2 - 2 探偵 ②

 メインの大通りからは少し外れた、路地裏の、ゆるく長い坂の上に指定された喫茶店があった。店の入り口に『喫煙可能店』とステッカーが貼られており、少しだけ緊張が解れる。扉を開けると、カウンターの中でスマートフォンを眺めていた金髪の女性が「煙草吸いますか?」と尋ねた。


「吸います。あと……待ち合わせです」

「じゃあ奥ですね。四人掛けの席、どうぞ」


 店内は空いていた。カウンター席に数名、紙煙草を加えたスーツ姿の男性が座っている。それに二人掛けの席でノートパソコンを広げている女性がひとり。

 店のいちばん奥、座り心地の良さそうなグレーのソファで作られた四人掛けの席には、既に先客がいた。女性だ。


「あの」


 鹿野が名を呼ぶ前に、女性がパッと顔を上げてこちらを見た。


「鹿野さん?」

「鹿野です、あの」

間宮まみやです。宍戸の?」

「はい。宍戸さんの。その」

「あ、座って座って。外暑かったでしょう。ごめんなさいねこんな坂の上まで」

「はあ、まあ……」


 ソファに腰を下ろし、金髪の女性が持ってきたお手拭きで両手を拭く。それからグラスの水をひと息に飲み干し、ショルダーバッグから取り出したタオルハンカチで額の汗を拭った。

 探偵──間宮最は、何が楽しいのかニコニコと微笑みながら鹿野の一挙手一投足を眺めている。

 間宮まみやかなめ。そういう名前だったはずだ。宍戸がそう言っていた、から。


「何か飲む? 飲みますよね? すみませーんアイスコーヒーふたつくださーい!」

「あっあの、アイスレモネードもください」


 喉が渇いていた。アイスコーヒーだけでどうにかなる気がしなかった。鹿野の追加注文に長いまつ毛を揺らした間宮は、


「私もアイスレモネード! あとねー、チーズケーキふたつ!」


 いっぱい頼むな、と思った。ちょっと不田房に似ているな、とも。


「えー、改めまして。私立探偵の間宮最と申します。これ名刺」

「ありがとうございます。名刺はないんですが、都内で演出助手という仕事をしている鹿野素直と申します。こちら、次回公演のチラシになります」


 間宮に仮チラシを手渡し、名刺を受け取った。本当に『私立探偵』と書いてある。ミステリ小説でしか見たことのない肩書きだ。

 間宮最には、右手の小指の先端がなかった。


「ヘビースモーカーズ、何回か見に行ったことあります」

「え、そうなんですか。ありがとうございます」

「いえいえ。宍戸クサリにチケットを貰いまして。招待席でありがたく」

「宍戸さんとは、お友だち、なんですか?」


 アイスコーヒーとアイスレモネードとチーズケーキが各二つずつ運ばれてくる。広かったはずの四角いテーブルの上が、あっという間に埋まっていく。


「友だち……といえばまあ。あの人結構仕事回してくれるんで」

「そうなんですか」

「鹿野さんと宍戸は、仕事の関係で?」

「そうです。宍戸さんは、制作と、舞台監督を……あっ舞台監督っていうのは……」

「大丈夫大丈夫。なんとなく聞いてます。あの宍戸クサリがね、ちゃんと仕事をね」


 くふふ、と煙草に火を点けながら間宮は笑う。鹿野は安堵する。この人は既に知っているのだ。色々なことを。


「ちょっと、飲んでからでいいですか」

「どうぞどうぞ。私もレモネード飲も。この店でコーヒー以外のもの注文するのはじめて」


 細面の、端正な顔立ちの女性だった。艶のある黒髪、薄っすらと日焼けした顔、目元に散りばめられた細かな星に似たラメ、長いまつ毛は藍色だ。赤いくちびるがストローを咥えるのを視界に入れながら、ガムシロとミルクを大量に投入したアイスコーヒーのグラスをぐっと掴む。そうして氷ごと一気に飲み干した。こめかみがキーンと痛む。だがこれぐらいしないと、外の暑さで朦朧としている脳を目覚めさせることができそうになかった。


