遠ざかるメリーさん

龍田乃々介

遠ざかるメリーさん

「わたし、メリー。今あなたの後ろにいるの」


深夜2時22分。明かりの少ないオフィスに一人残業していた俺の会社用スマホに、そんな電話がかかってきた。

「すいません、聞き違えたかな……。温輪おんわ輸送の吉住さん……ですか?」

スマホの画面にはそう出ていたはずなので聞いたところ、ぶつっとすぐに切られてしまう。

というか今の電話、なんと言っていた?

メリー……あのメリーさん?

俺の後ろにいるって? 今?

「…………っ」

そういえば後ろに気配を感じる気がする。

だがどういうことだ。メリーさんとは、知らない番号から掛かってきた電話で、徐々に自分の元に近づいてくる謎の少女メリーさんを怖がる話のはず。

なぜ初手から後ろにいるんだ……!

背後の不気味な気配に死を覚悟した俺の体は硬直していた。

眼前のPCをよく見ると、そこには確かにそれが映っている。

ボサボサに乱れ所々が黒く汚れた金髪で顔を覆う、白い花を持った薄暗い少女が。

俺は、俺は一体、ここからどうすれば――


プルルルルルルルッ!


オフィス中に響き渡る大きなコール音。俺のスマホにまた電話が掛かってきている。画面に移っている名前は、「城鯨じょうげい商社 畑中さん」 取引先だ。

俺はほぼ反射的にその電話に出ていた。

「たすけ、助けてくださいっ!今、だ、誰かが後ろにいて!」

「ふふふっ」

ダメだ。何をやっているんだ俺は。こんな時間に電話がかかってくること自体普通じゃないのに……

俺の思考は疲労のせいかはたまた呪いか、怪異の手のひらの上から逃れられないようだった。

「わたし、メリー」

「……そうかよ」

俺は精一杯気丈に振る舞うことにした。

こういうのは心が負けたら終わりだ。

最後の最後まで抵抗するんだ。

――しかし、その決心は肩透かしを食らうことになる。

「うふふふっ。わたし、メリー・ベドラム。よろしくね、大変な働き者さん?」

「……はあ?」

そのメリーさんは突然、イタズラ好きな少女のように喋り始めた。

「今オフィスの外にいるの。扉をご覧になって」

恐る恐る扉の方を見ると、真ん中の擦りガラスに張り付いていた誰かがすぅっと闇に消えた。扉の向こうと電話口から、ふふふふふっという少女の笑い声が聞こえる。

「ど、どこに行くんだ……?」

「当ててみてくださいな?正解だったなら、素敵なプレゼントをしてさしあげるわ」

ブツッ。そこでまた電話が切られた。

なんだ、なんだ、なんなんだ、何がしたいんだ。



それから十数分後、仕事も手につかず飲みかけの缶コーヒーに口を付けていると、また電話が掛かってくる。

液晶に映し出されている名前は、「田井中課長」

俺は慌てて電話に出る。

「ああ、秋山くん。もしかしてまだ会社かい?遅くまで悪いね」

「えっ課長!?あっ、いや、いえ……」

聞こえてきたのは中年男性のややしゃがれた声。それは紛れもなく田井中課長のものだった。

「仕事は順調かな?なんて残業中に聞くのはおかしな話か。ははは」

「は、はは。すみません、資料はちゃんと進んでます。明日の朝には間に合わせますよ」

「本当?明日の朝間に合う?」

「ええ、この調子なら全然大丈夫です」

「缶コーヒー飲んでばかりで、全然手が動いてないのに?」

「えっ……」

どうして、課長がそれを。まるでずっと見ていたみたいに。

まさか。

「…………うふっ」

「お前……!」

