第10話 嵐越え

 いよいよ波に翻弄ほんろうされて揺れは激しさを増し、メイヤ・ギーニィ号はまさしく不穏の最中さなかにあった。

  

 普段使うものとは違う、黒色の帆と予備のロープを副船長室から回収したシャニィは、甲板に繋がる階段を今急いで上がっている。

  

 嵐との遭遇が予定より遥かに早まったことで諸々の準備が間に合っておらず、伝令管から予備の黒いジブセイル———船首近くの三角の帆———とロープを持ってくるようにと緊急要請が入ったからだ。


 基本的に厨房ギャレーにいるツォンとビルギリよりは、まだ甲板に慣れているシャニィの方がいいだろうと、一時的に上に出る許可が出た。

  

 帆とロープを脇に抱えて昇降口ハッチからそろりと顔を出した途端、雨音と雷鳴が大きくなり、ザザーと水が流れ込んでくる。シャニィは慌てて外に出て、急ぎ蓋を閉め直した。

  

「……」

  

 船の周りの光景は、別世界かと思うほどに一変している。

  

 黒雲で満ちた空を稲妻が鋭く走り、波は荒々しくぶつかり合っては不気味に泡立っていた。風がまるで獣のように咆哮ほうこうし、叩きつける雨で視界はろくにかない。

  

 きらきらと光り自由を語っていたあの明るい海は、どこにもなかった。

  

「……っ」

  

 ふとした拍子にがくん、と船が一気に沈み込み、その度に胃がひっくり返りそうになる。尋常ではない風がシャニィを船に引き倒そうと、あるいは船から吹き飛ばそうと、荒々しくなぶってきた。晴れていれば大した距離ではないのに、今はまっすぐに進むことさえ難しい。

  

「……う、わぷっ」

  

 波が右舷うげんを乗り越えてシャニィに押し寄せた。呑まれた瞬間、甲板にいるのか海の中にいるのかわからなくなる。シャニィは押し流されないよう、そばにあったものに必死でしがみついた。荒れた手に塩水がひどくしみたが、もはやそんなことを気にしている場合ではない。

  

 誰に言われずともわかった。油断すれば一瞬で命がなくなる。嵐の中ここはそういう世界なのだと。船長に、経験が浅いから甲板には出せない、と言われた意味が身に染みた。

  

 強烈な波と風の中を、シャニィは帆とロープを抱え、身体を折るようにして必死で船首へと向かう。少しずつ、でも確実に。何度も波をかぶり、転びかけながらも、シャニィはなんとか船首近くにいたデュカスのもとまでたどり着いた。

  

「シャニィ!悪いな、大丈夫だったか!?」

「大丈夫です!」

  

 何しろこの荒天なので、怒鳴り合わないと声が通らない。

  

「でも、船長にお前は出るなと言われた意味がわかりました!」

  

 シャニィが帆とロープを渡しながらそう言うと、デュカスは笑った。

  

「そうだろう!この中で仕事をするには、ちょっとコツがいるからな!なに、船長をはじめ、今この船をっているのは猛者もさぞろいだ!ちゃんと無事に目的地に着くから心配はいらんよ!」

  

 甲板長はそう力強く言って、シャニィの肩を叩く。

  

「ご苦労だった!まっすぐ中に戻ってくれ!」

「はい!」

  

 風に振られながら再び昇降口ハッチまで戻り、シャニィが蓋に手をかけた、その時だった。

  

 かすかに悲鳴のようなものが聞こえたような気がして、思わず振り返る。

  

 風の音がそう聞こえただけかもしれないが、ひどく気にかかった。横殴りの雨が吹き付ける視界の中、シャニィは目を凝らしてあたりを見回す。

  

「———あ」

  

 それが目に留まった瞬間、反射的に近くの帆柱マストまで駆け戻った。作業中にロープが絡んでしまったのか、船員の一人が逆さ吊りになっていたのだ。慌てて誰かに助けを求めようと見回したが、側に人影はない。皆それぞれの役目に出払ってしまっていた。

  

「……」

  

 宙吊りになった船員は必死でもがいていたが、あの体勢では自力でなんとかするのは難しいだろう。枯葉のように翻弄ほんろうされている船の上で、勢いよく帆柱マストに叩きつけられればきっとひとたまりもない。


 一瞬の逡巡しゅんじゅんの後、シャニィはシュラウドを登って帆柱マストに上がった。ふいに雨足が弱まり、ようやくそれが誰か見える。シャニィを孫のように可愛がって、甲板仕事を教えてくれている人だった。

  