「豪快」


 間宮が楽しげな声を上げる。


「外、暑くて、ほんとに」

「分かる。うちの事務所に来てもらおうかと思ったんですけど、エアコンがね……壊れちゃって……」

「それ、すごい困るんじゃ」

「そう、すごく困ってる」


 だから、と間宮はチーズケーキにフォークを突き立てながら続けた。


「宍戸から依頼が来てラッキー、みたいな。エアコン代稼がなきゃ」

「なるほど」


 宍戸は、目の前の探偵にいったい幾ら依頼料を払うのだろう。多少はヘビースモーカーズの制作費から出した方が良いのではないだろうか、などと思いつつ、鹿野もチーズケーキにフォークを突き刺す。

 短い沈黙があった。


「間宮さん」

「はい」

「宍戸さんからは、どの程度……?」

「だいたい全部。妙な手紙が届き始めたっていうところから、剃刀、それに先週末、新しい手紙がまた届いたっていう」

「なるほどです」


 たしかに全部だ。鹿野は、今日は稽古場に足を運んでいないので分からないのだが、おそらく週末も──そして週明けの今日も、不審な封書が届き続けているのではないかと予想していた。

 鹿野のカバンの中にあるのは、週末に届いた封筒のみだ。

 宍戸が一旦封を切って中を確認し、「不田房に見せる必要はない。探偵のところに持っていってほしい」という言葉と共に託されたものだ。


「封筒、いいですか?」


 チーズケーキを食べ終えた間宮が言った。店員である金髪の女性が音もなく席に近付き、空になったグラス、皿を次々に回収していく。ソファ席に置いていた黄色いバックパックからノートパソコンを取り出す間宮に、鹿野は封筒を差し出した。


「あら、ほんとにSDカード」


 封筒を逆さにして振った間宮が、独り言のような調子で言う。SDカードだ。手紙はない。台本のコピーもない。本当にSDカードだけが封筒の中に入っていた。


「拝見拝見〜っと……」


 間宮のノートパソコンを覗き込むことはできない。鹿野は黙って煙草を取り出し、火を点けながら探偵の反応を待った。

 再び、短い沈黙。


「鹿野さんは」


 間宮が口を開く。


「見ましたこれ?」

「いえ」

「じゃ見た方がいいかな。宍戸もそのつもりだろうし。どうぞ」


 と、ノートパソコンを手渡され、鹿野は大きく瞬きをする。


 そこには、不田房栄治の姿があった。隠し撮りだ、と一瞬で分かる角度で撮られていた。


 不田房は、歩いていた。真っ昼間だ。稽古場に向かっているのだろうか。いや、服装から察するにこれは最近の映像ではない。春先だ。だが、今年の春、不田房はこんなジャケットを着ていただろうか? 見覚えがない。秋──10月の本公演に向けて行われる稽古の打ち合わせと称して、不田房と鹿野は春先から何度も顔を合わせていた。もちろん宍戸が参加することもあった。音響の水見や、照明の泉堂に「今回もよろしくお願いします」と三人で頭を下げに行ったことも。

 違和感。これは違和感だ。


「どう思います?」


 間宮の問いに、考えるより先に言葉が出た。


「変です。昔の映像じゃないですかこれ」

「と、宍戸も言っていました」


 不田房の顔は映っていないが、カメラは彼の背中をずっと追いかけている。今よりもかなり細身だ。別に不田房が肥っていると言いたいわけではないが、加齢による肉付きの良さはどうしてもある。細い。これは。まるで。


「10年前の不田房さんみたいだ……」

「10年近く前、かも」


 ソファから腰を上げた間宮が、手を伸ばして映像を停止させる。それからパソコンを回収し、SDカードを取り出し、


「ほら」


 と手のひらに乗せて鹿野に向けて差し出した。

 SDカードには、2010年代の日付が記されている。

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