやって努力できるのは、本当に尊敬するよ。わたしはさ、今まで全然努力ができなくて。学校の成績もそれなりだったんだけど、勉強に力を入れたことはなかったかな。大学時代だって、やれって言われたから、サークルの代表とかやったけど、それだって自分でやりたいことじゃなかった。だから、あれは努力とは言わない。うん、そうだね。自分のやりたいことに必死で打ち込む、って経験が、浅いんだ」


「へぇ……」


「何だろう……。そう、わたしは自分のために行動ができない。それがしっくりくるかも。たださぁ、変わりたい、ってずっと考えてるんだよ?」


「じゃあ、つべこべ言わずに行動すれば良いじゃないの」私は最後の枝豆に手を伸ばして、口の中に入れる。三粒連なった莢で、ラッキーだった。


「それが難しいんだよねぇ」


「今は? なんか作ってるの?」隣の席に座るサラリーマンたちの笑い声が、いきなり響く。びっくりした。私も酔ってるから大概だけど、急に大きな声を出さないでほしい。「あなた、良い機材も持ってるんだし、腕もあるから、作れるでしょ?」


「まあ、一応はね。でもさ、全然駄目なんだ。完璧とはほど遠い、っていうか」


「完璧な作品なんて、ないでしょ」私は店内の壁に貼り付けられたメニューに視線を移す。


「それは分かってるよ……」


「世に出ない作品なんて、卵の中で死んでいく雛と同じよ」


「うん……、そうだよね……」神崎はテーブルの上の空き皿を、橋へ寄せる。「ところでさ、どうして実は音楽作ってるの?」


「私?」ずらりと並んだメニューを流し見て、何を頼むか考える。「私は、自分のためよ。自分が聞きたいものを、作ってるの」


「でもさ、じゃあ、世の中に出す意味なんてなくない? どうして投稿サイトにアップしてるの?」


「そうねぇ」もう一人前、枝豆を頼むのもアリかもしれない。いやでも、出汁巻きも捨てがたい。「世の中にはさ、私のことを理解してくれる人がいるかもしれないでしょ? 分かってもらえるのは、何にしても嬉しいし。そうじゃない?」


「まあ、そうだけど……」


 ……と、いつも通りの内容がようやく終わる。もう、別のことを考えながらでも、彼女との会話を続けられるようになった。我ながら恐ろしい。まるで、タイムリープ系の作品にでも、迷い込んでしまったかのような気分になる。もっとも、残念なことにここは現実で、失われた時間は、失われたままなのだけれど。


 ノルマを達成したからか、神崎はスマホを取り出して、隣でネットサーフィンを始めた。沈黙が、私たちのテーブルの上に降りてくる。重圧のせいか、ビールの泡はまたぺたんこになっていた。これもいつものこと。


 でも、無理もない。


 彼女は大学を卒業してから、夢を語るだけのニートになってしまった。つまり、時間だけが有り余っているということ。その時間を作曲に中てるわけでもなく、ゲームをしたり、家でアニメを見たりして、潰しているらしい。


 それに、有り余っているのは時間だけではなく、お金もだ。


 彼女はそれなりに裕福な家庭環境で、作曲のための作業機材は、親がほとんど出してくれたと聞いている。キーボードも、マイクも、DAWソフトを楽々動かせるほどのパソコンも、三十万は下らないギターだって。通っていた大学は芸術学部の音楽科だったから、必要だと申請すれば、用意したくれたのだとか。今となっては、いつも飲みに行く時の小遣いも、貰っていると話していた。ただ、最近はニートをしているからか、親の目は冷たいらしいけれど。


 本当に、羨ましい限りだ。


 どうして、こうも格差というものは生まれるのだろう。


 どうして、欲しいものは使わない人間が持っていて、欲する人間の元には回ってこないのか。


 アルコールと共に、思考は巡る。


 追い出そうにも、どんどんと募っていくばかりだ。


 答は息をしているはずなのに、私という殻を破ってくれない。


「すみません、注文良いですか?」


 少しでも多くの感情を吐き出したくて、私は店員を呼び止めた。


「はーい、よろこんで!」



 酔いを醒ますために、神崎と別れてから、少し遠回りで帰宅した。ジョッキ四杯分のアルコールは幸い、側溝に流すことなく持ち帰ることができた。神崎と別れた時間が、意外にも早かったから、道には通行人の姿が多かった。大衆の面前で、良い歳をした女が吐く様は、とてもじゃないけれど見せられない。もしかして、そういう気持ちが、あの子の言う努力というやつだろうか?


