18 家路

   18 家路


 指先がわずかに届かない。死を避けることも間に合わず、死を与えるにも一歩足りないタイミング。

 この灼熱の大陸に足を踏み入れてから二年の間に、最も死が私の眼前に迫った瞬間。

 ――それでも〈水鏡〉が撃つより、私の一撃が彼女の首に突き刺さる方が先だった。

 声にならない呻きを漏らしながら、彼女の身体は地面を滑るように吹っ飛んだ。

 必殺の槍が触れない間合い。私が代わりに突き出したのは、靴に包まれた足の指先だった。

 吊るした死体の周りを跳ね回った日々、鍛えていたのは手の指先だけではなかった。

 私がほんの少しだけ垣間見た空手の技は手を使ったものだけだったが、見たことがないからといって腕よりも力があり、長さもある脚を武器として使おうとしないのは怠慢だと思った。武器を増やせばいつか必ずそれに助けられるときが来る。そう信じて死体の膝や腿、腹を蹴り続けた。正しい蹴り方など知らなかったから、とにかく遠くに届くよう足を前に突き出し、地面を踏みしめるときと同じように指の付け根を当てる。それだけを愚直に練習していた。

 あとコンマ一秒遅ければ〈水鏡〉は引き金を引き切れていたはず。足を使えなかったら致命傷を負っていたのは私の方だった。

 そう、〈水鏡〉の負った傷は致命傷だった。だがその手はまだ銃を手放していない。私は彼女が腕を持ち上げる前に駆け寄り、銃身を蹴りつける。手から離れたライフルが床を滑る。先の一撃にはこうして狙いを定める余裕はなかった。どこかに当たればいいと足を放り出すしか、それだけしかできないほど際どいタイミングだった。

 膝をついて〈水鏡〉の顔を覗き込んだ。間合いも遠かったし、マイトもリーンフォースも弱まり、速さも硬さも落ちていたが、助かるような威力でもなかった。

 彼女の最期の言葉を聞いてあげたかったが、喉が潰れて声を発することは不可能だった。だが口の動きで一つの単語だけはわかった。

 ――どうして?

 どうして彼を殺したの? 私の愛する人を? そう訴えていた。

「……やらなきゃいけなかった。〈水鏡〉は、両親が殺された場にいた。私の父親を撃ったんだ。あんたの大事な人でも、見逃せなかった」

 納得はできなかっただろう。彼女にはまだ言いたいことがあっただろうが、もう口をはっきりと動かす力も残っていないようだった。気道が損傷して呼吸ができないのかもしれない。

「ごめんな。あんたを殺したくなかったよ。一緒に連れて行きたかった……」

 瞳から光を失っていく彼女の頭を抱きしめ、頚椎を一気にひねって瞬時に絶命させた。顔を上げると、レッド隊の面々は一部始終を呆然と見つめ、一言も声を発せないようだった。

「レッド隊の全員に告ぐ!」

 放心状態の彼女たちの目を覚ますように声を響かせる。

「見てのとおりだ。〈断頭〉隊は今日ここに壊滅した! 私が皆殺しにした! だから……あんたたちは自由だ! もう〈荒縄〉も〈猛牛〉もいない。生まれてきたときの、本当の名前に戻るんだ」

 私を見つめる目には、まだ狼狽や猜疑心の方が強く感じられた。あまりに突然のことで、安堵や喜びを実感するまでにはまだ時間がかかるのかもしれない。或いは考えたくないが、自由の名の下に放り出されるよりも、隷属の安定を望む者もいないとは限らない。

「故郷に帰れるならそうしろ。だが帰る場所なんてとうにない者もいるだろう。そういう者には、レッド隊として最後の任務を命じる」



 彼女たちは誰一人帰ろうとはしなかった。故郷の住民を殺すことを強制された者もいて、そういう境遇の人間が帰れないのは無理もないが、単純に元少年兵を受け入れない共同体もある。だが中にはもっと理不尽な理由で拒絶される者もいる。

「あたしの家族は、処女を失った娘を受け入れてくれないよ。他の家でそういう女を見たことがあるんだ。誘拐されてレイプされて、本人には何の非もないのに追い出されてた。だからあんたについてくよ、どこに向かうんだとしてもね」