「ふふふふふふっ。ああ、おかしい。おかしいわ。うふふふふふっ」

電話口から堰を切ったように笑いだしたのは、甘く幼い女の子の声。

あのメリーさんの声だった。

「俺を騙したのか。どうやったんだ?いや、別にいい。今の時代そんなイタズラ、技術があれば誰でもできるからな」

「あら。ついさっきわたしを見たのに、もうわたしのことを信じられなくなってしまわれたの?」

「…………」

そうだ。こいつはイタズラを仕掛けてきているが、人間ではない。

ただの好奇心や嫌がらせのつもりでこんなことをしているわけではないはずだ。

「何が目的だ」

「わたし、メリー。メリー・ベドラム。今久野木通りを南に下っているの」

久野木通りを南というと、この会社の入っているオフィスビルから最寄り駅への道のりだ。

「お前、遠ざかってるのか……?俺から」

「ふふふ。それが答えかしら」

答え。

そうだ、こいつはさっき「どこへ行くのか」という俺の問いに対して「当ててみろ」と言った。

つまりこれは、この遠ざかるメリーさんがどこへ行くのかを当てるゲームのようなものなのだ。

俺はその認識が正しいのか確認しなくてはならないと思った。

「お前がどこに行くつもりなのか、当てればいいんだな」

「当たったらきっと楽しいわ」

「当てられなかったらどうなる」

「想像してくださいな。訊いてばかりが大人ではないでしょう?」

「…………死ぬのか」

「ふふふふっ。ふふふふふふふふふ」

メリーは不気味に笑うと、またぶつりと電話を切ってしまった。

近づいてくるのではなく遠ざかるメリーさん?

どこに行くのか当てなければ死ぬゲーム?

なんて理不尽なんだ。どうして自分がそんなものに巻き込まれなければならない。

恨む気持ちが幾重にも募る。

……だが、そんなことを考えてもどうにもならない。

俺は気持ちを切り替えるべく、PCに向き直って作業を再開しつつ、頭の端ではメリーの動向について思考を巡らせた。



時計が深夜3時を示してしばらく経った頃、メリーからまた電話がかかってきた。

スマホの表示では「ユニロジックス 佐竹さん」と書いてあるが、奴はこれまでもアドレス帳に登録されている番号を装って電話を掛けてきたから、これも奴からに違いない。

……だが一応、万が一のことも考えて、俺は本物の佐竹さんに話すのと同じ調子で電話に出た。

すると。

「うふふふふふふふふっ」

結局は奴、メリー・ベドラムからの電話だった。

「さっきの悪戯がずいぶん堪えなさったのね。申し訳ないことをしてしまったわ」

「そう思うならこんなゲームはやめて、二度と電話を掛けてこないでくれ。片付けなきゃならない仕事がある」

「あら、いいのかしら。わたしが今一方的に電話をやめてしまったら、あなたはこのスマートフォンに掛かってくる電話すべて、わたしの悪戯ではないかと疑うようになってしまうのではなくて?」

「ぐっ……」

言われてみればそうだ。始まってしまった以上、途中で突然終わってしまう方がかえって後味が悪いし、それをずっと気にして生活していかなくてはならなくなる。

「ならせめてお前の名前で電話を掛けてこい。いちいち警戒しなくちゃならないのは俺の心臓に良くない」

「ごめんなさい。それはできないわ。わたし、電話を持っていないもの」

ならどうやって電話を掛けてきているんだ、と問うと、メリーはふふふふっと楽しそうに笑って電話を切った。


……………………。


あれ?

