第一章 青い春

1 - 1 SNS ①

 不田房ふたふさ宍戸ししどには、稽古が終わってから封筒を見せた。泉堂せんどうにも黙っているように頼んだ。泉堂は今日のヘビースモーカーズの稽古には付き合うことができず、別の劇団の稽古場を覗きに行く予定があるということで「何か危ないことがあったらすぐ警察だぞ」と言い残して去って行った。


 稽古前に封筒を見せなかった理由はひとつ。不田房がまた大騒ぎをするからだ。昨日あんなに酒を飲んで大騒ぎをしたのに、今日も同じだけの熱量で彼は騒ぎ、稽古を止め、更に言うならば台本を執筆する手をも止めるだろう。それは困る。台本が完成していなければ、いくら稽古をしても、劇場を押さえていても無駄になってしまう。チケットも売れないし、客を呼ぶこともできない。この公演に関わる人間全員が無収入になり、路頭に迷う。それだけは避けたい。


 今日は、稽古場に宍戸の姿もあった。「昨日はお世話おかけしまして」と頭を下げると「あいつ家に戻る前にコンビニ寄ってチューハイ買い込んでたぞ」と彼は呆れ顔で言った。鹿野は、今、自分も同じような顔をしているだろうな、と思った。不田房という男は、さほどアルコールに強いわけでもないのに、飲酒が好きだ。人と飲むのも好きだし、ひとりで飲むのも好きだ。趣味なのだろうと思う。

 今日は音響担当の水見みずみ瑛一えいいちも稽古場に顔を出していたため、鹿野は音響卓を触らなかった。一言に演出助手、と言っても、仕事内容は色々だ。宍戸に任せているような制作としての仕事──チケット販売や、出演者へのギャラの支払いを含めた金銭管理、更には稽古場の予約を含めたスケジュール管理を、演出助手が行っているというユニットや劇団も少なくはない。だが、鹿野はそれをやらない。やっても構わないとは思っているが、不田房があまり良い顔をしない。学生時代に鹿野を拾い上げた不田房は、「鹿野は演出家の才能があるから」と時折言う。「俺の仕事を見て、そのうち独り立ちしてほしいんだよね」と。演出家と演出助手は根本からして違う職業なのに──真剣な声で、そんなことを言う。

 ともあれ、雇い主であり相方である不田房の要望がそれなので、鹿野は稽古場、そして公演当日の劇場で仕事をする。稽古場に照明の泉堂、音響の水見が来られない日は、泉堂の代わりに「暗転!」「明転!」「ここでピンスポ入ります!」などと指示を出して出演者の動きをサポートし、水見が稽古場に準備した簡易音響卓を操作して、ある程度の音出しはできるようになっている。水見は稽古場の奥の左右と真ん中に大きめのスピーカーを設置し、台本からイメージした音源を流して現場の雰囲気を作る。現在は不田房の台本執筆が遅れに遅れているため「鹿野ちん、好きな曲持ってきて適当に流していいよ。そんでみんな柔軟体操代わりに踊ろ」などという状態になっているのだが……。


 筆の遅い演出家は、稽古場の一角にテーブルと椅子を置き、スタッフ、キャストの様子を見ながら煙草を咥えてマックブックに向かっている。彼の手が止まっていないかを確認するのも鹿野の仕事だ。


「鹿野、コーヒー」

「何行進みました?」

「なんかさ……鹿野チョイスの曲、イケてるよね……なんていうラッパー?」

「第二幕が完成したらCD貸してあげますね」

「鹿野〜!!」


 二日酔いの気配もなく、不田房の体調は絶好調だ。体調だけは。キーボードを叩く手は止まっているし、そっと画面を覗き込んだらSNSアプリを立ち上げていた。


「不田房さん? 宣伝は私がやりますけど」

「お、俺だってちょっとぐらい書き込んだっていいじゃん!」

「不田房さんすぐネタバレするからだめです」


 ヘビースモーカーズのSNS宣伝担当は鹿野だ。以前は不田房が自身の個人アカウントで宣伝や告知を行っていたのだが、彼は平気で書いてはいけないこと──次回公演のラストシーンだとか、まだ明らかにしてはいけない出演者の名前だとか、ひどい時には自宅が特定されてしまいそうな写真を小洒落た文章と共に載せたことさえあった。このままでは危険だと判断した宍戸の手によりヘビースモーカーズ公式アカウントが新しく作成され、IDとパスワードは一応不田房と鹿野、そして宍戸の3人でシェアしている。


(──SNS)


 今日、泉堂から手渡された封筒の中身を思い出す。昨日と同じ釘張った文字で住所氏名が書かれており、中から落ちた便箋にも──



「SNSのアカウント名?」


 昨日とは別の、チェーンの居酒屋で宍戸が眉を顰めた。鹿野は小さく頷いて、茶封筒を丸テーブルの上に滑らせる。

 宍戸と鹿野のあいだに座っていた不田房が、普段絶対に見せない素早い動きで茶封筒を手に取り、中身を取り出した。煙草を片手に宍戸が盛大に呆れた顔をしている。


「あ……このアカウント……?」

「そうなんです。


 釘文字でローマ字を書くのはなかなかに難しかったのではないだろうか。そこには、『@』マークから始まるローマ字と数字が書かれていた。SNSのIDだ。


 鹿野のものではない。


「なんで? え? っていうか……」

「不田房おまえ、鍵アカ……」

「だよね!? 俺こっちほとんど使ってないんだけど!?」


 不田房が以前使用していた個人アカウント兼宣伝用アカウントは、プライベートな情報流出を不安視した宍戸の手によって容赦無く削除された。使用し始めてまだ半年しか経っていなかったので、傷は浅い、と鹿野は思った。その後宍戸が改めてヘビースモーカーズ新規公式アカウントを作り、さらに「俺もSNSやりたいよ」と騒ぐ不田房のために鹿野が彼の個人アカウントをふたつ作った。ひとつは誰でも見ることができる『ヘビースモーカーズ主宰』不田房栄治のアカウント。もうひとつは承認制のいわゆる鍵アカ、誰でも見ることはできないし、アカウント名も『futa』というシンプルなものだ。アイコンの写真は鹿野の実家で飼っている猫だし、バナーも宍戸の家で宅飲みをした時のつまみの写真なので、これをヘビースモーカーズ不田房栄治の鍵アカだとすぐに気付く者は、いない──


「はず、です、よね?」

「分からん」


 自身のスマホで不田房の鍵アカをチェックしながら宍戸が唸った。


「フォロワー数もオープンの方に較べたらずっと少ないですし……」

「鹿野が全員承認しちゃダメって言うから」

「ダメですよそれは」


 オープンアカウントの方の不田房も大概自由に発言しているが、鍵アカではもっと大っぴらだ。平気で宍戸の寝顔の写真を載せたりしている。いつ撮ったんだろう、という疑問を腹の底に押し込めた鹿野は、


「封筒には私の名前が書いてあったんです。でも」

「アカウントは不田房のもの、か。どういうことだ?」


 何も分からない。手酌でビールを注ぎながら、不田房も小首を傾げてフォロワーのアイコンを確認している。しばしば「誰だっけこの人」と呟くのがちょっと怖いな、と鹿野は思った。

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