第9話 急転

 乗船して十日目、当直を終えたシャニィをエーリーがお茶に誘ってくれた。ここ数日は人手が必要な甲板班にいたので、厨房ギャレーに入るのも久しぶりだ。

  

「もうすっかり馴染なじんだわね。昔からこの船にいるみたいじゃない」

  

 焼き菓子の皿をシャニィに寄越しながら、エーリーがそう笑った。

  

「あいつと同室で困ったことはない?」

「大丈夫、よくしてもらってるわ。面白い話も色々聞かせてもらえて、とても楽しいの」

  

 いざ入団となった時に、一番問題だったのはシャニィの寝床だ。気のいい者が多いとはいえ、いくらなんでも男部屋に放り込むわけにはいかない。かといって現状、積み込まれた大量の荷のために余分な部屋はなかった。なにしろ普段は個室を与えられている各長たちですら、部屋を積み荷に占拠されて大部屋で寝ている状況だったからだ。

  

 そのためシャニィは、初めの頃は荷が詰め込まれた部屋のわずかな隙間を借りて寝起きしていた。しかし万が一荷崩れでもしたら危険すぎると、苦肉の策で船長室の隅に布を垂らしてシャニィの居場所をつくってくれたのだ。ちなみに同室になるにあたり、ヴァンジューは海賊の誓約———破れば処刑になるという———を行い、皆の前でシャニィの身の安全を保証してくれた。

  

「あらあら、楽しいの?……ならよかったわ。怖い船長の印象が払拭ふっしょくできたみたいで」

  

 美味しい菓子に舌鼓したつづみを打っていたシャニィは、エーリーの言いように思わず首をかしげる。

  

「私、もともとヴァン船長のことは怖くなかったわよ?もちろん、皆もだけど」

「そうなの?でも、この船に迷い込んだ時にあいつが脅すようなことを言ったって聞いたんだけど」

「ああ、多少はね……でも、トルックもロートさんも、船長に自分の意見を言っていたから……それって、普段からちゃんと聞く耳を持ってくれる人だってことでしょう?話の通じない独裁者だったら、そうはならないもの」

「……なるほど。だから無法者のあたしたちでも、怖くはなかったと」

「だって、少しいただけでもわかるわ。この船の人たちの間には、強い信頼がある。そういう関係を築ける人たちを、無闇に恐れる必要はないでしょう?肩書きがあるかどうかより、その部分の方がよほど大事だと思うわ」

  

 エーリーの淹れてくれたいい香りのするお茶で喉を潤してから、シャニィはひとつ気になっていたことを尋ねた。

  

「ところでデュカスさんに、嵐に突入するための準備をしているんだって聞いたのだけど……この船は、嵐がおさまるのを待ったりはしないの?」

「……そうしたいのは山々なんだけどね。そこはずっと嵐なのよ。どれだけ待っても止むことはないの。だから、行くしかない」

  

 これ以上は突っ込んで聞かない方がいいのだろうか、とシャニィが迷っていると、勢いよく近づいてくる足音が聞こえてきて、珍しく厨房にヴァンジューがやってきた。

  

「エーリー!嵐が来る!」

「……えっ、もう!?予定より随分と早いじゃない!風がそんなに強かったの?」

「いや、わずかに強かったくらいだ。恐らく原因はそこじゃない」

  

 見交わす二人の表情は険しい。

  

「……そう。わかったわ、とにかくあたしもすぐ上に行くから」

  

 エーリーは厨房ギャレーの担当になる前は甲板仕事をしていて、少しでも手が必要な嵐や緊急事態には駆り出されることになっているのだという。シャニィも彼と一緒に急ぎ上に戻ろうとしたところ、ヴァンジューに腕を掴まれた。

  

「待て、シャニィ。お前はツォンとビルギリと一緒に船内にいろ」

  

 ツォンとビルギリは、エーリーの下で働いている十代の若手船員だ。ツォンはこの船の所属だが、ビルギリは他の船に乗る前の修行として一時的に乗船しているらしい。二人は厨房助手であり、甲板仕事は担当外であるため船内にいるというのはわかる。

  

「でも、私は甲板員です。自分だけ引っ込んでいるわけにはいきません!」

「本来であればこの嵐越えの乗組員は、最低でも三年以上船に乗っている者を選抜して連れてくる」

  

 ヴァンジューは真剣な顔で言った。

  

「お前は雨の中での作業に慣れていない。マストから滑って船に叩きつけられたら、よくて骨折、打ちどころが悪ければ即死。荒波にさらわれて海に落ちれば、それこそなすすべなく沈むしかない。だから甲板に出ることは許可できない。いいな」

  

 限られた人数で船を動かさなくてはならない船上では、連携がものをいう。まだ作業に慣れていない見習いは、どうしてもそれを乱しがちだ。通常の天候であればともかく、嵐の中の航行ともなればそれが致命傷になりかねないことはシャニィにもわかった。

  

「……はい」

「だからと言って、別に遊ばせておく気はないぞ?お前たちには船が転覆てんぷくしにくい位置に積み荷を動かしてもらうという、重要な仕事がある。言っとくが、かなりの重労働だからな」

  

 しょんぼりしたシャニィに、彼はにっと笑ってそう告げる。お前を役立たずだとは思っていない、あるいはちゃんとあてにしていると、暗に言っているのだ。こういうところも、この船長がそれぞれに個性的な仲間たちに慕われている理由なのだろうな、と思いながらシャニィは気を取り直して頷いた。

  

「はい。頑張ります」

「よし。どれをどこに移すかは、ツォルに指示してある。任せたぞ」

  

 甲板に駆け戻っていくヴァンジューを見送り、シャニィは自分に言い聞かせた。

  

 ———できないことを嘆いても足しにはならないわ。今、私にできることをしよう。

  

 そこからはツォンやビルギリと共に、息つく暇もなく積み荷を運んで、運んで、運びまくった。

  

 何往復したかもとうにわからなくなり、さすがに疲労を訴えだした足や腕を励ましながら、シャニィが厨房ギャレーの前を通りすぎた時だ。耳をつん裂くようなけたたましい音が聞こえてきて、慌てて中を覗く。見れば鍋やら調理道具やらが、床をあまりにも自由奔放ほんぽうに転がっていた。三人とも懸命に走り回っていたので気に留めていなかったが、それだけ揺れが激しくなってきていたのだ。

  

「あららら、大変……っ」

  

 今は積み荷の移動が最優先であるため、とにかく調理道具を拾い集めて鍋の中に突っ込み、その鍋が再び脱走しないように隅の台に括りつけた。あとで煮沸しゃふつ消毒しないと、と思いながらシャニィは再び荷運びへと駆け戻る。


 嵐の気配が、ひしひしと迫ってきていた。

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