1 - 8 昔話 ③

 不田房はリビングに置いてあるソファで寝入ってしまった。長い脚を余らせて仰向けに横たわる彼の腹の上に、宍戸と一緒に暮らしている猫・ヴェンが陣取った。元野良猫のヴェンは隻眼で、意外と人懐っこい性格をしている。


「ヴェンちゃん、可愛いですねぇ」


 脅迫状から感じる悪意から目を逸らしたくて、鹿野はぽつりと呟いた。


「ああ。客が来ても人見知りしないし、留守番も嫌がらない。しっかりした猫だ」


 頬杖をつきながら宍戸が応じる。

 台本の1ページに包まれた剃刀。

 一通目、二通目とは較べものにならない悪意の濃さに、あまり良い色ではない沈黙が落ちる。


「──これ」


 だが。

 結局、先に口を開いたのは鹿野だった。

 手を伸ばして、剃刀を包んでいた紙の端に触れる。警察に提出する際に鹿野の指紋がベタベタ付いていて捜査に支障をきたす──なんてことになったら困るので、四角い紙の端っこを指先でそっと摘んだ。


10

「ほう?」


 宍戸が小首を傾げて応じる。


「どういう意味だ?」

「ああその……10年前の公演に使われた台本は、そこで寝てるおじさんの手元にある原本を大学内にあるコピー機でコピーして、ホチキスで閉じて、って感じで作られたもので、」


 言葉を切る。紙を引き寄せて、じっと見詰める。やはり違う。


だったんですよ」

「藁半紙?」

「はい。経費削減だかなんだか知らないんですけど、私たちに配られた台本は表紙が色紙いろがみ……ピンク色だったかな……で、中身は藁半紙でした」

「それ、現物まだ持ってるか?」


 問いに、鹿野はゆるゆると首を横に振る。


「もう捨てました」

「そうか」


 然程残念でもなさそうに宍戸は呟き、席を立つ。数分の孤独。鹿野の目の前にある紙はあの頃の台本の最初の方のページで、タイトルと役名──まだ誰が何を演じるかどころか、どの学生が役者を勤めるのかすら決まっていない段階だったので、役名だけが記されている。

 宍戸が、温かい緑茶が入ったマグカップを手に戻ってくる。


「鹿野は毎回捨ててるって言ってたな、台本」

「ええまあ。……よく覚えてますね」


 いつだったかの打ち上げでそんな話をしたのだ。不田房と組むようになって10年。演出助手を一生の仕事にすると決めて5年。あちこちの現場を飛び回っていると、どうしても手元に紙の台本が増えてくる。だから、ヘビースモーカーズの台本は捨てることにした。他の現場の台本は、後々何かに必要とされたり、一緒に仕事をした演出家に「前のやつ持ってる?」と聞かれることがしばしばある。だが、不田房に関してはそれはない。彼は自分の書いた台本をすべて綺麗に製本して本棚に立てているし、電子データも数カ所に分散させて保存している。不田房は己の作品が好きなのだ。良いことだと思う。それに。


「あの頃から、あんま変わんないんですよね、私」


 と、鹿野は足元に置いてあるショルダーバッグからメモ帳を取り出す。

 未だ第一幕までしか完成していない不田房栄治新作の、二幕以降についてのアイデア。煙草の煙で噎せながら不田房が口走る言葉、うわ言、戯言たわごとをすべてメモしてある。学生の頃からそうだった。『演劇講座』が始まって最初の年。最初の公演。不田房は演劇初心者、或いは経験者の学生たちを相手に丁寧にオーディションを行った。また、照明、音響の指導をする外部スタッフを連れてきて、出演以外の仕事をしてみたいという学生のヒアリングをし「来週、キャストとスタッフを発表します」と爽やかに微笑んで言った。発表の日には、授業にはほとんど顔を出さなくなっていた鹿野も久しぶりに出席した。不田房には喫煙所で会っていた。毎週、どころではない、毎日。授業のない日にも不田房は大学内を徘徊し、今後の稽古に使えそうな空き教室を見繕い、学校相手に交渉を行っていた。水曜日の四コマ目以外は、ホールを教室として使うことができなかったのだ。思えば大学側も身勝手だと思う。今の鹿野だったら、学校相手に散々に文句を言って出入り禁止になっていたかもしれない。


