類まれなる愛の結晶

朝霧逸希

貴方へ

 ビニール傘にぶつかった雨粒の音が嫌というほどに耳に張り付いている。徒歩で駅から家までは約十五分ほどであるため傘一本持って外に出たのだが、どうやら間違っていたようだ。つい先日まで気温は三十度を記録していたのだが、雨の影響か半袖のシャツ一枚では寒すぎるほどに気温が落ちていた。歩道と車道には水たまりができていて、横を通りがかった車が上げた水飛沫は更に身体を冷やす。お気に入りのスニーカーに着いた汚れを見ると気持ちも身体も更に冷えた気がする。

 ふと、腕についているスマートウォッチに目をやると、午後八時の文字を映し出していた。何時もよりも明るく感じるのは地面に反射した街灯の影響だろうか。着々と歩みを進める。ポケットからソフトパッケージの煙草を取り出す。ライターがないことに気づくも家まで歩いてからではお気に入りのスニーカーを汚してしまったという不幸があったため、些か気が持たないような気がする。眼の前のコンビニエンスストアに入ろうとしたところで何か違和感を感じた。何時もと違う道だったのだろうか、自分が何時も利用している店舗とは違った。暫くこの道自体使っていなかったので、店舗の入れ替わりでも起きたのだろうか。

 入店音は聞き馴染みのあるものだったので違和感は店内に入った時点で消えていた。

「170番、一つ。」

 使い捨てライター一本だけではなんだか申し訳なかったので、何時も吸っている銘柄の煙草を買うことにした。

「商品の方、こちらでお間違い無いですか?」

 確認の声に返すのは会釈にも満たない小さな頷きである。

 店から出る頃には雨は止んでいた。あんなにも土砂降りであったのに、ちょっと雨宿りするだけで済むのであれば駅で待っていればスニーカーも汚れることはなかったのだろう。今日は余計な出費がかさむ。

 コンビニエンスストアの灰皿の前で取り出した煙草に火をつける。

 煙を肺に入れて、喉への刺激を嗜みながら灰を切る。毎日続けることで日常の中に溶け込んでしまった喫煙という行為は、真新しさなんて全く感じなかった。けれど今日はなんだか、普段から吸っている銘柄のはずなのに味も香りもキック感も、今まで吸ったことがないかのように美味かった。

 何時もよりも深く、深呼吸をするかのように煙を肺に入れ込む。若干むせそうにもなったが、それでも肺に入れ続ける。

 ヤニクラ、というわけでもないが少し身体が浮いているような感覚がある。其れがまた心地よくて、何時もと違う道を使うのもこの日常的に行っていることすらも非日常に変えてしまうのだから、楽しい。

「うんっま…」

 思わず言葉が溢れてしまった。周りに誰もいないようであったから大した問題ではないが少し顔が熱くなった気がした。

 夜であるのにも関わらずかなり見通しがいい気がする。街灯が多いわけでも、月が満ちているわけでもない。何時もより夜に目が慣れている感じがした。

「あの…」

 いきなり声をかけられたことに驚き体をこわばらせる。

「アナタ、今煙草…吸ってましたよね?」

 私は別に童顔というわけでもないが、よく二十歳未満であると勘違いされる。声的にも老人であろう、未成年喫煙だと勘違いして注意でもしに来たか。もう慣れたものだが何分鬱陶しいのには変わりない。

