憂き雲と星空

二ノ茶ずけ

そして、世界は再び静寂に包まれた。

 見渡すかぎりに広がる、どこか荒涼とした野原。その地下に埋まっているのは、風に晒され朽ち落ちた旧文明の残骸だ。

 世界から生きる人間の姿は消え、かつて文明の火は潰えた。

 人類の時代が幕を閉じ、既にいくつもの季節が巡って幾星霜の時が過ぎた。



 午後の冷たい風が吹きつける、物静かな丘があった。

 見渡す周囲に人影は無く、なだらかに広がる無人の荒野は静寂の中にあった。

 人間の痕跡がひっそりと消えてゆく一方で、新たな世界は静かな美しさに包まれていた。


 緩やかなその丘の頂上には、一輪の可憐な花が咲いていた。

 時折そよぐ風が草を揺らし、霞むような浮き雲が雄大な大空を彩っている。


 灰色の眼に映る世界には、色がなかった。

 鮮やかな色も、情念も薄く、世界は壁を隔てた向こう側の事だった。


 地球は未だ健在だが、それでも人間にとって、その景色はまさしく終焉の世界らしい。

 人類が永遠の眠りにつき、斯くてこの世界は静寂に包まれている。



ーー


 

 乾いて目やにがこびりついたような、重たい瞼が開けずらかった。微睡みと覚醒の狭間で、自分が草むらの上で寝ていたのだと気が付く。

 

 既に日は沈んでいた。夜の風がひんやりと涼しく、辺りは宵闇の薄暗さに包まれている。空にはうっすらと星が浮かんでいた。


 私が今立っている草原を囲むように、森林限界を迎えた岩肌を見せる険しい山々が聳え立っていた。そこは独特な地形をした盆地の中心にあった。

 清らかな水をひっそりと湛えた湖の目の前に、なだらかな丘がある。

 夏夜の丘に人の存在はなく、大きな自然の静寂がそこにはあった。

  

 夜空の奥に広がる宇宙の広大さを感じながら、私はまだほんのりと白んでいる空を眺めていた。

 昼間は聴こえた微かな音もさっぱり聞こえず、辺りは完全に静寂に包まれているようだった。

 

 私の座る傍らには、奇妙な形をした物体が置かれていた。

 沢山のアンテナが天に向けて伸びており、ラジオとトランシーバーを融合させたような歪な形の機械だ。

 私は時刻を確認して、おぼつかない手つきで機械のダイヤルを回した。

 

 ザザ――、と雑音混じりの状態が続き数秒後。小さな電子音を皮切りに、アンテナの装置が音声を発した。


『ーー。こんーーは、ーーぶり。ーー』


 途切れ途切れに聞こえるその声は、懐かしくも何処か若干の憂いと疲れを帯びている。

 それは私と同年代の、聞き慣れた"彼女"の声だった。

 世界の何処か遠くに居るはずの人間の声を、機械は淡々と、だが確かに紡いでいた。


「…………」


 私は心のどこかで、彼女の存在を長く望んでいたことに気づく。

 彼女の声は静かな世界の中で、鐘のように強く響いて聞こえた。

 その声を聞いた一瞬、息を吹き返すように、眠りから目が醒めた気がした。




 果てのない宇宙は未知の冒険に満ちているーーかつて人類は、昏い宇宙に幻想的な憧れを抱いた。

 そこには情熱があった。

 だから"彼女"も宇宙に出たらしい。

 人類を乗せた方舟は、宇宙へ向けて旅立った。


 それからしばらくして、人類は呆気なく滅んだ。


 地球の表層に、もはや私自身とは別の人間が残っているのかはわからない。

 人類はコールドスリープを使用して、先の見えない恒久的な睡眠へと入った。

 残された蒼い惑星には、錆びついた文明の残骸が、静かに佇んでいた。


 そしてどういう因果か、地上の私と宇宙に生きる彼女が出会った。

 遙かなる世界を旅する彼女と、孤独に寝そべるような私は、時々こんな風に話をする。


 今日もまた、彼女は夢を語った。

 彼女は明るく、そして聡明だった。何でもできるのではないかと錯覚してしまうような人だった。

 彼女はたしかに、私に光を齎してくれた。


 だがそれでも、自明の理というものはある。

 

 宇宙を目指す先駆者パイオニアである彼女たちが、原義通りに、いち歩兵として終わりを遂げるのか、それとも英雄になるのかはわからない。

 彼らは知らない。とうに人類が滅び去ったことを。


 そもそも、彼らには引き返すという選択肢はないのだ。

 地球上の人類は、永遠の眠りについた。地球から宇宙を目指して旅立った宇宙船の故郷は、既に存在しないのだ。


 つまり、彼女たちもそう遠くない内に朽ちる未来にあった。






 彼女と話す数刻はあっと言う間に過ぎ去った。

 私たちは別れの言葉を交わして通信を切った。


 充実した時間だった。

 それなのに、確かに微笑んでいたはずのこの心も、呆気なく、砂のように消えていくのだった。

 私のすぐ隣には、心細さがあった。

 静寂が支配する世界の中で、私には本物というものが感じられなかった。


 彼女はここには居ない。

 彼女は何光年か離れたどこかの宇宙空間に居た。

 そして、彼女がそんな環境にいることにも私には現実味が無かった。

 分かっていたことだ。彼女らに生き延びる未来はない。

 当たり前のように、その道の先で、彼らもいずれ眠りにつくだろう。


 丘に寝そべり、空に浮かぶ雲を眺めながら、渦を巻き出す思考があった。

 そしてそれと同時に、静寂の中で迫り来るものがあった。それは深い眠気だ。

 どこか心を惹きつけられるその暗闇が、すぐ目の前にあった。

 

 たとえば、いつも眠りにつく時に考えることがある。

 眠りに落ちる時、そのまま起きることなく消えてしまえるのではないか、そんな想像があった。


 静かな世界の静かな丘で、目を閉じようとした時だった。

 空には夜ながらも、薄暗い雲が夜空を覆っていた。


 思わず目を閉じてしまうような、長く、強い風が吹いた。

 風が治まった頃、目を開けると、そこには眩まばゆい世界があった。夜空に輝く、幾千もの砂の粒。



 それは真砂のような、煌めく星の海だった。

 きめ細かな幾千もの星の砂が、満天の空を作り出していた。

 

 恐ろしくも儚いその光景は、ただ、壮大な自然を含んでいた。


 空に浮かんでいた雲は流され、残されたすじ雲が空を彩り星空を飾る。

 

 世界へのある種の没入感を得ながら、私の心の奥底で、一つの気づきがあった。


 孤独な世界には自分が一人で、思考が渦を巻いていた。

 情熱と共に生きる彼女は、ここには居なかった。


 空を見上げれば、数なき星の其の中にある、私を照らす"彼女"の光が瞬いて見えた。


 そこには世界で孤独な自分だけが感じられる、世界への情動があった。


 星降る美しい夜空を見上げ、私は彼女に幸せな夜が訪れることを願った。

 私はそっと目を閉じた。

 

 そうして人類は永遠の眠りについた。

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憂き雲と星空 二ノ茶ずけ @susukeke

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