 玄関のドアを開けて、中に入る。誰もいないワンルームで出迎えてくれるのは、冷蔵庫の稼働音だけだ。電気を点けると、目が痛む。部屋着にも着替えずそのまま、パソコンの前に直行して椅子に腰掛けた。


 スリープ状態を解除すると、ロボットダンスみたいにかくついた動きで、デスクトップが立ち上がる。画面上にはファイルが乱雑に表示されていて、それだけで気が重くなってしまう。整理しようにも、今の気分くらい挙動が重たいから、そう簡単にはいかない。このパソコンも、大学入学時から使っているから、限界が近いのだろう。


 溜息を吐きたいところを我慢して、作曲中のファイルをクリックする。こちらも立ち上がるまでに数分はかかる。その間に、部屋着に着替えたり、飲み物を用意したりして過ごす。それでも、まだソフトは立ち上がっていない。仕方がないので、デスクの近くに立てかけてあるギターを手にして、適当なコードを弾く。


 しかし、改めて見ても、お粗末な環境だと思う。パソコンは型落ちも良いところだし、ギターは初心者向けのモデル。MIDIキーボードもないから、打ち込みはマウスでポチポチやっている。中古で買ったオーディオインターフェイスに関しては、あろうことか故障してしまい、今は机の肥やしだ。唯一ありがたかったのは、付属していた無料版のDAWソフトが使えることくらいだろうか。とてもじゃないけれど、DTMという単語で想像するような作業環境とは程遠い。


 それでも、使えるものだけで作り続けるしかない。


 そう……。


 始めてしまったからには、終われないのだから……。


 私が音楽を始めたのは、大学に入学してからの話だ。高校よりも自由な時間が増えたから、せっかくなら何か始めようと思い、元々好きだった音楽に手を出した。神崎とは違い、文系の大学へ進学した私は、素人も同然だったせいで、何度も挫折しかけたし、没にした作品も多い。けれど、諦めずにコツコツと続けられた唯一の趣味で、今ではかなりの本数を作った。


 いつからか、趣味は夢に変わり、親の反対も蹴飛ばして、音楽の世界で羽ばたくことを望むようになった。恥ずかしい話、就職は碌にしていないし、今はアルバイトで生計を立てているフリーターだ。そんな娘を置いておくほど、うちの親は優しくなくて、半ば追い出される形で、今は一人暮らしをしている。だから、新しい機材やソフトを買えるだけの余裕は、正直なところない。


 ソフトが立ち上がり、編集画面が表示された。まだまだ詰めるところだらけの、未完成の画面。遅れて、プロ版へのアップグレードの広告が、眩しい光と共に映し出される。トラック数無制限。付属プラグインもグレードアップ。そんな素敵な宣伝文にお似合いな、強気の価格設定。


 神崎なら、親を上手く言いくるめて、簡単に買ってもらえるのだろう。


 私は、そうじゃない。


 今あるカードで勝負するしかないのだ。


 でも、もしも私が神崎なら。


 神崎の家に、生まれたのなら……。


 全ては上手くいっていただろうか?


 広告に提示された値段が、じっとこちらを見つめてくる。


 日本円にして、約十万円。


 払えば今よりマシな環境が手に入る。


 買うか、買わないか。


 さあ……、どっち、と。


 私はそいつをしっかりと睨み返してから、クローズボタンを押す。


 馬鹿馬鹿しい。


 私は私だ。


 今やれることを、全力でするしかないのだ。


 そう言い聞かせても、


 心の片隅で仄かに燃える感情の火種は、


 身体の中で沸々と、


 何かを煮え上がらせていた。



 作業を終えた頃には、朝になっていた。目も肩も、あらゆるところを引っ張られているみたいに痛い。曲は完成して、動画の編集もばっちりだ。本来なら、ちゃんとした動画制作者や、イラストレーターに絵を用意してもらったりするのだろうけれど、貧乏人は自分で全部やるしかない。