いや、おい待て。

今度はすぐに電話が掛かってくる。

「特島海運 篠田さん」からだ。

俺はすぐに電話に出る。

案の定それはメリーからで。

「ふふ、わたしったら、あなたとのお話が楽しくて、居場所を教えるのを忘れてしまっていたわ」

「お前なあ……」

それが主目的だろうに。

無機質かと思えば丁寧に名乗ったり、正論でこちらを刺したと思えば不気味に答えをはぐらかしたり、気さくに話に応じたかと思えば合理的な予測で反論したり。

今度は雑談が楽しくて本題を話すのを忘れたなどと、いよいよこいつがよくわからない。

人間のような暖かみというか、抜けている感というか。

そんなものを俺は感じてしまっていた。

「今、笑塚えみづか駅で乗り換えて刀根中央駅に向かっているわ」

「刀根中央?新幹線にでも乗るつもりか?」

「ええ。お弁当が食べられないのは残念だけれど」

それはそうだ。そもそも今は深夜3時半といった頃。電車はまだ走っていない。

俺はなんとなく聞いてみることにした。

「お前そもそもどうやって笑塚で乗り換えたんだ?電車走ってないだろ」

「かなしいわね。あなたは電車が動かなければどこにも行けないの?」

いきなり哀れまれた。腹の立つ奴だな……。

しかし、さっきも「訊くばかりが大人なのか」と耳の痛い事を言われたところなので、少し考えてみる。

…………いやまさか。

「線路を歩いてるのか?」

「うふふふっ。あなたと話しているととても楽しいわ」

そこでまた電話が切られた。

答えを教えてもらえなかった俺は、「電車が動いていない深夜に駅から駅へ移動する方法」を次の電話が掛かってくるまでひたすら考えることになった。



深夜4時ちょうど。「山鷲物流 火岸ひぎしさん」から電話がきた。

「わたしメリー。メリー・ベドラム。今、岡橋県に入ったわ」

「またずいぶん遠ざかったな。まるで新幹線に乗ったみたいな速さだが、結局どうやって移動してるんだ?」

「ふふふふふふふふっ」

「ああ待て待て待て待て!」

なんとなく電話を切られそうな雰囲気を察した俺はすぐに制止する。

今までの会話から、こいつは都合の悪いことを聞かれると笑いながら電話を切るクセがあるように思ったからだ。

だが今切られては困る。

もっと早く気付くべきだった、聞いておかねばならないことがあるのだ。

「一つ聞きたい。このゲームの期限、つまり電話が掛かってくる回数はあと何回だ。それは俺がお前の目的地を回答できる回数と同じか?」

「ふふ、それでは質問が二つになっているわ」

「じゃあ二つだ。二つ質問する。電話の残り回数と、回答できる回数。答えてくれ」

「ええ、よくってよ。まず電話の回数だけれど……、次の電話が終わったあと、わたしは目的地に着く。だから回答の機会があるのは次の回まで。今回も含めればあと2回だけよ。……ふふっ、わたしの向かっているところを考えるうえでもとても大事だから、覚えておいてくださいな」

あと、2回……?

それは思っていたよりもあまりに少ない数だった。

いや、考えてみればこれだって、新幹線に乗れる駅に向かっているという話の時点でわかったはずのことだ。それは遠い目的地に向かって一気に距離を詰めるものなのだから。必然的にゲーム終了までの電話回数は大きく減る。

次の次の電話では、もう目的地に着いている。

ということは、目的地までのマイルストーンはあと一つ。岡橋県のどこかか?

だめだ、さっぱり思いつかない。

「二つ目の質問への答えだけれど、あなたとのお話はとても楽しいから易しくしてあげる。電話が繋がっている間は何度答えてもいいわ。ただし、あまりに的外れな答えを当てずっぽうで言うようになったら、それはつまらないから電話を切らせてもらうわね?」

この答えはさっきのものとは打って変わって希望を持てるものだった。

俺が馬鹿な回答をしない限り、何度でも回答できる。

よかった。本当によかった。

俺との会話の何がそんなに気に入ったのか知らないが、これなら岡橋県の名所やらなんやらを推理を交えて言っていけば当てられるかもしれない。

よし、そうとわかれば善は急げ。

俺は早速回答を始めた。

「は、はは。ありがたいな。だが、ここにきてようやく気付いたんだが、俺はお前がどういう目的を持って動いているのかまるで知らない。

お前は何の用があって岡橋県に来たんだ?観光目当てならゴールは佐間良さまら滝か小規このり藤園、芯影しんえい摩崖仏ってところか?」

「残念ね、どれも外れているわ。だって、わたしは物見遊山でこうしているわけではないのだもの」

「じゃあ……グルメとかか?淡井商店街なら旨いものがいくつもある。たこせんべいに、強炭酸サイダーに、垂れダレ牛串に……。いや、最初にお前をPCの反射で見た時には、ちょっと汚れていたよな。なら温泉って線もあるか。岡橋県の温泉といえば利地智りじち温泉しかない。どうだ、当たってるか?」

「ふふふ、あなたのお話はやっぱりとても楽しいわね。聞いているだけで心が躍るようだわ。どれも外れているからその調子でお喋りなさって」

俺はその物言いに少しいらだちを覚えた。

何を、上から目線で。こんなお遊びに付き合ってやっているのに。

……いや、そもそも、そもそもだ。

――俺は一体何をやっているんだ?