 悲観したふうでもなく、昨日まで〈猛牛〉と呼ばれていた少女はそう言った。

「少なくともそんな村よりはマシな所へ連れて行くよ」

 私は大まかな計画を説明した。どれほど現実的かは彼女たちには判断できなかったろうが、みんな私に同行するという意思は変わらないようだった。

「荷物の積み込みは明日の朝でいい。水は十分な量を持っていくが……男どもが使う分が要らなくなった。今夜使ってしまおう。私も血を流したい」

 口に出して言わなかったが、これは身を清める儀式のようなものでもあった。部下たちも同じ思いだったと思う。

「さて、その前に……誰かナイフを取ってきてくれ。それと火を焚いて」

 セミロングの髪は、耐え難い湿度の森で行軍・戦闘する際は特に邪魔になった。だがボスは私の艶のある黒髪を気に入って、切らせてはくれなかった。

 うなじが見えるくらいの位置を見計らって、握りしめた髪に刃を入れる。返り血がこびりついて所々固まった髪の束を見つめて呟く。

「レッドももういない」

 焚き火にそれを投じる。髪の焦げる匂いが、約五〇体の死体から立ち上る臭気の中で微かに鼻を突いた。



 たっぷり六時間の睡眠を取って身体を休めた。誰に叩き起こされることもなくなった朝に、それでも部下たちは習慣から早朝に目を覚ましてしまった。私だけが樹の下から〈荒縄〉に声をかけられるまで熟睡していた。

「レッド、もう出発の準備が出来たよ」

 昨夜、比較的きれいな野戦服に着替えた私は、十メートル近い高さまで手頃な樹に登り、枝に身を預けて眠った。寝床のある小屋は、侵入してきた死臭がまとわりついてきて、身を清めた後にそこで眠りたいとは思わなかった。それに樹上で眠る経験などこれが最後かもしれない。そう思うと、寝心地の悪さも木々の青臭さも、それほど不快に感じなかった。

 地上に降りると、確かに全員が荷物を積み終わり、整列して待っていた。

 総勢十五名――十六名から〈水鏡〉が減ってしまった――の少女兵は、一週間前に町で略奪した色とりどりの服に身を包んでいた。私も手渡された派手なドレスにその場で着替える。

 私を含めた十六人を、故障に備えて多めに用意した車両四台に分乗させる。残った車両は男たちの死体と共に放置する。〈水鏡〉と彼女の「夫」だけは、昨夜のうちに少し離れた場所に一緒に埋葬した。後の連中は野晒しで獣の餌にしても構わない。

「首都まではなるべく検問所を通らずに行きたいが、そういうわけにもいかない。車を捨てて道路の外を行くのは首都に近づいてからにしたい。食料は十分あるが、この人数で野営しながら森や荒野を進むのは時間がかかりすぎる。だが昨夜説明したように、政府軍の兵士をなるべく殺さずに辿り着きたい。だからどうしても通りたい検問所があれば、兵士の人数次第じゃ私が一人で近づいて、殺さずに兵士を戦闘不能にする」

「でもレッド……一箇所ならともかく首都までいくつ検問所があるかわからないし、市街地の中を抜けなきゃ行けない場所も……」

「わかってる。殺さないのは殺すより難しい。危ないと判断したら殺すさ」



 首都までは一日で駆け抜けた。

 一つ目の検問所を突破する際、全員を殺さず拘束して通信手段を奪ったものの、そことの通信が途絶えれば異常事態にはすぐ気づかれる。政府軍の兵士が様子を見に来れば、その時点で私たちの存在と、向かう方向が知れてしまう。

 二つ目の検問所でも一人の死者も出さずに済んだ。ドレス姿で武器も持たずに近寄れば警戒されずに済む。何度か危ない場面もあったが、昨夜の戦いに比べれば簡単だった。

 最後の検問所にはもう情報が伝わっていた。それがすぐにわかったので、まともに相手をせずにアクセルを全開にして強引に突破させた。

 首都が近いこと、そしてこの先に大きめの吊り橋があることを一つ目の検問所で聞き出していたからだ。

 吊り橋を渡った後、私は車から降りて、橋の終わりから中央に向かって斜め上に伸びるケーブルにロンギヌスを使った。

 効果は期待以上だった。指先で三回突いた瞬間、張り詰めたケーブルがちぎれ飛んだ。

 吊り橋全体が斜めに傾き、通行不能になった。対岸から追ってきていた検問所の連中は急ブレーキをかけて停車した。

 物体の強度を弱くすることで、建造物を自重で倒壊させる。――ロンギヌスの新たな用途は成功した。

 だが私たちが首都に向かっているという情報は回っていたから、間もなく首都に着くと、軍用車とのカーチェイスが始まった。タイヤを撃って足止めしたが、後ろからも前からも更に敵が現れる。

