「……、」


 寂れた教会の窓の向こうで、葉を落とした樹々が幽鬼の群れのようにたたずんでいる。

 雪ひらはその光景をぼんやりと眺めながら、来し方のことを思い出していた。夏の日差しにたやすく融けていってしまう、薄氷うすらひのごとき記憶である。

 あのあと、雪ひらは令嬢ゆきの腹を開いた。まだ健やかな肉色をした胎を取り出し、妹さよの躰に移した。

 胎は無事、新しい躰になじみ、さよは当主の命じるままに婿を取ったようである。おのれによく似た娘をもうけたと、その後の風の噂で聞いた。おそらく人形がままごとをするような塩梅で、子を育てているのだろう。

 雪ひらはこの手術のあと間もなく町を離れたので、詳しい行く末までは知らない。

 ゆきは胎を失くしたあと、三日間眠り続けて死んだ。合間に一度だけ目を覚まし、雪ひらのわざがうまくいったのかどうか訊ねた。


――妹も、わたしの胎も元気にしている?


 ああ、と雪ひらが答える。するとゆきは色の失せた唇でほほ笑んだ。


――そう、よかった。


 それきり、ゆきはふたたび瞼を下ろした。

 そのまま目覚めることはなく、やがて花がしぼみゆくように息を止めた。亡骸は無縁仏を弔う寺に入れたと聞いている。どこまでも令嬢として扱われずに死んでいった、憐れな女であった。

 ゆきの手術を終えたのち、雪ひらは当主の目の前でおのれの指に金槌を振り下ろした。骨の砕ける凄まじい音とともに、脳天を突き抜ける痛みが襲う。しかし雪ひらは歯を噛み、何食わぬ顔をして告げた。


「これから先、私は二度とこのわざを使いません。貴家のことも他言しません」


 当主は能面のような顔のまま、そうですかと頷いた。あのという女中に袱紗の包みを持ってこさせ、雪ひらの前に置く。


「今回の謝礼です」


 それは雪ひらが提示した額よりも多かった。口止め料ということだろう。

 雪ひらは黙って受け取り、女中のあとに付いて屋敷を出た。くぐり戸を抜け、両側に塀の迫る小径を抜ける。指の痛みは総身にまで回り、脂汗が噴き出していた。それでも早足で歩き続ける。

 やがて屋敷が見えなくなったところで、雪ひらは糸が切れたように膝を折った。

 激痛と耳鳴りが躰をガンガンと叩きつける。雪ひらは喘ぎながら胃液を吐いた。生理的な涙が出る。しずくは地に吸い込まれ、あっという間に見えなくなった。

 痘痕あばたに覆われた女の微笑が、なぜかまなうらに蘇る。

 雪ひらはその光景を胸のうちに抱きながら、せり上がる吐き気とともに嗚咽した。

 以来、雪ひらはあの町を去っている。流れの季節医、あるいは闇医者として世間を渡り、港街にまでたどり着いた。廃れた教会をねぐらとして、たまさかやってくる患者を適度にあしらう。

 それでなんとか食っていける。最低限生きられればそれでよい。


――だが、あの女はもしかしたら、誰よりも生き汚かったのかもしれない。


 ときおり、雪ひらはそう思う。

 令嬢ゆきは、妹にみずからの胎を譲って死んでいった。妹のさよは姉の胎で我が子をし、生き続けている。

 すなわち、ゆきの血はいまだ細々と受け継がれているということだ。ゆき自身がそう語ったように、あの女は妹の中で息づいている。そうした形ででも生きようとしたゆきは、誰よりも生に貪欲であったのやもしれない。


――おれの記憶に、いまだ残り続けていることも。


 ゆきという女は、雪ひらの生き方まで変えてしまった。それだけの爪痕を残していった。かよわく見えて、大した女だったと思う。


――おれは死ぬまで、貴女のことを忘れまい。


 ゆえにそれを弔いとしてくれと、折に触れて線香でも立てるような心持ちで祈っている。

 それが雪ひらの、勝手な充足に過ぎぬとしても。


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うすらひの記 うめ屋 @takeharu811

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