残業中だ、仕事が途中だ、こんなことをしている場合ではないというのだ。

なのにこんな少女の、いや少女の声の怪異と話しているのはなぜだ。

よくよく思い返して、はたと気づく。

「……お前、そういえばあの時はぐらかしたよな」

「あの時?こそあどを使われても困ってしまうわ」

。はぐらかしたってことは、都合が悪いってことだよなあ。その答えを言うのは」

「…………ふふ」

やっぱりだ。メリーは都合が悪くなると笑ってごまかして電話を切るクセがある。

だがもう切られても困りはしない。切るがいい。

もうお遊びに付き合う理由はなくなった。

別にゲームに失敗したとて、俺は死なないのだ。

こいつは「当てられたら素敵なプレゼントがある」とはしっかりと言ったのに、「失敗したらどうなるか」は知られると都合が悪いので答えなかった。

それがこれ以上なく明白な答えだ。

きっとこいつには人を殺せるほどの力はないのだろう。

きっとその声や見た目相応に、少女のような存在なのだろう。

遊んで欲しい、かまってほしい、ただひたすらお喋りに興じてほしい。

そういう子供なのだろう。

ならば俺がこいつに付き合う道理はない。

俺はもうこのゲームから降りて資料の製作を再開する。これを間に合わせないとせっかく築いてきた社内での信用を失いかねないのだ。

「悪いがもうお前の電話には出ない。ゲームはここでお終いだ。俺は忙しい。遊び相手が欲しいならこんな深夜に会社員に掛けるんじゃなく、真昼間に大学生のスマホにでも電話してやれ。一日中相手になってくれるだろうよ」

「あら、諦めてしまわれるの?少し難しくしすぎたかしら」

「そんな安い挑発には乗らない。終わりといったら終わりだ。もう切るぞ」

スマホを耳から離して赤のマークをタップしようとする。

「待って。わたしが間違っていたわ」

メリーが謝る声が聞こえて、このまま切るのは申し訳ない気がしてしまった。

こいつは間違いなく人間ではないはずだが、過ちを詫びるような心があるということだ。

それを蔑ろにするのは、人として気が引けたのだ。

「どういうことだ」

「あなたがそんな結論に至ってしまうのも当然だわ。わたしはあなたに必要な情報を十分に与えていなかった。……反省しているの」

本当にこれは怪異なのかと疑ってしまう。不気味なほど真摯な態度だった。

だからこそ、次に続くそれらの言葉が、俺は信じられなかった。

「わたしの目的地を当てられなければ、わたしはその場所にいる人を殺すわ」

「……は?」

「電話に使っていたアドレス帳の人物は、全てヒントになっているのよ。彼らの共通点は何か、よく考えなさって。きっと答えに繋がるわ」

「おい、ちょっと待て」

「わたしにも非があったから、この後二回電話してあげる。つまり回答の機会が電話一回分増えたことになるわね」

「おい、殺すって何だ。お前のゴールにいる人を殺すって?」

「つまらない気分になったからもう切るわ。次の電話を楽しみにしてらして」

「おい!!待て切るな!おい!!!」

ツー、ツー、と音が聞こえる。

電話は切られた。

俺は魂が抜けたように椅子の背もたれに体を預け、虚ろな視線を天井に向ける。

――俺が奴の目的地を当てられなければ、そこにいた誰かが死ぬことになる?

なんて、なんて理不尽なんだ。どうして、どうしてそんなことが、そんなことを……!

考えても仕方がない怒りが、俺の思考に横たわり続けた。



あれから三十分は経とうかというころ。ようやくメリーから電話が掛かってくる。

ヒントになっているらしい名前は「美奧みおう建設 須藤さん」。

俺はとにかく電話に出た。

「わたし、メリー。メリー・ベドラム。今は新九月河駅にいるわ」

「……参考にならないな。ターミナル駅だ。そこからどこへでも行ける。観光地にも、飲食店にも、山麓の温泉街にも」

「ええ。居場所それ単体では大したヒントにはならないわ。ゲームってそういうものでしょう?たった一つの要素だけで攻略できては面白みがないじゃない」

癪に障る奴だ。人の命が掛かっているというのにそれをゲームだと?

