【19】種子

 

 

 

 稲葉山の南西の麓に七堂伽藍を構える大寺院がある。

 金寶山きんぽうさん瑞龍寺ずいりゅうじ

 諸国からつどうた雲水が禅修行に励む臨済宗妙心寺みょうしんじ派の専門道場であり、美濃国守護だった土岐成頼しげよりの菩提所でもある。

 その成頼の孫に当たる土岐頼芸は、織田信秀によって美濃攻めの大義名分として擁立される際に、瑞龍寺には被害を及ぼさないよう求めた。

 信秀がそれを真剣に聞き入れるつもりであったか定かでないが──彼自身の宗旨は曹洞宗である──、尾張にも妙心寺派に帰依する者は多くいた。

 瑞龍寺を開山した悟渓ごけい宗頓そうとん和尚は、それ以前は尾張国犬山の瑞泉寺ずいせんじに住持していた縁もある。

 結果として瑞龍寺は、井ノ口の戦いに際して堂宇の幾つかを焼かれたものの、全山の被害は免れた。

 尾張勢を退けた斎藤道三は、ただちに瑞龍寺の再建に着手した。

 瑞龍寺には美濃国守護代、斎藤氏の一族である持是院妙椿じぜいん みょうちんの墓所もある。

 斎藤妙椿の名でも知られる彼は、甥である守護代、斎藤利藤としふじの後見として僧籍のまま美濃一国の兵馬の権を握り、応仁の大乱の渦中にあって『東西の運不うんぷは持是院の進退によるべし』と評された傑物けつぶつだった。

 また僧侶の身として異例ながら、利藤の異母弟、利国としくにを養子に迎えて別家を立てている。

 これを持是院流斎藤氏というが、道三は利国の孫、利良としながが死没する間際に養子となって、その家名を継いだと称していた。

 ゆえに妙椿に所縁ゆかりの瑞龍寺には、道三も相応の敬意を払った。

 実力で美濃一国の太守に成り上がった道三だが、その支配の正当性を疑う者は多い。

 前名を長井ながい新九郎しんくろうといった道三が、斎藤山城守やましろのかみ利政としまさ、のち入道して斎藤道三と名を改めたのは、守護代斎藤氏の一族を名乗ることで自身を権威づけるためだろう。

 その、瑞龍寺にて──

 

 

 

 高らかに槌音つちおとが響く寺域の外れに、庭者にわものたちが住み暮らす小屋が並ぶ。

 その中の一軒を、明智光秀は訪れていた。

 庭者とは庭師のことであるが、光秀が訪ねた相手は空き小屋をてがわれているだけで庭者とは違う。

 涸泉こせんと名乗る僧形の男であった。

 元は──というより、つい最近までは──武士であり、長身で骨太であるが、粗食に馴染なじんで肉は落ち始めている。

 観音経を広げた経机から、光秀に向き直って会釈したが、顔を上げるとその眼光は鋭い。

 光秀は微笑のまま会釈を返し、告げた。

 

「織田玄蕃げんば殿からの使いとして、説三せっさん和尚が先ほどお見えになりました。我が殿、山城入道に御挨拶をいただいたのち、ただいま当家の家老、春日丹後かすが たんごと、織田弾正忠殿の御首みしるしを尾張へお届けする段取りについて打ち合わせておられます」

「お知らせいただき、誠にありがたく存ずる。一切は皆様方の差配にお任せいたす。拙者せっしゃ……いや愚生ぐせいは、旧主きゅうしゅ弾正忠様の御首に同道いたして領国への御帰還を見届けることが叶えば、ほかに望むところはござらぬ」

 

 涸泉は言って、深々と頭を下げる。

 僧形であるが、まだ正式に得度してはいない。

 それゆえ自らを『愚僧』ではなく『愚生』と称したのだろう。

 彼は井ノ口の戦いで織田信秀の指揮下にあり、信秀を守って退こうとしたところを光秀が配置した伏兵に遭遇し、ほかの数人とともに生け捕りとなった。

 信秀が討たれたことを知った彼は、自分も殺すように明智勢の士卒に何度も求めた。

 しかし明智勢は手柄となる兜首かぶとくびは、すでに幾つも得ている。

 伏兵部隊を指揮した三宅藤兵衛は、捕らえた敵の士卒は尾張の現状について必要な情報を聞き出し、その用が済めば親類縁者に身柄を買い取らせて銭に替えるために生かしておくことにして、光秀にその旨を報告した。