「映画でよく見たよな、こういうの。けど実際あれを真似しようとすれば……確実にその辺を歩いてる人間を轢き殺すことになるな」

「どうする、レッド?」

「車を捨てるしかない」

 無線で他の車にも指示を出し、最低限の荷物だけ持っていく用意をさせ、自分たちの車を路地の入り口に止めて追手の車を通れないようにした。

「目的地は近い。走り切るぞ!」

 後方からは走って追ってくる敵。前方からは車で回り込んで迫る敵。だが車の揺れがなくなった今、私は正確な射撃で奴らを足止めできる。

「あいつら、往来でも構わずぶっ放してきやがる。人通りの少ない道を選ぶよ」

 最短ルートは望むべくもなくなっていたが、それでも車を捨てて三十分しないうちにはそこへ辿り着けた。

 正門の鉄格子に突進し、跳躍して飛び越える。

 向こう側に降り立つと、急に門を飛び越えてきた私に呆然としながら、敷地内の警備の人間が銃を向けてきた。彼らと話しても埒が明かなそうだから、構わずに門を開けると決めていた。錠前さえなんとかすれば手動で開けられるようだったから、ロンギヌスですぐに破壊する。

「よし、みんな入れ!」

 ここなら政府軍も手を出せないはず。事前に言い聞かせていたとおり、両手を上げて無抵抗をアピールさせながら、敷地内に走らせる。

 私は彼女たちを置いて建物へ疾走する。警備の人間は、同じ白人の少女がここに侵入した理由がわからないからか、すぐには発砲できないでいた。適当な窓を見つけて、ぶち破って中に入る。



 警報が鳴り響く中を、澄まし顔で歩く。ドレスに身を包み、拳銃を裾のホルスターに隠した私は、一瞬見ただけでは危険な人物とは判断できないだろう。センスで人間の位置を探知すれば、なるべく出くわさずに移動することもできる。

 適当に飛び込んだ部屋で見つけた職員――人質にすると動きが鈍くなるのですぐ解放した――を脅して聞いた位置の部屋にその男はいた。両脇に控えた兵士が、扉を開けて部屋に入った私に銃を向けている。両手を挙げて尋ねる。

「あなたがイギリス大使?」

「君が侵入者か……? この国の人間じゃないようだが」

「ロゼリア・ライヴリーという名前に聞き覚えは?」

 大使の目が驚愕に見開かれた。彼がいつから大使の任に就いているかは知らないが、二年前イギリス国民が犠牲になった事件を知らないはずがなかった。

「まさか、行方不明の……」

「両親を殺して私を誘拐した奴らは、昨日皆殺しにした。もうここに用はない。だから大使館に来たの。家に帰るために」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。理解が追いつかない。君は本当にあの……殺害されたライヴリー家の子供なのか? 身代金の要求もなかったから、誘拐されたのかもわからなかったが……」

「死体は出なかったでしょう?」

「この国の政府に、生存は絶望的だと言われたんだ。その場で殺されなくても、連れ去られた先で殺されているに違いないと。でなければ何らかの要求があるはずだと」

「そうでもないみたいね。奴ら、使えるものはとことん使うから。兵士として仕込み甲斐がある子供を、ちょっと遊んでから殺すなんて真似はしない。私も散々仕込まれたけど、おかげで奴らを殺せた」

「にわかには信じられんよ……。君のような女の子が、ゲリラのメンバーを倒してここまで逃げてきただって?」

「逃げてきたわけじゃない。連中は壊滅させたんだから、誰からも逃げる必要はない。ただ帰国のための手続きをしに来ただけ。ここに来るまでに政府軍に追われる羽目にはなったけど」

「まだ混乱しているが……とにかく君が生きていてくれてよかったよ。とても辛い思いをして生き延びたんだろう。手続きやら何やらで少し待たせてしまうだろうが、君が我々の国に帰れるよう、急ぎ進めよう」