――だが言っても仕方がない。なぜだと問うて気分を害しては貴重な回答権を失ってしまう。

「もう一つのヒントはどうかしら。電話を掛けてきた人たちの共通点。何か浮かんでいて?」

「……いや。まったく。お前、俺の頭になにか、呪いとかそういうので妨害を仕掛けたりしてないよな。全然頭が回らないんだが」

「いいえ。父と母の墓に誓って、わたしはあなたの思考能力に何の影響も与えていないわ」

父と母の墓に誓って、とは。そういう変な人間味を出されると余計に混乱する。お前はかつて人間だった何かなのか?何か生前に無念があってこうしているのか?

ゲームの答えに関係のないことばかり考えてしまう。

俺はすっかり打ちのめされて、考えることを放棄してしまっているのかもしれない。

沈黙する俺に、メリーの方から話を始めた。

「……きっとお仕事のしすぎよ。体によくないわ」

「そう思うならこんな電話、残業中に掛けてくるのはやめてくれよ。もうどう頑張っても朝の会議には間に合わない」

「そう。かわいそう。慰めの言葉が必要かしら」

「いらん。……お前なら、スケジュール管理だって仕事のうちではなくて?とか正論を投げつけてくるかと思ったが、慰めてくれるんだな」

「それは確かにそうだけれど、頑張った人に鞭を打つような真似はできないじゃない。あなたたちは違うの?」

「…………人によりけり、場合によりけりだな」

「まあ。……寂しいのね」

メリーの声は暗かった。心の底から俺に、俺たち人間の社会に同情を示しているように聞こえた。

――そんな心を持っていて、なぜ。

「なあ、本当に殺すのか?」

「ええ。首を切り落とすわ」

「なんでそんなことをする。かわいそうだとは思わないのか」

「思わないわ。人はどうせいつか必ず死ぬものでしょう?それなら、いつ誰にどんな理由で殺されても同じことではなくて?」

俺は納得できなかった。

俺は信じられなかった。

お前には人の心があるはずだ。

お前なら理解できるはずだ。

俺はメリーに必死に説いた。

「同じじゃない。同じじゃないんだよ。人はその死に方にこだわる。どんな最期を迎えるのか、それによってその人がどんな生き方をしたかがわかるからだ。愛されていた人なら病床の上で家族に囲まれて、罪を悔いている人ならひっそりとした静かな場所で、人はその死によって人生を完成させる。そしてその人生が、今なお生きる者の心の中で糧となり続いていく。だから人の死は、その生を映したものであるべきなんだ」

もちろん、これは理想論だ。実際には怪異の手によらずとも、事故で命を落とす者もいるし大量虐殺に巻き込まれる犠牲者もいる。

だが今話を聞いているこの怪物が少しでもその理想論に賛同してくれたなら、と希望を抱かずにはいられなかった。

この数時間ずっと電話で話してきたメリー・ベドラムは、あまりにも人間じみていたから。

その身は人に非ずとも、人間の心を持っていると思ったから。

しかし。

「そうなの。それは素晴らしい哲学だわ。生きている人間にとっては、という但し書きが必要だけれどね」

俺のお門違いな期待は、完膚なきまでに叩きのめされてしまった。

「……もっとお話していたいけれど、そろそろ最後の場所が近いの。回答がないなら電話を切らせていただくわ。どうかしら、答えは」

「…………」

何も思い浮かばない。

さっぱりわからない。

俺はなにも答えられない。


俺のせいで、人が死ぬ。

何故かはわからないが。死ぬ。

事故のようなものだ。社会的には俺には何の責任はない。


だが、死ぬ。


ひどい気分だった。


「……かなしいわ。あなたはとても面白い良い人なのに。

立派な死生観を持った素敵な人なのに。

なのにあなたは、あなたは忘れてしまったのね。


どうして自分が、今そこにいるのか」


え?


ぶつり。電話は切られた。

今、メリーはなんと言った?

とても大事な、大きなヒントをメリーはくれた気がする。

「どうして俺が、今ここにいるのか……?」

口に出して繰り返してみる。

どうしてここに、会社にいるのか?

それは、だって、会議用の資料が……。

いや、それはなぜだ?

なぜ会議の資料作成なんて仕事のために、俺は会社に残っている?

それは、スケジュールがカツカツで、資料を作ったあとにも別の仕事があって、通退勤の時間も惜しくて、会社に泊まるつもりだったから……。

じゃあ、じゃあ俺はなぜそんなに根を詰めて働いている?なぜ会社に残っている?