 捕虜の中に『平手五郎右衛門ごろうえもん』の名があることを知り、光秀はすぐにその者と会うことにした。

 光秀が知る『史実』では、彼は平手政秀の長子であり、五郎右衛門と信長との不和が政秀の切腹の契機になったとされている。

 つまり織田弾正忠家において信長からの離反が想定される家臣の一人であり、光秀にとっては信長を抹殺するための手駒になり得る存在なのだ。

 ところが顔を合わせてみると五郎右衛門は、呆れるほどの堅物かたぶつであった。

 信秀を死なせて自分が生き残ったことを恥じ、いますぐ死ぬことしか望みがないと言い張った。

 後ろ手にいましめていた縄を解かせようと光秀が藤兵衛に命じると、

 

「よろしゅうござるのか。それがし、お手向かいいたしまするぞ。曲者くせものとして斬り捨てていただければ本望。あるいは貴殿から刀を奪うことが叶えば、それにて我が腹を掻き切りまする」

 

 五郎右衛門は傲然ごうぜんと胸を張って言ってのけた。

 その場に同席していた藤田伝五は五郎右衛門に同情し、「武士の情けです。死なせてやりましょう」と光秀に進言した。

 だが、そうするわけにはいかなかった。

『信長公記』首巻に記された、信長と五郎右衛門との不和の経緯は次の通りだ。

 

 

 

 (前略)

 平手五郎右衛門、駿馬しゅんめを所持そうろう

 三郎信長公御所望候ところ、にくぶりを申し、それがしは武者をつかまつり候あいだ、御免そうらへと申し候て、進上申さず候。

 信長公御遺恨浅からず、度々たびたびおぼしめしあたらせられ、主従不和となるなり。

 三郎信長公は上総介かずさのすけ信長と自官じかんに任ぜられ候なり。

 一、さる程に、平手中務丞なかつかさのじょう、上総介信長公実目じちめに御座なき様体ようていをくやみ、守り立てげんなく候へば、存命候てもせんなき事と申し候て、腹を切り、相果て候──

 

 

 

 信長がどのような意図で家臣から馬を召し上げようとしたかは、わからない。

 五郎右衛門の忠誠心を試すつもりがあったのだろうか。

 よほど優れた馬と見て我が物にしたかっただけだろうか。

 だが、主君の求めに応じて我が愛馬を手放すことを名誉とは、儒教道徳が浸透した江戸時代ならともかく、戦国時代の武士は考えないのではないか。

 果たして五郎右衛門も、武士として愛馬を手放すことはできないと言って断った。

 戦場で働くことが武士としての主君への奉公であり、優秀な馬はそのために必要だ。

 主君の歓心を買うために愛馬を献上するのは、武士が本来することではない。

 愚直な五郎右衛門は、そう考えたのではないか。

 それによって信長のうらみを買い、不和が生じることは考えなかった──というより、主君に嫌われないために武士としての本分を曲げようとは思わなかったろう。

 

 ──こういう男だからこそ死なせてはならない。信長が織田家の将来に災いをもたらすと理解させることができれば、信長を討つために存分に働いてくれるだろう……

 

 光秀は五郎右衛門をさとして言った。

 死ぬことばかりが忠義ではない。

 生きて大殿、信秀の菩提を弔う道もあるのではないか。

 どうしても面目が立たないと考えるなら、武士として生きる道は捨て、出家として信秀を弔い続けてはどうか。

 信秀の首級は近いうちに尾張へ返還することになる。

 それを送り届ける役目を、まずは務めてもらえないか。

 光秀の説得に応じて、五郎右衛門は武士としての我が身を捨てた。

 涸泉の名は、自ら称したものである──

 

「弾正忠殿の首級を送り届けられたのちは、あらためて僧として修行に入られるのですね」

 

 光秀が言って、涸泉はうなずいた。

 

「いかにも。まずは平手の家に所縁ゆかり永泉寺えいせんじにて、得度を願おうと思うており申す」

「涸泉殿がその名の由来とした、楽田がくでんの永泉寺ですか」

 

 光秀が重ねてたずね、また涸泉はうなずく。

 

