雪女(1)

「なんだこの雪は‼︎ 春先だというのにまだ降るというのかっ」

 縁側に立った法師はわなわなと拳を震わせ、白一色に埋もれた景色を睨み据えた。

 連歌を世に広く普及させるという志をとげるため、京からはるばるこの信濃しなののくににまできたというのに、屋敷を出歩くことさえままならぬ――どころか不可能だった。

 どこもかしこも雪、雪、雪――雪に埋もれている。いい加減、もううんざりだった。

「前の年の雪が溶けぬ間に次の年の雪が降ることもございますよ。法師様――」

 下男が、囲炉裏端にて大鍋をかき混ぜながら言った。

 法師は眉根を寄せて、口を「むう」とへの字に曲げた。

「京では桜が満開の頃だというのに……」

 そう言った吐息が白かった。わずかな時間、戸を開けただけで暖かだった部屋に冷気が入ったのだ。

 法師は重たい木戸を閉め、障子戸をぴしゃりと閉めた。暖かな囲炉裏端にずかずかと歩み寄り、円座わろうだにどっかりと座り込んだ。さらに火鉢を引き寄せて抱え込む。

 自在鉤に掛かった大鍋からは食欲をそそる匂いが立ち込めていた。

「それにしても、今年は例年にない雪の多さでございます」

 熱く湯気をたてる煮しめをよそいながら、下男は言った。

 法師は溜め息をつきながら白い湯気をあげるうつわを受け取った。箸で大根をつまんで口に入れると、すぐさまほろほろと崩れて熱い出汁だしが口内にじゅわっと広がった。

「これは美味いな。城で出されたあつものは塩気が強くてかなわなんだが」

「京の方は薄味がお好みとお聞きしいたしまして……」

 法師は、涼しげな面差しをしたこの男をいたく気に入っていた。

 余計なことを言わず、細々としたことにもよく気がつく。下男がいなければ京に蜻蛉返りしていたことだろう。

 とどまると決めたからこそ、雪で足止めを食い、このように帰れぬ始末となっているのだが。

 法師は味の染みた里芋を飲み込み、溜息をついた。

「京が恋しゅうございますか」

「まあな……。しかしそなたが来てくれてよかった。そうでなければ軽口を叩く相手もおらなんだ。そなたの前に来た端女はしため舌訛しただみが酷うて、何を申しておるのかさっぱりでな、茶の一杯も所望できぬありさまであった」

 言葉の通じぬこと苛立って、早々に端女はしためを追い出した。身の回りのことなど一人でもできるし、心を落ち着かせて連歌会の準備に取り掛かりたく、一人になりたかったのだ。

 だが、雪国の冬は予想をはるかに超えるものだった。――そう、死んでしまいたくなるような静寂。

 雪が外界すべての音を吸ってしまうのだ。聞こえるのは雪の重みで屋根が軋る音、どさどさと屋根から雪が落ちる音、びょうびょうと吹雪く音――雪が立てる音のみ。

 雪に閉ざされ、すべてが死に絶えたような静寂の中で、たちどころに参ってしまった。人、虫、禽獣――生き物の音が恋しくて恋しくて、気が違ってしまいそうだった。

 そんな中、追い出した端女はしための代わりに城から遣わされたのが、この通訳つうじを兼ねた下男だった。

「しかし上杉様は連歌会と言うが、言葉の通じぬ者共と歌など詠み交わせるものなのだろうか」

「ご心配なさらずとも、御武家様であれば都の言葉も使われますゆえ。御館おやかた様はこの越後えちごのくにの更なる発展のため、京からの文人墨客を大切になさっておいでです。良いようになさってくださいますよ」

 確かに――。

 謁見の際に城で受けた、大層な歓待が思い出された。ご城下での連歌会も快く許していただき、さらには滞在期間中、この立派な屋敷ひとつをぽんと与えられたのである。

(雪への恨みごとばかり言ってる場合ではないな。ご恩に応えるべく、この地で頑張らねば)

