1 - 9 手紙 ⑥

 日付が変わってしばらく経ったタイミングで、宍戸は自身の寝室に、鹿野は客間に通された。この部屋で寝るのは初めてではない。背の低い本棚が幾つも置かれた小さな部屋。敷布団と枕、それにタオルケットを宍戸は貸してくれた。寝る前にシャワーも借りた。化粧品に関してはあまり気にしない。宍戸の家にはいつもある程度の化粧品が常備されている。交際している相手、女性がいるのだろうかと時々気になるが、宍戸とはそういう話をする距離感ではない。

 宍戸がシャワーを使っている間に「ヴェンちゃん、一緒に寝ようよ」と声をかけてみたが、ヴェンは涎を垂らして眠る不田房の腹の上から移動する気はなさそうだった。


 客間に引き上げる。脅迫状についての話し合いが終わり次第不田房を速やかに帰宅させるために宍戸の家に来たというのに、当の不田房がアレではどうしようもない。鹿野もこんなに長居をするつもりはなかった。そばがらの枕に顎を乗せて、暗闇の中でスマートフォンを光らせる。自身のSNSをチェックし、それから問題の、不田房の鍵アカウントへ。本当にろくな書き込みをしていない。このところは「書けない」「思いつかない」「助けて」「マッコリうまい」「真小田まこたくんテレビでみた」「今回も演助は鹿野ちゃん!」などと……。


(いや今回もって、それ改めて書くようなことか?)


 別に不快ではないが、不田房の思考回路が改めて分からなくなる。鹿野素直は既に10年、不田房栄治の演出助手を勤めている。それがヘビースモーカーズの公演であっても、不田房が演出家として参加する劇場主宰の公演であっても変わらない。都合があってヘビースモーカーズの公演を外れたことも過去数回あるにはあるが、それはそれでSNSなどに「鹿野辞めたんか」「別れたのか」などと部外者の憶測を書き込まれて面倒だったので、不参加の際にはいちいちヘビースモーカーズの公式アカウントに「今回は演出助手鹿野素直は不参加です」「不田房とはビジネスパートナーです」と明言するようになっていた。


 「真小田くんテレビで見た」は昨晩の書き込みだ。「マコちゃん芸人としてもいいよね」「暗闇橋とコラボとかすれば? 師弟コラボ」と鍵アカを覗ける数少ない人間から声をかけられているが、特に返信はしていない。不田房はだいたいいつもそうだ。オープンアカウントの方でもほとんど返信をしない。直接メッセージを送られても、しない。驚くほどに人間との交流に無関心だ。なぜSNSをやりたがるのか分からない。

 師弟コラボ、という文字に舌打ちをする。この書き込みをしたのは──ああ、以前ヘビースモーカーズに出演した男性俳優か。たしか真小田の劇団・暗闇橋の向こうにも出演していた。


 何も知らないから、こんなことを気軽に書き込めるのだ。


 鹿野は、自分のことを時々、イヌだと思う。番犬。もしかしたら狼かもしれない。群れを大切にする狼。でもできることは限られているから、狼ほど強くはない、やはりイヌだ。不田房栄治の番犬。

 不田房に危害を加える存在を、絶対に許すつもりはない。

 と、目の前にSNSアプリの通知が現れた。


『おれはだいじょうぶ』


 不田房だ。

 不田房が書き込んでいる。

 目を覚ましたのか。今から家に帰るのだろうか。宍戸はまだ起きているか、いや、先ほど寝室のドアが閉まる音が聞こえた気がする──

 スマートフォンを手に立ち上がった。廊下は暗かった。宍戸はもう寝てしまったみたいだ。壁に手を触れ、ゆっくりとリビングに向かう。常夜灯の下で、ヴェンを膝に抱いた不田房がテレビを見ていた。


 映画だ。


 タイトルは分からない。でも見たことがある気がする。いつ? どこで? 学生の頃、不田房に連れられて行った映画館、名画座で。古い映画だ。10年前に既に古かったから、今はもう、かなり古い。地上波の深夜放送だろうか。それとも宍戸が、こういう古い映画を見れる何らかの契約をしているとか──いや──そんなことはどうでも、良くて──


「懐かしくない?」


 こちらを振り向かずに、不田房が言う。


「懐かしいっすね」


 寝癖の付いた後頭部を見ながら、鹿野は応じる。


「俺この映画好きだなぁ」

「知ってますけど」

「なんでブルーレイ出ないんだろ?」

「……需要がないんじゃないですか?」

「切ないこと言うなよ〜」


 10年前にもこんな会話をしたな、と思い出す。「なんでDVD出ないんだろ?」「需要がないんじゃないですか?」「切ないこと言うなよ〜」。でもその後、そう、去年だったか、遂にDVDが出たんだった。画質はそれほど良くなかったけれど、不田房は大喜びで何枚も買い込み、そのうちの一枚が鹿野の手元にもやって来た。


「いや、あんのよ、需要は絶対」

「断言ですか」

「だってこんな時間に地上波で放送してるんだよ。そして俺がそれを見ている」

「はあ」

「鹿野も見てる」

「私は、別に」

「俺はね、鹿野くん」


 暗がりの中で、不田房が振り返る。

 笑っている。


「マジで大丈夫!」

「……さいですか」


 何が、などと曖昧に応じるのも馬鹿馬鹿しくなって、それだけ言った。不田房栄治が大丈夫だと言うなら、まあ大丈夫なのだろう。脅迫状が来ても。鍵アカウントを監視されていても。10年前の台本で包まれた剃刀が送り付けられても。

 鹿野素直は、不田房栄治の演出助手だ。不田房が黒いカラスを白いと言ったら殴ってでも訂正させる気持ちはあるが、脅迫状についてはそうでもない。


「寝ますわ」

「えー、最後まで見ないの?」

「ここ宍戸さん家ですよ……」

「二軒先は俺ん家だよ!」

「おやすみなさい」


 客間に戻り、タオルケットを引っ被って寝た。翌朝、死んだように眠る不田房を眺めながら宍戸とふたりで朝飯を食べ、洗い物まで全部終わったタイミングで「俺も朝飯!」と騒ぐ不田房に「自分ちで食え!」と宍戸が怒鳴るのを見守り、それから三人で稽古場に出勤した。今日も泉堂は不在なので宍戸が留守番を担当しているのだ。ノートパソコンを抱えた不田房が「俺ちょっとその辺のカフェで書いてくる」と逃げようとするのを、首根っこを掴んで止めた。全力でサボる姿が目に見える。ならばいっそ、泉堂ビルの受付で台本の続きを書かせた方がマシというものだ。


「お」


 郵便受けを開けた宍戸が、口の端を引き上げて笑うのが見えた。


「来てるぞ、四通目」


 昨日と同じだ。郵便局を通さずに、直接郵便受けに投函された封筒。泉堂が受け取った最初の二通はS区の名が入った証紙が貼られていたから、おそらく郵便配達員が運んできたのだろう。宍戸が受け取った昨日の分は、直接郵便受けに投函されていて──理由はなんだ? 剃刀が入っているからか?


「今日は何が入ってんだろうね?」


 封筒を軽く振って、宍戸が言う。カサ、と乾いた音がした。

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