「一本、いただけませんか?」

 なんだ、そんなことか。

 私は少しだけ気が緩んだ。

「あぁ、いいですよ。結構タール値高いですけど大丈夫ですか…」

 振り向き、その男の姿を見た私はまた体がこわばった。声は確かに老人だった。声も私より下さから聞こえた。だが、私が振り向きそこに居たのは身長の高い、若年の男だった。

「ええ、普段からかなり高いモノを吸っていますので、ご心配なく。」

 にっこりと笑ったその顔は、人形に無理矢理笑顔を縫い付け、糸で口角を上げているような、ぎこちない笑顔だった。

「どうぞ。あ、ライターはありますか?」

「申し訳ありません、ありがとうございます。ライターはご心配なく。」

 すると、懐からいかにも高そうな金属製のオイルライターを取りだした。

 本当にコイツは煙草をたかる必要があったのか?折角新しい箱を買ったのに…

「久しぶりにこの銘柄を吸ってみましたが、美味しいですね。」

 私が二本目の煙草に火をつけた時、そう話しかけてきた。なんて返すのが正解なんて分かるわけがないだろう、変に話しかけないでくれ…

「そう、ですよね。私も好きなんですよ。」

 好きだから吸っているに決まっているだろう。会話の内容が希薄すぎてこれは会話と呼べるのかすらも怪しい。大きな体躯から発せられる不気味な声質は鳥肌が立つほどに気色悪かった。

「存外悪くないものですね、煙草も人も。」

 此奴は何を言っているんだ…若年と言っても二十代後半から三十代前半には見える。そんな年にもなって厨二病をこじらせているのだとしたらたまったもんじゃない。早めにこの場から逃げよう。

 そう考えたときだった。

「愛されてますか?」

 初対面の人間に対しては些か失礼だと感じるであろうその問いに私は憤りも感じることなく、何故か哀しみが湧き上がった。

「どういうことですか?」

 その問いの答えを伝える前にその問いの真意が知りたくなった。

「いえ、貴女からは愛の欠如、欠陥が見受けられる。なにゆえその様な状態になったのか興味が湧いてしまったのです、ご容赦ください。」

 愛の欠如、欠陥。

 考えたことすらなかった。私の抱いているこの感情は一体何なのだろうか、自分と他人では抱いている感情に違いがあるのではないだろうか。

 そういった、よく言えば哲学的、悪く言えば全く意味の無い疑問の答えを幼い頃から感じていたのは何か、関係があるのだろうか。

「宇宙の総量は宇宙が発生した後も、発生する前も、変わらないのです。我々が死んだところで宇宙の総量に一切の変化は訪れない。愛とは、無から生まれるのです。喜怒哀楽全てが無から生まれています。その無が全てと繋がるのです。」

 あぁ、なんとなくわかる気がする。

 宇宙は今も昔も変わらない『量』で、感情もその宇宙の『量』に含まれているとしたら、無から生まれているという点で喜怒哀楽は等しい。

 いつしか私が辿り着いた考えにも近しい気がする。そうした考えの方が生きるのが楽であったからそう言った考えをし始めたのだが。

「貴女には『愛』が有りますか?」

 そんなの、わかるわけが無い。

 他人が感じている感情と自分が感じている感情に相違が生じているのだとしたら、私も、他の人々も、『愛』の提唱者以外は人の事を愛するだなんて、出来ないのだから。

「私は『愛』を唱えている。何時しか貴女にも悩む日が来るでしょう。これを。」

 腰を低くして、私に名刺を差し出した。

 住所と、電話番号と────


千念ちねん ねがうと申します。」

 そう名乗ると男は、千念はにっこりと笑った。

「1ヶ月後、その名刺に書いてある住所を尋ねてみてください。きっと、貴女にとっていいことが起こりますよ。叶さん。」

 背筋が凍った。

 私は千念に名乗ったことなどない。それも姓ではなく名で呼んだのだ。

 嫌な考えが頭をよぎった。最悪のケースだとストーカーの類である可能性がある。

「貴女の事は共通の知り合いから聞いていたのですよ。行成名前を呼んでしまい、失礼しました。」

 少しホッとした。ストーカー行為に及ぶ人間が態々自分から『私はストーカーです』なんて言う訳がないのだが、少しでもその可能性を否定されたことに安堵を覚えた。

願念がんねん かなおです。」

 何故か、名乗ってしまった。まぁ、名前を知られたところで特に害は無いであろうと判断したからであろう。いつの間にか、この男、千念に対する警戒心は解かれていた。

「それでは、私はここで。」

 霧の深い街灯の明かりだけが見える道に、千念は歩いて消えていった。千念が居た形跡は、この手に残った黒い名刺だけだ。

「何だったんだろうなあ…」

 ポツリと独り言をつぶやき、また煙草に火を着けた。

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