 動画を書き出し、概要や歌詞などを載せて、投稿サイトにアップロードする。パソコンが処理落ちなんてしたら、たまったものじゃないので、他の作業はできるだけしない。


 眠気は一周回って全くなかった。長時間、画面を見続けていたせいか、瞼を閉じるとかえって気持ち悪い。激しい頭痛もする。こんな時に限って、頭痛薬を切らしてしまっていた。まだ薬局は開いているような時間じゃない。幸いなのは、今日もバイトは休み、ということだろうか。身体は疲れているから、しばらくベッドで横になっていれば、勝手に眠れるだろう。


 ストレッチをしたり、飲み物を飲んだりしているうちに、アップロードが終わった。マイページを開いて、投稿動画一覧を表示する。登録者数は片手で数えるほど。今まで出した動画で、三桁に至っているものは、ほとんどない。良くて二百回を超えたくらい。四桁なんて、夢のまた夢で、その先なんて本当に存在しているのかさえ怪しいものだ。


 投稿した動画の画面を、しばらくぼうっと見つめた。ページの再読み込みなんかもしてみる。でも、再生回数はゼロのまま。もちろん、コメントだって付いていない。


 分かっている。


 成功する人間は、持てるモノを全て捧げられる人間だ。生活も、社会性も。私のように出し惜しみをしている時点で、雲の上の人々には遠く及ばない。そういう人たちに相談してみたところで、そんな答が返ってくるのは、目に見えている。


 ……いっそのこと本当に全部、ここに棄ててしまおうか?


 ハイになっているせいか、馬鹿げた考えが頭を過る。


 生きるための時間も、


 生きるための資金も、


 生きるための身体も、


 思いつく何もかも全部。


 どうせ、これから何度も時間を棒に振って、


 誰にも見向きされず、報われないのなら、


 本当に賭けてしまった方が、良いのかもしれない。


 そうして何もなくなって、


 燃え滓だけが私と呼べるモノになれば、


 こんな感情とも、こんな感情を生み出す心とも、おさらばできるだろう。


 素敵だ。


 笑ってしまうくらいに、素敵だ。


 でも、情けないことに、どれだけ考えたところで、私に選択できるだけの勇気はなかった。


 それが今の私だ。


 殻を破り、外に出ても、全く成長しないまま死んでいく雛鳥。


「どうすれば、正解なのかな」


 モニターに向かって独り言ちる。


 画面の向こうの世界は、何も答えてくれない。


 ただ、ファンの回る音だけが、唸るだけだった。



 安らかな眠りを妨げたのは、下校中の小学生の笑い声や、しゃがれた烏の鳴き声でもなく、スマホのバイブレーションだった。呼吸が浅く苦しい。もしかして、今日はバイトだったか。そんな焦りが鼓動のペースを速めて、身体の中を不安でいっぱいにする。


 枕元に置かれたスマホを手に取って、発信者を確認した。薄暗い部屋の中で、ぼうっと浮かんだ画面に表示されている名前は『神崎寧音』のものだ。


 安心すると同時に、脱力感から長い息を吐く。私は彼女に何度、眠りを妨げられてきただろう、なんて呆れながら、応答ボタンを押した。


「……もしもし」


『もしもし。あれ? もしかして寝てた?』


「寝てた」


『ねえ、今晩飲みに行かない?』


「ええ?」


 彼女からの誘いに乗るか、私は逡巡した。今朝、作品を上げたばかりだから、やることはない。でも、昨日も飲んだばかりだ。断る理由はないけれど、了承する理由も同じくない。


「なんでよ」私は一応、神崎に理由を聞いてみる。


『いやー、暇なんだよね。家にいてもほら、お母さんがうるさいからさ』


 へらへらと笑いながら、神崎は言った。要するに、暇潰しと現実逃避に私を使おう、という算段か。


 まったくやれやれ。


 酷い話もあるものだ。


「……分かった。用意するから、一時間後に」


『オッケー、待ってるね』


 通話が切れて、画面の光が煌々と部屋の中に溢れる。


 理由を聞いて、本当は断るつもりでいたけれど、つい承諾してしまった。作品を仕上げたばかりの今晩は、気持ち良くお酒を飲めるから、と言い訳をしておく。


 何にしても、つまらない思考を断ち切るためには、必要なことなのだ。



 きっかり一時間後、私と神崎はいつもの居酒屋に入っていた。昨日の店員はいない。また来たのか、と思われるのは嫌だったのでちょうど良い。時間帯はまさにピークで、客の数は多く、店内は雑音で溢れていた。