 決意も新たに残りの煮しめを掻き込み、器を置いたその時。

 ずずず、と何やら重いものを引きずる音が耳朶に響いた。

「何だ?」

 音は外から聞こえていた。障子戸に目をやると、下男は「屋根の雪が落ちたのでしょう」と低く呟いた。

「いや、雪の落ちる音など嫌というほど聞いている。これはそうではなかろう」

 音はだんだんとはっきりしてくる。遠くから、雪を軋ませ何かが近づいてくるような――。

 立ち上がりかけた法師に、下男は言った。

「よしたほうがよろしゅうございます。御身大事なれば」

 その声の真摯に響きに、法師は振り返った。表情の乏しい顔に緊張が走っていて、思わず息を飲む。

「な、何を大袈裟な」

「お待ちください」

 下男がとめるのもかまわず立ち上がると、ずかずかと縁側に向かい、障子を開け放った。重い鎧戸を引き開け――唖然とした。

 降りしきる雪の中。屋敷を囲う垣根のすぐ向こうに、女の姿があった。ただの女ではない。高さ五尺ばかりの垣根から半身が見えている。となれば、女の背丈は一丈(※約三メートル)にもなるのではないか。

 巨大な女はやや前屈みになり、白装束を引きずりながら、ず、ず、とまさに通り過ぎようとしていた。くすんだ白一色を背景に、全身から銀の燐光がけぶっている。

 目を見開いて立ち尽くしているところを、下男にぐいっと袖を引かれた。力任せに屈まされる。

「……見ではなりませぬ」

 下男はおもせたまま頷いた。小刻みに震えている。

「な、なんだあれはッ。あのような化け物がこの地にはおるのか!?」

 問うた瞬間、女がぐるりと振り返った。

 目が合った。

(……なんと美しい)

 髪は周囲との境が曖昧なほど真っ白であるのに、かんばせは二十歳にもならぬ容貌であった。その肌は透き通るほどに白い。

 法師は思わず見惚みとれ――気づけば足が前に出ていた。

 足は勝手に縁側を降り、ずぼっと腿まで一気に雪に潜った。不思議と冷たさは感じなかった。むしろほの暖かく、心地よくすらあった。

 女はじっとこっちを見ている。法師は魅入られたかのように目が離せぬまま、深さを増してゆく雪の中を漕ぐように進んでいった。

「なりませぬ!」

 不意に視界が下男の背中で遮られた。前に立ち塞がれたのだ。

 美しい女の姿が見えなくなり、かっと怒りが込み上げた。

「ええい退けッ。邪魔立てするなッ」

 下男を突き倒し、前を見やると。

 女はすでに法師を見てはいなかった。雪に塗れ、真っ白になった下男を見つめている。

 下男は起き上がり、ぷはっと雪を吐き出した。顔を上げると、ぴたりと動きをとめた。

 法師は、見つめ合う二人に嫉妬を覚えた。それと共に、たまらぬ淋しさが身を襲う。

 ――わたしが。わたしの方が先に女と通じ合ったというのに。


   ※


 法師ははっと我に返った。

 まず気付いたのは、圧倒的な冷たさだった。そして自分が雪の中に埋もれるように倒れていることに気付く。

 半身を起こすと、身体に積もった雪がぼさぼさと落ちた。たちまち震えが込み上げ、がちがちと歯が鳴った。身の芯から冷え切り、直接雪に触れていた肌などは、痺れ、感覚がない。

 凍りついたように動かぬ関節をぎくしゃくと動かし、雪の中を足掻くように進んだ。屋敷まではたった十数歩の距離であったが、やっとのことでたどり着いた。

 息を切らしながら縁側に這い上がり、倒れ込むと、畳の温かさがじんと身に染みた。大きく安堵の息を吐く。

 意識を失う前に全身を襲った苛烈なほどの嫉妬は、すっかり消え去っていた。

 あんな化け物に妬気を覚えるなんて――ぞっとした。今考えると、とてもじゃないがありえない。

 そこで法師は気づいた。

(……下男は?)

 さあっと血の気が引いていった。

 矢も盾もたまらず門口に向かうと、藁沓わらぐつに足を突っ込み、みのをひっかぶって再び雪の中に飛び出した。

 行方を辿ろうにも、すでに足跡は雪に埋もれていた。

 打ち付ける吹雪に押し倒されそうになりながら必死に下男の名を呼ばわった。だが声はたちまち雪に吸い込まれてゆく。

 冷気が肺になだれ込み、息が苦しくて涙が滲んだ。

(……わたしのせいだ……)

 下男はあやかしに魅入られ、連れ去られたのだ。自分の代わりに。


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