なんのために?


――その問いは核心を突いていた。

脳に電流が走って、それまでの手がかりが怒涛の如く押し寄せる。

吉住、畑中、田井中、佐竹、篠田、火岸、須藤。

電話を掛ける時メリーが使った人物、彼等の共通点。

彼等と最後に会ったときの会話……。

俺のオフィスに始まって、駅で乗り換え、新幹線で越県し、さらに電車で向かう場所。

観光地でも、商店街でも、湯治場でもない。

それら名所を通らない、ターミナル駅からすぐに行けるような場所。

俺が働いている理由、生きている理由がある場所。

それは、それは、あああああそれは。


かちかちかちと、震える俺の歯の音だけが、陽の差し始めたオフィスの中に響いていた。



朝5時。メリーから電話が掛かってきた。

名前は「三条鉄運 露野さん」。判明した共通点に違わず当てはまる人だ。

電話をとる。

「わたしよ。メリー。メリー・ベドラムよ。ついに目的地に到着したの。

さあ、働き者さん。ここはどこでしょう?」

俺は切ない苦しさを噛み殺して、怖ろしさに乾いた喉から振り絞るように声を出して、

乞い願った。

「……三櫛毛みくしげ病院。頼む、妻には手を出さないでくれ……!」

共通点は既婚者。それも、訳あって妻が病を患っている人たちだった。

メリー・ベドラムが目指していた、そしてたった今到着した三櫛毛病院には、事故で脳に損傷を負い、もう何年も意識の戻らない妻が入院しているのだ。

俺の答えを聞いたメリーは、満足げな声色で言う。

「ふふ、ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。


だいせいかーいっ!


うふふふふふふふっ。あははっ、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」


なにがおかしいのか、メリーはなおも笑い続ける。


――だがそんな嘲笑が俺にはお似合いだとも思った。

どうして、どうして忘れていられたのだろう。

こんな大事なこと。大事な妻の事を。

俺は、妻を生かすために、妻ともう一度話をするために、生きていたのに。

彼女の治療費を払い続けるためだけに、ずっと働いていたというのに。

「思い出せたのね、本庄継広ほんじょうつぐひろさん」

メリーが俺の名を呼んだ。

思い出せた……。

そうか、メリーは最初から、全て知っていたのか。

これが目的だったのか。

俺に妻のことを、姫奈のことを思い出させることが。

「それは間違いよ、おばかさん。わたしはただ遊んでいただけ。あなたは偶然巻き込まれただけ。ただそれだけのことだったのよ」

声に出してはいなかったはずの俺の言葉に、当然のようにメリーは答えた。

「それに、感謝されても困ってしまうわ。わたしはあなたが考えることを諦めて、最後に答えることができなかったなら、本当に首を切り落として、それを食べるつもりでいたのだもの」

突然飛び出した猟奇的な言葉に全身から血の気が引く。

やめろ!姫奈に指一本触れるな!

俺がそう怒号を上げると、またけらけらとメリーは笑った。

「ふふっ、うふふふっ。ああ、楽しかった。いい気分だわ。こんなに楽しかったのはとても久しぶり。ありがとう、働き者の継広さん。約束を守らなきゃね」

――約束。

そういえばメリーはそんなことを言っていた。

妻を思い出すことができた。妻が殺されずに済んだ。それ自体が俺には十分すぎる贈り物だったが。

メリー・ベドラム。

その怪物は、俺の世界にその光を再び灯してくれた。

「本庄姫奈さん。わたし、メリー。メリー・ベドラム。もうすぐあなたの旦那さんが来るわ。さあ、起きて」

俺は跳ねるように立ち上がった。

電話の向こうで小さな、小さな声が聞こえたのだ。

とても、とても懐かしい声。

掠れてしわがれてしまっても、彼女だとわかる愛らしい声。

俺は走った。

鞄とスマホだけを持って、オフィスを出て、会社を出て、久野木通りを南に下り、笑塚駅で乗り換えて、刀根中央駅で新幹線に乗り、新九月河駅でまた電車に乗って。

三櫛毛病院の、彼女が待つ病室に。

俺はたどり着いた。

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遠ざかるメリーさん 龍田乃々介 @Nonosuke_Tatsuta

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