 私はビール、神崎はハイボールで乾杯をして、世間話もほどほどに、彼女の愚痴が始まる。内容のほとんどは、音楽の流行話と、今の日本の問題点についてだった。何故、あんな曲が流行っているのか。何故、ニートが生まれるのか。関係のない二つの話題だけど、彼女の中では綺麗に繋がっているらしく、口は止まらなかった。


 もちろん、彼女独自の創作論も、おまけで付いてきた。まるで、ニュース番組でも観ている気分だ。心底どうでも良かったので、口を挟まず、お酒と料理を楽しむことに意識を向けていた。この店は、コンビニやスーパーで買うより、安くビールを飲めるから最高だ。神崎は神崎で、誰かに話せることが嬉しいのか、かなり饒舌だった。そういう意味では、ウィンウィンというやつなのかもしれない。


「それで、暇だって言ってたけど、曲はできたの?」適当な区切りがついたところで、私は話題を振った。意識を別のところへ向けてるとは言っても、つまらない話を延々と話されるのは、拷問でしかない。


「ああ、あれねぇ」


 神崎はハイボールのジョッキに口を付けた。氷がほとんど溶けてしまっていて、表面に付いた水滴が、テーブルの上にぽたぽたと落ちていく。


「あれはー、没!」彼女は半分ほど空けたジョッキを、勢い良くテーブルに置いた。


「えっ? どうして?」


「うーんなんかねぇ、しっくりこなかったんだよね」彼女は私の方に目を向けず、テーブルの料理を小皿へ移しながら言った。「音が違うっていうか。良い音源があれば、もっと良くなると思うんだよね」


「そう……」私はジョッキを握ったまま、彼女の横顔を一瞥する。「もったいないね、なんか」


「いやいや、ちゃんとこれだ、って音源に出会えたら作り直すだけだから。機が熟すのを待つだけ」


 神崎は笑ってそう続けた。私はふーん、と適当に納得して、ビールを飲んだ。

 胸の内には、まったく異なる感情が二つ、渦巻いていた。


 一つは真っ赤な怒り。


 彼女は、私よりも良いモノを持っていて、私よりも時間がある。そんな恵まれた環境にいるのに、自覚もなく、気楽に構えた口ぶりは、厭味にしか捉えられなかった。しかも、神崎はまだ、世の中に作品を出してはいない。そのくせ、分かったような態度を取るから、余計に腹立たしかった。


 もう一つは、どす黒い安堵。


 もしも神崎が、今の作品を完成させて世に出していれば、きっとその名を売ることは簡単にできるだろう。良い素材を使い、良い環境で作れば、それなりに手は届く。殻を割って出てきたのは雛ではなく、成鳥だったようなものだ。そんなやつに、幼鳥にも満たない私が叶うはずない。


 だからこそ、安心してしまった。


 まだ殻に閉じこもったままでいる、彼女の言動に。


 越えられていない、という安堵。


 そうだ。


 今日の誘いを受けたのだって、私が安心するためだ。曲ができたからだとか、ビールが安いだとか。もっともらしい理由を重ねたところで、その奥底にあるのは、加虐に満ちた、醜い感情であることは否めない。


 そうやって生まれた二つの感情は、螺旋を描いて攪拌される。ぐるぐると。目が回るくらい、長い時間。やがてそれは種となり、嫌悪という根を心に張り巡らせてくる。私がどれほど腐敗した人間で、どれほど矮小な精神の持ち主なのか。そういった現実を、私に改めて実感させるために。


 神崎は話すことがなくなったのか、いつものようにスマホに手を伸ばし、何やら弄り始めた。隣に人がいるのに、暇だと感じるのは、不思議な状況だ。だから私も、対抗するようにポケットからスマホを取り出して、ブラウザを開く。どうせ暇なら、今朝、作品を投稿した動画サイトで、自作の動向を確認する方が、まだ有意義だろう。