 生きていてくれてよかった。故郷の人間に言われた言葉は、不覚にも私の中に温かく染み込んだ。その言葉に嘘はないように感じた。心の中には私が本当にあの事件の生き残りなのかという疑いも残っていただろうが、生存者の存在を喜ぶ気持ちに偽りはなさそうに見えた。

 だが次の私の話を聞けば、困惑することになるだろう。

「でも、私は一人で国に帰る気はない。部下たちに、みんなもイギリスに連れて行くと約束した」

「部下?」

「外であなたの部下に銃を突きつけられてる、あの子たちだよ。私はあのゲリラ――〈徴税人〉の中で、少女兵全員を指揮する立場だった。ゲリラを壊滅させたから、彼女たちには行く当てがない。だから全員イギリスに連れて行って、新しい人生を始めさせたい」

 十二歳から戦いしか教えられなかった私に政治のことはわからない。だがこの国の少女十五人をイギリス国民として迎え入れるということが、簡単に許可されないくらいは予想していた。

「今中庭にいる、君と一緒に大使館に入ってきた少女たちか? 彼女らを、イギリスに」

「元少女兵だけど、イギリスでも真っ当に暮らせる。銃を撃つことしか教えられなかったが、ゲリラの男たちと違って殺人狂じゃない。奴らの命令を聞く必要がなくなってからは、この大使館に来るまでだって、誰一人殺さずに来たんだ」

 自分たちが暴力でしか問題を解決できない野蛮人でないことの証明。そして政府軍からイギリス政府へ私たちの身柄の引き渡し要求があった場合に、拒否してもらえるように。ここに辿り着くまで誰も殺さないよう細心の注意を払ってきた。

「待ってくれ。彼女らも君のように誘拐された子供たちなのか? それなら君とイギリスに行くより、故郷の町に――」

「今更故郷になんて帰れやしない。ゲリラに拐われた子供がどんなふうに兵士にされるか、どうやって故郷と切り離されるか、あなたのような立場の人は知ってるはずだ」

「……そうだね。君の言いたいことはわかる。だが難民申請をしてすぐにイギリス国籍を――つまり外国の子供をイギリス人にすることはすぐにはできないんだ。私だけで決めることはできない。わかってくれるかい?」

 子供でも理解できるよう噛み砕いた言い方をしようとしている辺りから、この男の善良さは感じ取れた。だが私が大使に要求したいのは優しさではない。

「わかるよ。ただ私たちには、もうこの大使館の外に出てこの国のどこかで暮らすなんて選択肢はない。見てのとおり政府軍の追手を振り切ってここに駆け込んだ。私も部下たちも、〈徴税人〉の一員だった頃、政府軍の兵士を何人も殺してきた。そう、そもそも政府軍はゲリラに白人の子供がいることを知ってたはずだ。なのにイギリス政府は私の生存を知らなかった。政府軍が隠してたんだよ。自分たちで私を血祭りにするためにさ」

「そんな馬鹿な……イギリス人の少女が囚われているのを見て、我々に報告しなかっただって?」

「私たちだって戦場で遭った敵をいつも皆殺しにできるわけじゃない。生き残って私のことを上に報告した政府軍の兵士は何人もいたはずなんだ。だが政府軍の上層部はそれを隠蔽した」

「信じられん……なんてことを」

「私はともかく、部下たちはここを追い出されたら政府軍に殺されるのは確実だ。さすがに私も全員守り切るのは無理だ」

「わかった。異例のことだが、君たちの身柄は大使館で保護しよう。今の君の話をイギリス政府に伝えて、なるべく早く手続きを――」

「ありがたいけど、それも悠長に待ってる時間はない」

 私は大使の言葉を遮った。問題はここからだ。

「ここにいても私たちの命の保証はないと思ってる。政府軍が大使館を攻撃してくる可能性がある」

「なんだって? いくらなんでもそんな……」

「この野蛮人の国の軍隊は、上からの命令を無視した残虐行為が得意なんだ。今にも仲間を殺された連中が、いい復讐の機会だと中庭で固まってる少女兵たちに向かって手榴弾を放り込みかねない」

