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kunitate

第1話

 この街じゃ、咳をしない奴なんかいない。真っ黒く分厚い岩盤には、誰かしらの咳が四六時中こだましている。俺の見立てでは、一度に二回咳き込む奴がいちばん多い。一度に一回ではすっきりしないし、三回も咳き込んだら疲れる。二回がいちばん、ちょうどいい。どうせ気休めだ。俺たちは皆、いつまでも吐き出せない引っ掛かりを喉の奥に抱えてる。男も女も関係ない。あるガキが声を枯らして、ひと月経っても元に戻らなかったら、大人になった証拠だ。イライラせず、疲れもしない、正しい咳の仕方を教えてやる必要がある。




 最近、どういう訳か、咳の調子が悪い。どうしても、一度に二回では治まらない。三回どころじゃない。四回も五回も、際限なく咽せちまう。突き立てたスコップにしがみついて、みっともなく背中を丸めて、まるで仕事が捗らない。俺は一日に百杯の荷車を満たせるのに、今日なんか昼飯までに二十杯もいかなかった。いつも出来高を罵り合ってるキースは俺の低調を嗤ってたが、今日になってとうとう、「お前一体、どうしちまったんだよ?」と、柄にもない言葉をかけてきた。

「ほっとけよ」

 俺はもう、ネズミのように細い息しかできなかった。うっかり吸い過ぎたら、また咳が止まらなくなる。まだ一杯になってない四六杯目の荷車の陰に座って、俺はボスへの言い訳を考えていたところだった。

「ふざけんな。咳き慣れてないガキみてえな咳しやがって。お前のせいで気が散って、今日は九十杯もいけそうにない」

「それでも俺の倍だ。ざまあみろだろ」

と、余計なおしゃべりをして、咳がぶり返した。痒いところを掻けば余計に痒くなるように、咳をするほど咳き込みたくなる。止まらない。否が応にも、涙が滲む。これほど卑屈なセリフを、俺がキース相手に言うはずがなかった。

 見かねたキースが乱暴に水筒を突き出してきたとき、くしゃみよりもやかましい咳がひとつ出た。やっと治った。俺は水筒をひったくって、荒れに荒れた喉にシロップ水を流し込んだ。全部飲んでやった。悔しがる顔を見てやろうと思って、キースに水筒を突き返した。

「うわ」

 キースは水筒を取りこぼした。地面に転がったそれは、ドス黒い血で汚れていた。

 俺の手も。

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