 読み込みが終わり、詳細が出る。


 再生回数は、十二回。

 高評価は三。

 マイリスト登録数はゼロのまま。

 そして、コメントが二件。


『応援してます』

『音が微妙』



 あれから、神崎の同じような話を聞きながら数時間を過ごし、店を出た。注文をあまりしなかったわりに、長居をしてしまったから、店側からすればかなり嫌な客だっただろう。申し訳ないとは思う反面、文句を言うなら彼女に言ってほしい、という気持ちもあった。


 時刻は日付を跨ぐ少し手前。勢いに任せて昨日より沢山、飲んでしまったから、頭も痛いし、吐き気も酷かった。


 そんな辛さに拍車をかけているのは、再び始まった神崎のトークだ。もちろん内容は、居酒屋で話したことと変わらない。せめて、もっと別の話題でもあれば、まだマシだったのに。もしも人生にスキップボタンがあったら、間違いなく連打していただろう。


「ああ、そういえばさぁ、あれ、聴いたよ」唐突に、今までの会話にはなかった言葉を、神崎は口にした。


「何を?」完全に無心だったことを悟られないよう、私は聞き返す。


「ほら、今日上げてた曲。良かった」


「あら、ありがとう」


 私は感謝を口にした。あの十二回のうちの何回かは、彼女が聴いていたものだったらしい。面と向かって言われると、小恥ずかしいものだ。でも、素直に受け止められたのは一瞬のこと。熱は急速に下がり、自分の思い上がった姿が、脳裏に映し出される。


「まあ、あんまり伸びてないんだけどね」


「うーん、やっぱりマーケティングの問題が一番じゃないかな? もっと伸びやすい時間帯に投稿するとかさ」聞こえの良い単語を並べて、神崎は私よりも冷静に、私を分析してくる。「あとは、あのイラスト、フリーのやつでしょ?」


「うん」私は自分の言葉を押し殺して頷く。


「やっぱりさぁ、多少お金がかかっても、イラストレーターに依頼するべきなんだって」


「そうかもね」


「で、やっぱりさ、あとは音源だよねー」


「は?」急激に、自分の頭を支配していた酔いが醒めていくのを感じた。


「いやいや、今のままでも良いんだよ? でもね、こうなんて言うか……、すごく『フリーのやつで作りました』って感じがするの」


「それで?」


「だからさ……」そこで言葉を切って、神崎はスマホを取り出すと、画面を見せてきた。「ほら、こういう音源パックみたいなの、買った方がもっと良くなると思う。多少は値が張るけど……、ほら、セール中だってさ。一生使えるものだしさ。持ってて損はないよ」


 彼女の手に収まったスマホの画面には、色々な謳い文句の掲げられた商品紹介ページが映し出されている。定価は十二万。それがセール価格で八万円まで下がっているらしい。


「神崎は、それ、持ってるの?」酔いとは違う原因で、飛びそうな意識のまま画面をぼうっと見つめて聞いた。


「持ってる持ってる。高い時期に買ってもらったから、ちょっと損した気分だけどさ。でも、使い勝手良いし、音が良いから他とは比べ物にならないね」


 神崎はそれから、何やらその音源とやらの解説を始めた。まるで、その会社の営業をしているかのように。私の耳は、不要な環境音として理解してくれたのか、彼女の声を右から左へと流してくれる。けれど、意味のない羅列であったとしても、声であることに変わりはない。不快で、不愉快な、恵まれた者の声であることには。


 項が、熱い。


 耐えられないほどに、熱い。


 目の前で光るバックライトは網膜に焼き付いて、


 熱が身体中に伝播していった。


 その割に、空気は冷たいから、身体は小刻みに震え始めた。


 喉の奥から上ってくる嫌な臭いが、鼻腔を衝く。


 まるで、私とは別の生命が、私の中で蠢いているような錯覚。


 そいつは早く出せ、とせがむように這いずり回り、


 私の鼓膜に声をかけてくる。


『応援してます』


『音が微妙』


 名前を付けたくもない怪物の息吹は、すぐそこまで迫り、


 抑え込む気力も失せてしまう。


 そうして、それは生まれる……。


 肉を割り、


 骨を裂き、


 悪臭を放ちながら、


 私の中から、


 高らかに叫びを上げて。


「実、どうしたの? 顔色が――」


 神崎が言い終わる前に、私は彼女の差し出した手を、力の限り払った。握っていたスマホが、視界の端で放物線を描き、地面に落ちる。こつん、と軽い音の間隙に、硝子の罅割れる音が混じった。