 大使はすぐに立ち上がって窓へ向かい、中庭の様子を確認した。

「壁際にいるのは、大使館領内に突入したら塀の外から見えない位置で固まって拘束されるように、私が指示しておいたから。イギリスの兵士は逃げ場のない壁際で両手を挙げてる女たちを撃たないだろうが、この国の兵士は門の鉄格子の隙間から少女兵の背中を撃ちかねないからね。大使館領内に発砲したら大変なことになるってことすら考えられない野蛮人がいくらでもいるんだ」

「しかし……君たちが誘拐された子供で、ゲリラの男たちに無理やり従わせられてることくらい知ってるだろう。それなのに君たちを恨むのか?」

「……私が世話になった少女兵で、負傷して政府軍の手に落ちた子がいた。彼女は重機関銃で足を撃たれて、とどめも刺されず放置されて、苦しんで死んだよ。残虐非道は反政府ゲリラの専売特許じゃない。そういう奴らが近いうちにここを取り囲むかもしれない。だから一刻も早くヘリで隣の国まで運んでほしい」

「ヘリで、隣の国まで?」

「国境を超えれば追ってくる奴もいない。そしたら隣国のイギリス大使館にでも私たちの身柄を預けてくれればいい」

「待ってくれ。急に言われてもすぐにはヘリなんて――」

「隣国に米軍基地があるでしょ? 父が話してたのを覚えてる。そこから飛ばしてもらうように頼んでほしい」

「この上更にアメリカまで巻き込むと? ……いや、すまない。言い方が悪かったね。アメリカにも協力を仰ぐというのかね?」

「筋書きは考えてある。まあ聞いてよ。これはイギリス政府にとっても悪い話じゃないんだ」

 元より善意だけにすがってこの国から引き上げてもらう気などなかった。私たちを助けることで利益になるような、そんな物語を私はずっと前から描いてきた。

「アメリカには、世間にはこう説明するんだ。イギリス軍は二年前に起きた一家殺害事件に生存者がいたことを突き止め、彼女を救出するために秘密裏に特殊部隊をこの国に送り込み、誘拐犯の反政府ゲリラと戦ったと」

 私の戦果を、〈徴税人〉の〈断頭〉隊を壊滅させた功績を、イギリス軍に譲ってやるのだ。

 誰かに花を持たせるやり方――思えば父が慈善事業の資金集めのパーティーで時折見せていた振る舞いだった。

「イギリス政府が君たちを救出したことにする?」

「そう、反政府ゲリラ〈徴税人〉と交戦して勝利した特殊部隊は、奴らに囚われていた現地の少女たちも保護し、どうにか追手から逃げ切って大使館まで辿り着いた。ヘリも使えず陸路を逃げてきたのは適当な理由をつければいい。この国の軍に〈徴税人〉のスパイが潜入してるって情報があったから、極秘の作戦として遂行する必要があり、前もってこの国の領空にヘリを待機させておけなかったからとか」

「だが君たちだけ、少女たちだけの集団がここへ来たのをこの国の兵士が目撃してるだろう」

「女だけの隊が検問所を押し通って大使館まで行くのを止めることすらできなかったと奴らが認めるとでも? 面子を保つために、特殊部隊が隠密に行動したっていう嘘を受け入れるしかない。追手と戦闘しながら首都に入ってきた不審な車両を大使館まで追跡した、そういうふうに事実を捻じ曲げるだろうさ」

「米軍にはどう説明して救援のヘリを?」

「怒り狂った反政府ゲリラの追手が大使館を後先考えず攻撃してくる可能性があるから、救出した少女たちだけでも先に安全に逃がしたい――これで筋は通るんじゃない? 救出作戦に参加した特殊部隊員は、万一に備えて大使館を守るために残るからヘリには乗らない。私たちを受け渡すときにだけ、ここの警備の人間に特殊部隊員のふりでもしてもらおうかと思ったけど、服装と装備が問題だね」

「君が時間をかけて筋書きを考えてきたのはわかったよ。しかしそれでみんなをだますには、あまりにも嘘が大きすぎる」

「だったら……本当のことを言うまでだよ。私は地獄に突き落とされてから二年間、母国から何の助けもなく生き抜いて、自分の力でゲリラを全滅させて、けど大使館に受け入れてもらえなかったって。アメリカ大使館にでも行って話そうか?」

 大使が顔をしかめた。私がその気になれば、イギリスの威信を地に落とせると理解してくれただろう。

「それともいっそ、部下たちを率いて新たな武装組織でも立ち上げようかな。手始めに外の政府軍を蹴散らしてさ。故郷の文化的な生活は恋しいけど、この腐った国で女だけの盗賊団を作って恐れられるのも一興かもね。私の存在を隠蔽してた軍のお偉いさんも探し出して血祭りに上げようか」

