1 - 2 昔話 ①

 大学に講師として姿を現した不田房とはじめてまともに口を利いたのは喫煙所で遭遇した時で、鹿野はその時点で受講をやめようと決意していた。現役の若手演出家である不田房が「年度終わりに公演をする」と言い出したのだ。高校時代に演劇部だったとかで演技経験がある学生や、現在も劇団に所属しているという者は鹿野が想像していたよりもずっと多くいて、それ以外の未経験者や、演劇を見たことはあるがやったことはないという人間もだいたいが盛り上がっていた。露骨にテンションが下がっていたのは鹿野だけだ。


「台本読んだ〜?」


 紫煙を燻らせながら、不田房は間伸びした声で尋ねた。貰った台本は、トートバッグに突っ込んだまま開いてもいなかった。

 今日ここで煙草を吸うのは諦めよう、と思いながら鹿野は首を横に振った。


「まだ? 今読む?」


 なんでそうなるんだ。鹿野はハイライト・メンソールの緑色の箱を握り潰しそうになりながら、灰皿の傍らに立つ不田房をじっと見上げる。


「……読みません」

「ひとりで読んだ方が集中できる派?」

「っていうか、授業も、もう、……」


 言葉を濁す鹿野の目を覗き込んだ不田房が「えっ」と大学中に響き渡りそうなほど大きな声を上げた。


「辞めんの!?」

「ちょっと、何、大声、勘弁してくださいよ!」

「なんで!? 俺の授業つまんなかった!?」


 そういう理由ではない。面白いかつまらないかの二択で言えば、不田房の授業は面白い方だった。日本国内に於ける演劇の成り立ちから、今の彼が主戦場としている小劇場の存在、更には国内の戯曲と、海外作品を翻訳して上演する場合の違いについてなど──話の幅は広かったし、語り口調も軽快で、授業を受けているというよりは「演劇」についての四方山話を聞かされているかのようで……


「つまんないとかじゃないですけど」

「じゃあ辞めなくていいじゃん。単位もあげるよ」

「……公演、とか、興味ないから」

「ん?」


 煙草が吸いたい。この男と会話をしていると苛々する。そんな鹿野の気持ちをまったく汲まずに、不田房は小首を傾げている。


「公演? あ、年度末の?」

「それ……」

「それな〜! いや〜俺も困っちゃって! なんかさぁいるじゃん文学部のえらい教授? だっけ? 役職は知らんけど、あの人俺と地元一緒でさぁ。俺のオヤジの知り合いなんだよね。それで『栄治、ちょっと大学で教えてみないか』って誘われてぇ……」


 『栄治、ちょっと大学で教えてみないか』が誰のモノマネなのかは良く分からなかった。不田房は演出家ではあるが、演技はできないのか、と鹿野は意外に思った。


「なんで引き受けたんですか」

「えー、それはもうお金」


 即答だった。


「俺も俺の芝居やるのにお金がかかるのよ。で色々バイトとかしてるんだけど、大学で学生相手に演劇の指導したらすっごい……すっごい貰える。現金を」

「はあ……」


 この話はいつまで続くのだろう。諦めにも似た気持ちに包まれた鹿野は、紙巻きを一本抜き出して咥え、ライターで火を点けた。おいでおいで、と不田房が手招きをしているのが少しばかり不愉快だったが、火を点けてしまった以上は仕方がない。灰皿の側に歩み寄る。


「でもさ、演劇の成り立ちとかについて説明するだけじゃなくて、学生に芝居をやらせろって言われちゃって……」


 あれは、不田房の意思ではなかったのか。意外な気持ちで、鹿野は静かに煙を吐く。


「公演打つってなったら稽古する場所も必要だし、学生のみんなにも授業のあととかに集まってもらわないといけないでしょ。みんなの生活……それこそバイトとか、門限とかを邪魔したくはないから、どれくらいのスケジュールで稽古するかとかを打ち合わせに来たんだよね、今日」


 その、文学部のえらい教授と打ち合わせをする、という意味か。だから授業は昨日だったのに、今日も大学に来ていたのか。


「打ち合わせ終わったんですか?」

「まだ!」


 不田房の声が、またしても辺りに響き渡った。


「もおうやだ! 誰かに助けてほしい! 俺は帰りたい!」

「は……」


 帰りたい? 大学に長居はしたくないという意味か?


「そらそうよ。だってみんながどの程度真面目に『演劇』やりたいかも分かんないのに台本配って、これからオーディションして、配役決めて……それ全部ひとりでやんなきゃいけないんだよ俺」


 不田房は形の良い眉を下げ、苦く笑いながらそう言った。意外だった。彼がひとりで全部やるなんて、夢にも思っていなかった。


「まあ明かりとか音響とか、そういう専門的な部分に関してはさすがに外から人を呼ぶけど、そういうのもほら、許可取らなきゃいけないからさぁ……」


 喫煙所を離れた鹿野はその後幾つかの講義を受け、自宅に戻る途中の電車の中で不田房が配った台本を読んだ。面白かった。面白い、と思ってしまった。

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