「ちょっと、何するの――!」


 彼女の胸倉を掴んで後ろへ押す。いきなりで反応できなかったのだろう。抵抗できない彼女を、私はそのまま、民家の塀に彼女の身体を叩きつけた。


「痛い……」弾みで頭でも打ったのか、神崎は私の手を解くでもなく、頭を摩っていた。


「あんた、いい加減にしなよ」


「はぁ? 何が?」彼女は私を睨み、顔を顰める。「いきなり何よ。こんなことされる覚えはないんだけど……」


「あんたの!」私が声を荒げると、神崎は怯んで、口を閉ざした。そんな友人の顔を見ても、昂った感情は治まるところを知らない。いや、もう後戻りができなかった。息を吸い、私は続ける。「……あんたの基準で、適当なこと言うなよ。持つべきカードを持ってない人間だっているんだよ。どれだけ欲しても、簡単に手に入れられない人間だっているんだよ。それが当たり前で、話をされるとね、心底うんざりするんだ」


「な、何? 嫉妬?」


「ああ、そうさ!」口を挟んだ彼女を威圧するように、大きく叫んだ。「嫉妬だよ! 嫉妬で何が悪い? 羨ましいよ、あんたが! あんたの家に生まれたら、もっと自由に時間も金も使えて、作りたいモノを沢山作れたはずだよ! なのに……。何であんたはいつも上から、やってもないのにできる風な口ぶりで、私に意見するんだよ! 何もしないなら、私に構うな! 喋りたいんだったら、一生独りで、殻の中でピーピー喚き散らしてろ!」


 そう言い終わる頃には、私の息は運動をした後みたいに上がっていた。彼女の胸倉を掴んでいた手は自然と放れ、溜め込んだ感情を吐き出した脱力感から、よろよろとその場にへたり込んでしまう。


 こんなことをしても、どうにもならない。


 彼女の家に生まれ変われるわけでも、


 彼女の才能を取り入れられるわけでもない。


 ただただ、虚しくなるだけだ。


 全て終わった後になって、冷静な言葉が心の中で雨のように降り注ぐ。


 分かっていた。


 もう、どうだって良い。


 何もかも、どうだって。


「ねえ……、実」顔を上げると、神崎が私を見下ろしていた。瞳には、少なくとも人を見るような感情は含まれていない。まるで、そう、悍ましい怪物でも目にしているみたいだ。流石に、そこまでするつもりはなかった。勢いとはいえ、悪いことをしたな。スマホの画面にも罅が入れてしまったし。


 そう思って、謝罪を口にしようとした時――、



「そんな無理なこと言ったって、どうしようもないでしょ?」



 と、彼女は困ったような口調で、私をそう諭した。


 ああ、そうだ。


 私は思い出す。


 何よりもシンプルな前提条件を。


 何よりも馬鹿馬鹿しい原理を。


 時間も、金も。


 そして、自由も。


 何もかも簡単に手に入れてきた女の言うことは、


 いつだって論理的で、


 いつだって子ども染みていたんだった。


 開きかけていた口を閉ざしてから立ち上がり、覚束ない足取りで歩く。


 帰ろう。


 ただその思いだけで、私は独り、自宅を目指した。


 後ろから、誰かが追ってくる気配はない。


 前からも、誰も歩いてこない。


 静か過ぎるくらいに、静かだ。


 そんな夜道を照らすのは、等間隔に並んだ街灯の光だけで、


 そいつは眩暈を覚えるくらいに眩しくて、何度もその場で休みたくなった。


 それでも、足を止めずに歩く。


 家に帰ることだけを望んで。


 途中で、着信があった。


 無視していても、しつこくかかってきた。


 何度も何度も。


 とても耳障りだったので、


 ポケットからそれを取り出すと、


 応答せずに側溝へと投げ捨てた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

腐敗、凡才、キミ、ワタシ。 平山芙蓉 @huyou_hirayama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