第五章 カーテンコールは二回まで

5 - 1 鹿野素直 ①

 週末。稽古は休みになった。台本を完成させた不田房は金曜日の夜の稽古場で出演者、スタッフに製本が間に合わなかった紙の束を配り、


「月曜日までに読んでおいてくださーい。あと各自ファイルに閉じるとかしてくださーい」


 と明るく言い放った。


 土曜日、不田房と鹿野は特急電車に乗ってQ県へと向かった。宍戸は雑用を片付けてからクルマで後を追うと言っていた。指定席は鹿野が予約した。不田房が窓側に座りたがるかと思っていたのだが「外見てた方が酔わないでしょ」と言って譲ってくれた。たしかに鹿野は電車で長距離移動をすると酔う方だ。


「どうも」

「うん。あ、飲み物も買ってきたよ。鹿野は味ない炭酸が好きなんだよね?」

「味はありますけど……はい……」

「俺これにしちゃった、ご当地サイダー。ご当地じゃなくても買えるんだね、こういうの」


 不田房は楽しげだった。十年前の再現のようだった。


「なんか……」

「ん?」

「合宿行った時のこと思い出しますね」

「ああね! 十年……ぐらい前! あの時は俺コーラ飲んだんだよなぁ」


 相変わらずどうでもいいことばかり記憶している。


「行き先も同じ、っすね」

「Q県? そうだね。でも今から行くのは、泉堂さんのコテージじゃないよ」


 間宮探偵が林壮平から回収してきた手紙には、確かにQ県S村、個人所有のコテージが何軒も並び立っている場所の住所が書かれていた。泉堂も、嘗てはQ県にコテージを持っていた。売り払ってしまったのは去年か、それか一昨年だったか。感染症の影響だ。「維持費もかかるし」と泉堂はあっけらかんと言い放った。「感染症が落ち着いたら今度は海の方に別荘でも買うか」と。泉堂の趣味は、サーフィンだ。それなのにQ県にコテージを持っているのが、そもそも不思議だったのだが。

 不田房が買ってきてくれた炭酸を口に含み、背もたれに体を預ける。眠たくなってきた。


「寝な寝な」


 不田房の声が、妙に遠く聞こえる。


「俺、お弁当食べよ!」


 ──だから、なんであんたはそんなに呑気なんだ?


 十年前。不田房の言い方を借りれば十年前に行われた、全員自腹合宿。参加希望者は各々電車のチケットを取り、Q県内でいちばん大きな駅で現地集合をした。鹿野は不田房とともに前乗りをしていた。コテージ内を掃除する必要があったのだ。コテージの持ち主である泉堂一郎も一年に一度使うか否かといった建物の中はうんざりするほど埃まみれで、演出家と演出助手はふたりして広い建物の中を掃除し、布団を干し、食糧を持ち込み、学生たちの到着に備えた。

 合宿の目的は色々あったが、演技のレッスンがやはり印象に残っている。大学で講義を行う際には役者を勤める学生以外にもあれこれと指示を出すのが不田房の仕事だったが、彼の本職は『演出家』なのだ。役者、舞台上で演技をする役割を希望する学生を中心に、真夏でも涼しいQ県の広いコテージで演技指導を行う若い不田房栄治の姿を、今もまざまざと思い出すことができる。

 三泊四日の合宿。毎日ずっと演技のレッスンだけをしていたわけではない。休憩時間の方が長かった気がする。川遊びもしたし、釣り道具を持って来た後輩もいた。そうだ。斎藤さいとうだ。懐かしい名前。一回生の斎藤ひとしと、三回生の近藤こんどうたけし、それに鹿野は休憩時間にやたら水場に遊びに行った。斎藤は実家がかなり山の奥深くにあるとかで、川釣りには慣れていると言っていた。「魚釣ってどうするの? 食べるの?」と尋ねた鹿野に「この辺の川の魚、食っても大丈夫なのかわかんないけど……自己責任で食います?」と斎藤は細い目を更に細めて笑い、斎藤が釣った魚を捌いて焼いて食べた近藤は翌日腹を壊していた。「火の通りが甘かったんすかねえ」と斎藤は悪びれず、鹿野は「食べんで良かったぁ」と思わず本心を口にしてしまった。

 楽しかった。楽しかったのだ。

 三日目の夜に、真小田崇と田淵駒乃、それに彼の取り巻きがコテージの窓ガラスを割るまでは。


「鹿野、お弁当食べる?」


 浅い眠りから覚醒する。不田房が顔を覗き込んでいる。眠りに落ちる前に身に着けた黒いマスクを外しながら「食べます」と鹿野は小さく答えた。


「今どこですか」

「鹿野が寝てからまだ30分ぐらいしか経ってないよ。あと2時間ある」

「うええ……」


 ところで、こういった電車内での車内販売の弁当は、今はすべて予約制になっているのではなかったか。


「そうだよー。予約した」

「マジすか。不田房さん弁当の予約とかできるんすか」

「できますよ! 大人ですから!」

「指定席の予約はできないのに……」


 小さく笑いながら弁当を受け取った鹿野は、窓の外の緑を眺めながら箸を割る。夢を見ていた。昔の夢だ。楽しかったな。合宿。斎藤均と近藤武。彼らは今どこで何をしているのだろう。大学を卒業してすぐ、ほとんどの同期生の連絡先は消してしまった。だから少し前に人気アイドルが主演する舞台を不田房が演出することになった際、大勢の知人──と思しき人間から連絡が入ったのだが、その大半が誰なのか鹿野には分からなかった。不義理をしている。自分のせいだ。林壮平といういちばんどうでもいい人間は間宮探偵が見付けてきてくれたのに。こんなことになるぐらいなら、斎藤や近藤、それに中村、西に、桃野──演劇講座を一緒に受けていた彼、彼女らと、もっとしっかり繋がっておけば良かった。


 寂しい。

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