「なあ、落ち着いて話し合おう。馬鹿な気を起こしちゃいけない。せっかく生き残ったのに、自棄になって命を捨てようとしないでくれ」

「命を捨てることになるのは政府軍の兵士の方だよ。そろそろ夜になるし、暗闇の戦闘は私に有利になる。昨夜より大勢殺せるか試してみてもいいね。首都で派手に暴れたら、世界中にニュースが流れるかな?」

「……そんなことをさせるわけにはいかない」

「止めたいなら方法は一つだよ。ねえ、どっちの物語が国のためになるか考えてよ。イギリス国民が喜ぶ、特殊部隊が捕らわれた少女を救い出す英雄譚か、それとも自力で助かった少女が国を見限って暴れ回る物語か。さあ大使、すぐに決めて」



 軍のヘリに襲撃されて命からがら逃げ延びたのはまだ昨日――いや、大使館に保護を求めてから既に半日が過ぎていたからもう一昨日――のことだったが、今度は自分たちがヘリに乗る立場になる。あまりにも慌ただしい日々だった。

 隣国の米軍基地から飛んできたヘリは、あれよりもずっと音が静かだった。

 中庭に着陸したヘリから降りてきた迷彩服の男たちが、周囲を警戒しながら大使館内に入ってきた。夜明け前、とうに周囲から政府軍の兵士は引き上げていたが、米兵たちの様子には油断がなかった。

 ヘリに乗り込む私たちは既に一階のホールに集合していた。米国の特殊部隊員たちを観察すると、おそらく実戦経験においては〈徴税人〉が上回っているのだろうが、訓練の賜物なのか、一流の兵士の無駄がない研ぎ澄まされた所作を見ることができた。

 私たちの背後には大使館の警備の人員が集まっているが、戦士としての差は歴然だった。彼らから私たちの身柄を引き渡された特殊部隊員たちは、英軍特殊部隊の姿が見えない理由を大使に尋ねたが、大使館周辺を見回りに行ったという説明に納得した様子はなかった。だがそれでも予定どおり、私たちを国外に連れ出してくれるようだった。

「助けてくれて、ありがとう」

 私は振り返って大使に言うと、ドレスの裾をつまんで膝を曲げてお辞儀した。演技ではない、本当の感謝と表敬だった。一睡もできなかったであろう大使は、憔悴した顔に一瞬驚きの色を浮かべると、やや苦笑い気味の笑顔で手を振った。

 私たちは速やかに三機のヘリに分乗させられ、すぐにヘリは離陸した。他のみんなと同じで、私もヘリに乗るのは初めてだった。

 この野蛮な国の軍人でも、天下のアメリカの武装ヘリを攻撃する馬鹿はさすがにいなかった。何の妨害も受けずに大空に飛び立った私たちは、兵士がやんわりと制止するのも構わず、小さな窓の前に顔を寄せ合った。

 眼下に広がる首都の光景が夜明けの光に照らされるのを声もなく見つめながら、忌まわしい悪夢がようやく終わるという事実を噛み締めていた。

 みんなにとってはこんな国でも故郷に違いないが、そこを後にすることに一抹の寂しさがあるものかどうか、皆一様に疲労と安堵感を漂わせどこか夢心地の表情からは推し量ることはできなかった。

 曙光の眩しさに目を細めていた私は、ふと隣の〈荒縄〉が涙を流しているのに気づいた。その顔がすぐに歪んで声を上げて泣き出したとき、周りでも次々すすり泣きが始まった。

 そこからは泣き声の大合唱だった。ダムが決壊するように、抑えていた感情が全て解放された。

 こんなふうに声を上げて泣くことが許される環境に、私たちはいなかった。死にたくなるくらい傷つけられた夜も、声を押し殺して泣くのが当たり前だった。全てが終わった今、私たちは止めどなく溢れる嗚咽を止めようともしなかった。

 そう、私もいつの間にか声を上げて泣いていた。最後に涙を流したのが遠い昔のことに思えて、そしてその頃の自分にはもう絶対に戻ることができないことを思って、失われた全てを悼んで私は泣き続けた。

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