 さて置き。


 キャストには演劇経験者と未経験者を半々で、スタッフは照明、音響に興味を持った者たちが希望通りに配置された。舞台監督にも、外部の人間を呼んでいたと記憶している。外部から招かれた舞台監督をリーダーとした『舞台班』が作られ、そこに舞台美術、衣装、そして舞台監督という仕事そのものに興味がある者が参加した。


「でね──」


 学生たちの名前をメモしていると思しきメモを見ながら喋り続けていた不田房が、不意にこちらを見た、気がした。鹿野はその時、ホールのいちばん後ろでスマホを見ていた。SNSで知り合った友人と、どうでもいい与太を飛ばし合っていた。


鹿


 気がした、どころの話ではなかった。不田房栄治は鹿野素直を真っ直ぐに見据えていた。


に指名します」


 意味が分からなかった。

 そんな業務があるということすら鹿野は知らなかった。今日ホールに来たのは毎日のように喫煙所で愚痴を溢しているあの情けない演出家がどのように役柄、役職を割り振り、そして稽古に踏み切るのかを我が目で確認したい、という意地の悪い気持ちからだった。

 自分の名前を呼ばれる予定なんてなかったのだ。


 そこから鹿野の学生生活は狂い始めた。不田房栄治と連絡先を交換し(まずこれが想定外だった)「稽古中はずっと俺の隣にいてね」と言われた。嫌だった。不田房を男性として意識している女生徒がいることを鹿野は既に知っていた。そういう──人間関係の縺れに巻き込まれるのは絶対に嫌だった。嫌だったのだ。

 稽古は週に4日、水曜日だけはホールで、残りの3日は不田房が大学に交渉して押さえた空き教室で行われた。最初は台本の読み合わせ。次に立ち稽古。不田房の指導は、悪くなかった。演技をしたことがない者も、経験者も、それに音響、照明、舞台班といったほぼ全員が初心者のスタッフたちも、皆不田房の指揮に乗って楽しんだ。焦っているのは鹿野だけだった。なんだ。演出助手ってなんだ。何をしろっていうんだ。不田房は「俺の隣にいてね」としか言わなかった。意地が悪い。いや、性根が悪いという意味では鹿野も同じだ。似た者同士だった。それで鹿野は仕方なく、読み合わせから立ち稽古に至るまでに不田房が行ったダメ出し(というほど厳しいものではなかったが)や、役者に対する希望、更にはスタッフたちへの要望などを台本にメモした。黒いボールペンでメモを取っていたらすぐに何がなんだか分からなくなってしまったので、赤と青のボールペンを追加し、蛍光ペンも何本か買った。結果的にはそれで良かった。「鹿野、先週俺なんつったっけね?」と不田房がしれっと尋ねるのを呆れ顔で見上げながら「役者にはこう」「スタッフにはこう」と書き込みだらけの台本を見ながら答えた。そうして不田房と鹿野は、始まったのだ。


「だから、終わった台本って手元に置いときたくないんですよ」


 鹿野の言葉に、宍戸が小さく笑う。


「色々思い出すから?」

「いえ、何書いてあるのか分かんないから」


 稽古期間は良いのだ。必死だから。けれど、何もかもが終わってから台本を開くと、当時の自分が、そして不田房が何を考えてどう動いていたのかなどまったく思い出せなくて、その上書き込みだらけの台本は読み物としても面白いものではなく、大学卒業と同時に全部捨てた。不田房にも許可を取った。「いいよー」と彼はあっさり言った。「新しいやつあげるね」とも。


「この紙は──」

「そうなんです、藁半紙じゃないんですよね。コピー取ったのかな……」


 鹿野が捨てた台本は表紙は色紙、本文は藁半紙。後に不田房が新しくくれた台本は、彼が個人的に印刷、製本して取ってあるのと同じものなので、ちょっとした文庫本といった雰囲気だ。サイズもまるで違う。最初の方のページにタイトルと役名が書かれているのは同じだが、役者名も載っている。上演後に作られた本だからだ。


 剃刀を包んでいたのは、間違いなく、10年前の台本をコピーするなどして複製した紙だ。

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