「左様にござる」

 

 犬山の南、楽田にある永泉寺は山号を景徳山けいとくさんという。

 土地の長者である野呂のろなにがしなる者が開基となって創建を主導し、妙心寺派の碩学せきがくとして知られる泰秀たいしゅう宗韓そうかんを迎えて十五年前の天文元年(一五三二年)に開山した。

 泰秀は自ら妙心寺において出世すること──すなわち住持の地位に上ること──はなかったが、彼の印可いんかを受けた高弟には、『史実』において師の没後に永泉寺二世となり、のちに妙心寺住持となった沢彦たくげん宗恩そうおんがいる。

 美濃攻略後の信長に井ノ口の地名を『岐阜』と改めることを進言し、また印章に『天下布武』の語を用いることにも示唆を与えたとされ、信長のブレーンといわれる『あの沢彦』である。

 泰秀や沢彦という名僧と縁があり、自ら寺院を開基した野呂某は、ただの田舎長者ではなかったろう。

『現代』ではあまり知られていないことだが、楽田のすぐ北の羽黒はぐろでは室町時代後期まで鋳物業が盛んであった。

 鉄や銅の採掘も、この地方一帯で行われていた。

 江戸時代になって羽黒の鋳物業が衰退したのは良質な鉄鉱石が掘り尽くされたためと考えられるが、銅の採掘は大正時代まで続けられたという。

『野呂』は製鉄過程で生じる鉄滓てっさいを意味する古語『ノロ』に音が通じる。

 鉄滓は『金屎かなくそ』とも呼ばれる不純物のかたまりであり、精錬を進めるうちに炉から流れ出す。

 これによって炉に残る鉄は不純物が少なく良質となるのである。

 つまり──『ノロ』なくして鉄は生まれない。

 野呂長者は、民間でも軍事目的でも大きな需要のある鋳物業ないし製鉄業に携わった実業家ではなかったろうか。

 光秀自身で『この時代』の栄泉寺を訪ねれば、その答えは得られようが──

 

「修行を始められる寺としては、崇福寺そうふくじではいかがでしょうか」

 

 光秀は言った。

 

「涸泉殿のご実家が檀越だんおつとなっている永泉寺では、兄弟子たちが涸泉殿に遠慮をして充分な修行にならないのではないですか」

「む……左様であろうか」

 

 涸泉は眉をひそめた。

 

「崇福寺とは、この美濃の崇福寺であろうか。井ノ口から長良川を渡って北にござる、あの」

「いかにも。いまは快川かいせん和尚といわれる善知識が住持されています。わたくしはいくらか縁がございますので、よろしければご紹介できますが」

 

 光秀は微笑む。

 快川紹喜じょうき

 信長による甲州征伐の際に住持していた恵林寺えりんじを焼き討ちされ、『心頭滅却すれば火もおのずから涼し』と辞世を残して焼死したとされる高僧である。

 土岐氏一族の出身といわれる彼と、同じ土岐氏の一門である縁を頼りに、光秀は交誼を結んでいた。

『この時代』に美濃にいる快川は、『史実』ではのちに武田信玄たけだしんげんに招かれて甲斐恵林寺に入ることになる。

 快川と平手五郎右衛門改め涸泉に縁ができれば、信長抹殺の計画に甲斐武田氏を引き入れることもできるのではないか。

 いますぐではなくとも。

 しかし将来への布石として、光秀は一つずつ打てる手を打っていくつもりであった。

 種子たねまいいているといってもいい。

 仏教では同じ『種子』の字を用いて『しゅうじ』と読み、物事を引き起こす可能性の意味であるという。

 光秀が蒔く種子は、信長抹殺のための可能性であった。

 

「──いや、明智殿の仰せの通りでござろう。永泉寺では愚生の修行になり申さぬ」

 

 涸泉は光秀に頭を下げた。

 

「快川和尚を御紹介願えるなら、まずその下で得度させていただけるよう励みまする。しかるのちに雲水として、あらためてこの瑞龍寺に戻って禅修行を重ねたく存ずる」

「はい。わたくしも涸泉殿のお役に立てるように務めましょう」

 

 光秀は言って、微笑んだ。

 

 

 

【※『信長公記』本文は、新人物往来社『新訂 信長公記』(桑田忠親 校注)より引用】

 

 

 

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