「ジグさん!大丈夫!?」

「シャニィか!?だめだぞ、出てきちゃ……!!」

  

 ジグはぶら下がったまま、ぎょっとしたように叫んだ。

  

「替えの帆とロープを届けに行ってきたの!大丈夫!あなたを下ろしたらすぐ引っ込むわ!……んんーっ!!」

  

 シャニィは全力で縄を引いたが、小柄ではあってもやはり男性の身体だ。この不安定な足場で、シャニィの腕力だけで彼を引っ張り上げるのは到底無理だった。

  

「ジグさん!揺れた時にそっちのシュラウドにしがみつける!?そうしたら足に絡んでいる縄を切るわ!」

「わかった!」

  

 シャニィが船乗りセーラーナイフを取り出している間に、彼は船の揺れに合わせてうまく反動をつけ、組まれた縄にしがみついた。幸いにも、重いものがぶら下がっているため縄はぴんと張り、ナイフの刃は通りやすい。

  

「もう切れるわ!しっかり掴まって!!」

「ああ!」

  

 逆さ吊りから解放されて彼がシュラウドにぶら下がった瞬間、船がまた盛大に波をかぶる。

  

「シャニィ!大丈夫か!?」

「平気よ!」

  

 危機が過ぎたその瞬間こそ気を引き締めるように、というデュカスの声が脳裏で蘇った時にはもう遅かった。甲板に戻ろうとしたシャニィの足がずるっと滑り———そのまま帆柱マストから落ちる。

  

「シャニィ!!」

「シャニィさん!!」

  

 ジグとトルックの悲鳴のような声が、やけに遠くで聞こえた。

  

 まるで一瞬一瞬が切り離されたかのように、全てが異様にゆっくりと進んでいくなか、シャニィはぎゅっと目をつむってせめてもの抵抗に身を固くする。だが、甲板に叩きつけられる衝撃は、いつまで経ってもやってこなかった。いや、冷たい床どころか、何か温かいものが身体に触れている。

  

 そっと目を開けると、険しいヴァンジューの顔がすぐそばにあった。

  

「……ヴァン船長?」

「お前は!一体何をしているんだ!!」

  

 どうやら駆けつけた彼が、すんでのところでシャニィを受け止めてくれたらしい。明らかに怒っていたが、回されたそのたくましい腕から伝わってくる温もりに、シャニィは言いようもなくほっとした。

  

「違うんだ、船長!シャニィは儂を助けてくれようとして……!」

  

 降りてきたジグが、慌てて事情を説明する。

  

「ごめんなさい。逆さ吊りになってしまっていたから、一刻を争うと思ったの」

「だからって自分で行く奴があるか!何かあったらどうするつもり……いや、ジグを助けてくれてありがとう。だが次にそういうのを見つけたら、俺や他の連中にまず言え。いいな。……立てるか?」

「ええ、大丈夫」

  

 シャニィの背に触れているその大きな手が、離れていってしまうのがなぜかひどく名残惜しかった。だが、今は嵐の只中ただなかだ。無事に切り抜けるためにも、それを独占するわけにはいかない。


 異変を察知して駆けつけてくれたトルックやエーリー、他にも幾人かが心配そうな顔でシャニィを見ている。

  

「皆の手を止めさせてしまってごめんなさい。私はもう下に戻って、今自分にできることをするわ」

  

 さすがに震えている膝を気合いを入れるよう叩いて、シャニィはなんとか立ち上がった。落ちた時に飛び出してしまったペンダントを、服の中にしまいながら続ける。

  

「全員びしょ濡れだもの。嵐を抜けた時に身体があったまるような、熱々のスープを作る準備をしておくわね。大丈夫よ。火はもっと波がおさまってからにするし、跳ねる船の中じゃ包丁は危なそうだから、皮剥き器ピーラーを使うから」

  

 しばらく黙ってシャニィを見つめていたヴァンジューは、微かに笑みを浮かべると頷いた。

  

「それは最高のご馳走だな。よし、熱々のスープを励みに、もうひと働きだ野郎ども!!」

「おー!!あっ、シャニィさん!俺、前に作ってくれた、スープが澄んでて芋がごろごろ入ってるやつがいいっス!!」

「ええ?あたしはあの魚のクリームスープの方がいいんだけど!」

「任せて!どっちも用意するわ!」


 そう返すとにわかに場は盛り上がり、嵐の中とは思えない明るい雰囲気になって、船員たちは足取りも軽くそれぞれの持ち場へと戻っていく。それを見送ったシャニィも厨房へ向かうべく、急ぎ昇降口ハッチの中へと身を滑り込ませたのだった。

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