3 - 3 田淵駒乃 ②

 10年前。鹿野は20歳だった。

 不田房は30歳で、大学の頃の同期や先輩と立ち上げた劇団が「音楽性の違いにより」解散し、フリーの演出家として仕事を始めたばかりだった。


「いや、やっぱね、劇団に所属してるって大事ですよ」


 と、30歳の不田房は20歳の鹿野に言った。


「なんでですか?」


 喫煙所で煙草を咥えながら、鹿野は尋ねた。それほど興味のある話題ではなかったが、不田房が喋りたそうにしていたからだ。『演劇講座』の第一回公演に向けての稽古は始まっていた。夏だった。暑かった。10年前。今よりは幾らかマシだったけれど、外で煙草を吸うのはそれなりにしんどかった。水曜日だけは稽古場として使用することができる大学構内にあるホールの入り口には喫煙スペースがあって、そこでなら中から漏れてくる冷房の風を浴びることができた。だが、稽古が始まってからの鹿野はホール前を避けた。主に役者として起用された学生たちの溜まり場になったからだ。友だちがいないわけではない。だが、彼らの考え方には、どうも付いていけない部分が多いのも事実だった。

 それで、不田房と初めて顔を合わせた、喋った、例の喫煙所で汗を拭いながら煙草を吸っていた。そこに、なぜだか不田房も毎日のように現れるようになった。ホール前にいればいいのに。役者もスタッフも、不田房に質問したいことが山ほどあるはずなのに。


「どうしたってね、劇団傘牧場かさぼくじょうの不田房栄治として知られちゃってるんでぼかぁ」

「かさぼくじょう」

「っていう劇団名だったの! 変な名前でしょ? 先輩……同い年なんだけど学年がいっこ上の人が決めたんだけどさぁ。まあそこそこ売れてた」


 劇団名を傘牧場に決めたのが能世のぜ春木はるき──10年後の現在人気演出家として劇場だけではなくテレビや映画といった映像業界でも引っ張りだこの人間だということを、当時の鹿野は知らない。また、不田房がその名を口に出すこともなかった。


「傘牧場の不田房栄治じゃなくなっちゃうとどうしてもね……仕事も減るんだよね……」

「世知辛いっすね」

「きみ……心が……こもってないね……」

「そうですか?」


 実際、どうでもいい話だった。劇団がなくなったぐらいで仕事が減るような業界にいるのであれば、なぜ劇団解散を阻止しなかったのか。鹿野の感慨は、その程度のものだった。


「音楽性がねえ……」

「音楽性っすか……」


 会話が途切れることも多くなかった。ふたりとも汗を拭いながら、黙々と紫煙を吐き続けた。天気の話だとか、そういった世間話の王道に触れることもない。喋ることがなければ黙っていればいい。当時の鹿野は、話題が尽きた不田房がこの場を去ってくれることばかりを望んでいた。だが不田房は思い通りにならない男だった。休憩時間を終えて稽古場に戻る、もしくはバイトのために下校準備を始める鹿野を見てようやく「俺も行こ」とニコニコしながら言い放つのだ。妙な男だった。


 田淵駒乃が喫煙所に現れるようになったのは、稽古が始まって三ヶ月が経った頃だったと記憶している。

 田淵は非喫煙者だった。そして、喫煙所に現れたその日、たしかにこう言い放った。


「ね、鹿野ちゃん」


「なんで鹿野ちゃんは演出助手に指名されたの? オーディションにも、授業にも全然来てなかったのに」


 返す言葉がなかった。田淵とは、以前は友人だった。だが今は違う、と鹿野は思っていた。田淵は役名を貰った学生や、今回の舞台では役者ではないものの大学以外の場所で舞台に立っている同期生や先輩との中を深めることに熱心だった。衣装班としての仕事をどの程度していたのかは、知らない。鹿野も鹿野で忙しかった。だが以前のように連れ立って講義(演劇講座以外の授業にも一緒に出ることがあった、特に一回生の頃は)に向かうこともなくなったし、昼食をともにする機会も減った。田淵にとっては『』がすべてだったのだと鹿野は判断し、薄れていく距離を惜しむこともなく、与えられた『演出助手』という仕事に没頭した。


「知らんよ」


 田淵の問い掛けに、鹿野はそう答えた。


「うちかて驚いとるんじゃ」

「方言」


 田淵が笑う。


「……別にええじゃろ」


 鹿野の父親の実家は山陽地方にある。鹿野素直は小学生まで山に囲まれた田舎で育った。父、鹿野迷宮の何らかの(何だかを娘の素直はまったく知らない)研究が認められ、都内の大学に教授として招聘されることとなり、父娘ふたりで移住をした。中学校では方言を理由に同級生から散々いじられ、何ならいじめに近い事態にまで発展し、鹿野は喋り慣れた方言を封じた。鹿野迷宮は呑気な男だが娘の危機には敏感で、いじめに近い行動を取っていた同級生とその保護者に対し弁護士を立てて挑んだことを今も昨日のことのように思い出すことができる。

 高校の三年間は黙りこくって過ごし、大学に進学してようやく鹿野は自由になった。幸いにも鹿野が進学したL大学には地方から上京してきた学生も多く、誰がどこの方言で喋っていても奇異の目で見る者はいなかった。


「鹿野ちゃんって、不田房先生のことどう思ってるの?」


 円柱型の灰皿を挟んで、鹿野と田淵は向かい合った。


「どう?」

「不田房先生、前は俳優さんだったんだって。ちょっと検索したら写真いっぱい出てくるよ、ほら」


 と、田淵が差し出すスマートフォンにはSNSにアップされたと思しき若き日の不田房栄治の写真が何枚も写し出されていた。


もう役者やめちゃうのかな?』

『唯一無二の存在感! フタフサエージ!』

『傘牧場解散悲しすぎる 再結成してほしい〜』


 SNSに寄せられるそんな言葉たちを、鹿野は口を半開きにして眺めた。不田房栄治とは。こんな風に惜しまれるような男だったのか。


「イケメンだよね」

「そ……いや、わからん」


 そうだね、と気軽に同調するには今の不田房栄治を知りすぎている、と。鹿野はその時初めて気付いた。

 おそらく、田淵駒乃はもっと早くに勘付いていた。鹿野が自覚していない鹿野自身の感情に。


「鹿野ちゃん、好みじゃないの? 不田房先生のこと」

「あん人は講師の先生じゃろ。そんな風に見ることないわ」

「……へーえ、そうなんだ」


 田淵は笑っていない目で鹿野の顔を覗き込み、そうして言い放った。


「それじゃ、私と不田房先生が付き合っても文句言わないよね?」


 意味不明だった。

 本当に訳が分からなかったのだ、その当時は。

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