美空

彼はあの女の手を引き、駅の出口に向かい歩いて行った。

「ゴメン。次に家の近くで見たら警察に連絡する」

そう言い残して。

私は阿呆みたいに突っ立ってそれを見送るだけ。

しばらくしてようやくぽつねんと歩きながら私も駅から出る。

ふと道の端を見ると、野良猫がじっと私を見ていた。

私は無言で、ハンバーガーを取り出し猫の傍らにそっと置く。

猫はすぐにハンバーガーに食らいついた。

「美味しい?」

その問いに当然猫は何も言わずに走り去った。ハンバーガーを咥えて。

私はそれを見送ると、コートのポケットに手を入れてまた歩き出す。

ずっとハンバーガーを持っていたので、手が冷え切っていたのだ。

やがて目の前に小綺麗なアパートが見えた。

私はアパートに近づくと、2階の角の部屋の灯りを見た。

その小さな灯りを見ていると、冷えた心が僅かでも暖まる様な気がした。

彼の住んでいる空間。

5分ほどじっと見ながら、いつものようにその中で生活する彼と私の姿を想像した。

可愛い家具に囲まれた部屋の中。

同じくキャラクター物のエプロンを身につけて、夕飯を作っている自分。

彼はデミグラスソースをたっぷりかけたハンバーグが大好物なのは確認済み。

まるで子供みたいだが、そのギャップもまた可愛い。

彼から「もうすぐ帰る」と言うラインを受けていたので、それに合わせて用意する。

やがてチャイムが鳴る。

あ、帰ってきた。

いそいそとドアに向かう私。

ドアを開けるとそこにはやや疲れを見せながらも、ホッとした表情の彼。

そこまで考えたところで、吹き付けてきた寒風によってハッと我に返る。

もう帰ろう。

ため息をつきながらそう考えた時。魔が差したとでも言おうか、自分でも考えもしなかった行動に出た。

そのまま足をアパートに向け、二階へ上がると彼の部屋のドアの前に立ったのだ。

心臓が早鐘を打つかのように鳴る。

自分はなんて事を。

いつもはあの場所からこっそり帰っていた。

だが今日は・・・どうしてもその気分になれなかった。

せめて彼の歩いた空間を。

彼の恐らく最も心の安らぐであろう場所・・・家の中に限りなく近いこの空間に少しで良いから浸りたかった。

ここに立っているときの彼はきっと、ホッとしてるんだろうな。

そう思うと私まで心が安らぐ。

先ほどのうるさいくらいに鳴っていた心臓の音もすっかり落ち着いている。

さて、もう気も済んだ。

帰ろうか。

そう思い振り返ろうとしたその時「あの・・・」と抑揚がなさ過ぎてまるで氷のようにヒンヤリとした声が聞こえた。


反射的に声の方を向くと、そこには彼の妹・・・美空が立っていた。

「あの・・・どうしてここに」

さきほどの氷のような平坦な抑揚に、嫌悪感と混乱が混じっている。

水色のコートを着て、あれは・・・おかっぱボブだろうか。

切りそろえた日本人形のような髪型が寒風で僅かにボサボサになっていたが、俗に言う「美少女」と呼ばざるを得ない。

その顔がまたもや恐怖と嫌悪感で歪んでいる。

私は恥ずかしさと屈辱感を感じながら、うつむいて右手で首の後ろをこする。

なんなんだ。格好付けて。

自分が可哀想な被害者になったつもり?

その表情を見ながら、昔小学校で私を馬鹿にしてきた女子の事を思いだした。

音楽の授業中に私が上手くカスタネットを叩けなかった時に斜め後ろにいた子が馬鹿にしてきたので、カッとなってその子のカスタネットを取り上げて投げ飛ばしたのだ。

さぞや怯えたのだろう。

その子は表情を強ばらせると、シクシクと泣き出した。

周囲の生徒はみんな驚いてその子を見た。

そしてその子の言う「カンナちゃんがいきなり私のカスタネットを投げたの」と言う言葉をそのまま受け止めた。

その時の音楽室の空気。

「一瞬にして空気が変わった」と言う形容があるが、あれはまさにそうだった。

私を悪役にする空気がまるで煮えたスープの湯気のように広がったのだ。

確かにあの子のカスタネットを投げた。

でも・・・あの子は最初に私の耳元で「うるさい。下手くそ」と言った。

それは悪じゃないの?

(違う!この子が先に馬鹿にしてきたから。だからカッとなって)

だが、その言葉は出なかった。

みんなの私を見る目が怖かった。

反論を許さないように見えた。

何より、決定的だったのは先生まで私に対して不安そうな目を向けていた事だ。

生田先生。

あの人だけは、上手くカスタネットを叩けない私に根気よく指導してくれた。

でも・・・今は先生まで私を悪と見ている。

「わた・・・し。ちが・・・」

「うるさい、進藤」

首の後ろをこすりながら精一杯言葉を絞り出そうとする私を、前にいた男子の冷ややかな声が遮る。

それを切っ掛けに私の中の何かが切れた。

じゃあ、どうすればいいの!

どうすれば信じてくれるの!

目の前の景色が真っ赤に染まった。

私はその男子を突き飛ばすと何も言わずに音楽室を飛び出した。

翌日、施設の職員と共に学校に行った私を待っていたのは、クラス会と言う名のさらしものにするための場だった。

それからの事は思い出したくも無い。

さぞや気分良かったでしょうね。

可哀想なヒロインをみんなで守って。

そして今。

私の目の前にはもう一人の可哀想なヒロインがいる。

そのヒロインは「お兄ちゃん!」と叫び、それに呼応してすぐにドアが開いた。

一樹さん。

なんて阿呆なんだろう、私は。

その時、一瞬でも私に対する心配の表情を期待してしまった。

だが・・・彼の表情はあの時の生田先生と同じ。

不安そうな顔。

私は察した。

(このストーカー、大事な妹に何かしたんじゃ無いか)

そう言う顔だ。

ああ、あの時と一緒。

また私は悪者に・・・しかも心から愛した人に。

また目の前が真っ赤になった。

私は無言で階段に向かって走り出した。

彼に対して湧き上がった怒りに恐怖を感じたのだ。

 自分をどこかにやらなくちゃ、彼が危ない。

だが、何が起こったんだろう。

あの女・・・美空が私の前に立ち塞がったのだ。

(どうして?)

私はその時のあの女の表情を忘れることが無いだろう。

その直後、私と美空は激しくぶつかりその勢いで二人とも階段を転がり落ちた。

その途中で額に強い衝撃を感じる。

そしておそらく地面なんだろう、広くて堅い物に今度は後頭部を打ち付けた感触があった。

ダメだな・・・これは。

頭から止めどなく何か・・・血液だろうが、流れ出る感触があった。

流れ出る血によって目の前の地面が赤に染まる。

ふと顔を上げると、倒れている美空を一樹さんが抱きかかえて何かを必死に叫んでいる。

当たり前ながら私の方は見向きもしない。

私は笑えてきた。

最後の最後まで・・・私は悪なんだ。

正しい者に倒される。

おめでとう、皆さん。

にっくきストーカーはこうして世の中から消え去りました、

でも・・・

薄れゆく意識の中で私はあの時の、階段の前で私にぶつかる直前の美空の表情を思い出した。なぜあの女は。

あの女は笑ってたんだろう?

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