第29話 わたしが日本一のコスプレイヤーになると決めた日。

「貞子が来たぞ逃げろー!」

「呪われるぞー!」


 小学生の頃のわたしはかなりの人見知りだった。

 父の仕事の都合で、青森から埼玉へ引っ越してきたのはわたしが小学三年生の夏だった。


 その日、わたしの人生は予想もしない方向に変わり始めた。


「青森県がら転校すて来だ。昇龍天満どいぇます。仲良ぐすてけ」


 先生の指示で、クラスメイトたちの前で自己紹介をしたけれど、話し終わると教室は爆笑に包まれていた。皆がわたしを指さして笑っていた。わたしは恥ずかしさで顔を真っ赤にして、床を見つめていた。


 その日から、同じクラスの子や他のクラスの子たちからからかわれるようになった。

 もともと人見知りだったわたしは、その出来事をきっかけに、ますます人見知りがひどくなってしまった。

 伸ばし髪で顔を隠すことを心がけ、他人となるべく目を合わせないよう努めた。そうするうちに、わたしのあだ名は貞子になってしまった。昔流行ったホラー小説のキャラクターの名前から来ているみたいで、今考えると、この頃からキャラクターになりきる才能があったのかもしれない。


 学年を重ねる毎に、わたしへの嫌がらせはエスカレートしていった。

 当初は避けられるだけだったものが、いつの間にか上履きを隠されたり、体操服を取られるような嫌がらせに変わり、最終的には暴力に発展した。


 この時期から、わたしはぼんやりと死について考えるようになっていた。


 中学に進学しても、わたしへの虐めがなくなることはなかった。それどころか、数を増した暴力は増えていく。


 終業式の日、女子トイレに呼び出されたわたしを待っていたのは、目を覆いたくなるほどの壮絶な仕打ちだった。

 バケツで水をかけられ、便器に顔を押し込まれ、その上からモップで頭を押さえつけられたのだ。


 わたしはされるがままで、恐怖で抵抗なんてできなかった。


 彼女たちが女子トイレから出ていた後、わたしは泣くこともできずに、ただ、呆然と立ち尽くしていた。

 気が付いた時には、外はすっかり陽が暮れかけていた。


「……疲れたな」


 その日、わたしは死ぬことを決めた。


 学校をあとにしたわたしは、自宅には帰らず、死に場所を探す猫のように夕暮れの街を歩き続けた。


 どれほど歩いたかは覚えていない。

 ただ、気づいた時には周囲は完全に暗くなり、わたしは見知らぬ公園のベンチに座っていた。


「………」


 足元を見下ろすと、縄跳びが転がっていた。近くには太くて大きな樹がそびえ立っており、わたしは覚悟を決めてその樹に縄跳びを結びつけた。

 セッティングを整えて実際にその前に立ってみると、恐怖で考え直してしまうのではないかと思っていたが……そんなことはなかった。


 その瞬間、わたしはようやく理解した。

 わたしの心は既に死んでいたのだと。


「……っ」


 縄跳びに手を伸ばして首を掛けようとしたその瞬間、前髪が舞いあがり、まるで体を押し戻すような突風が駆け抜けた。


「きれい……」

「え……?」


 誰もいなかったはずの公園に、突如子供の声が響いた。驚いて声の方に顔を向けると、スケッチブックを手にした小学生がこちらを見上げていた。


「――あっ、ちょっと待って! そのままじっとしてて!」

「え……ええっ!?」


 突然現れた謎の小学生は、縄跳びを手にしたわたしに動かないように言った。踏み台代わりに石の上に爪先立ちで立っていたわたしは、5分、10分とその体勢を保っていたが、ついに限界がやってきた。


「きゃっ!? ……いた」


 バランスを崩してその場に倒れ込んだわたしの顔を覗き込んできた小学生が、「大丈夫?」と手を差し伸べてくれた。


「……あ」


 その手をつかむかどうか迷っているうちに、小学生に手首を掴まれて起こされた。


「あ、ありがとう……」


 相手が小学生だったからなのか、それとも相手にまったく敵意を感じなかったからなのか、わたしの人見知りはそこまで発動しなかった。


「僕が無理な体勢でじっとしてって言ったからだよね。ごめんなさい」

「あっ、いや、そんなこと……ないよ」

「どこも怪我してない? あっ、そうだ! お詫びにそこの自販機でジュース買ってあげるから」

「え、いや、あの……」


 小学生にジュースを買ってもらうなんて申し訳ないと思ったのだけど、気づいた時には自動販売機の前まで連れてこられていた。


「アイスミルクティーでいい?」

「……う、うん」

「はい」

「あ、ありがとう」

「うん。あそこに座って飲もうよ」


 どうしてわたしは見知らぬ小学生と夜の公園でベンチに座り、ミルクティーを飲んでいるのだろうかと考えていた。


「お姉さんはこんな時間に何してたの?」

「え……」


 小学生の質問に、どう答えるべきか迷ってしまう。

 自分が死に場所を探していたなんて……言えるわけがない。


「……き、君は?」

「僕? 僕は絵を描いていたんだ」

「絵……?」

「うん! 僕イラストとか漫画がすごく好きなんだ。こういうの!」


 スマホには某SNSが表示されており、そこには彼がフォローしているイラストレーターや、漫画家が投稿したイラストがたくさん表示されていた。


「お姉さんは漫画とか好き? 僕はワンピースとかヒロアカとかすっごく好きだよ。そういえばお姉さん、ちょっとだけハンコックに似てるね」

「ハンコック……?」

「えっ!? お姉さんハンコック知らないの!? 王下七武海の一人だよ!? メロメロ甘風メロウ知らないの?」

「ご、ごめんなさい」

「別に謝ることないよ。知らないってことは読んだことがないってことでしょ? それってこれからワンピースをめちゃくちゃ楽しめるってことだよ。うらやましいくらいだよ。ちなみに、これがハンコックだよ」


 素早くスマホを操作した少年は、わたしにハンコックというキャラクターの画像を見せてくれた。


「きれいな人、だね」

「うん。人気のキャラだからね。コスプレする人も多いよ」

「コスプレ……?」

「漫画やアニメの衣装を着たりするんだ。知らない? コミケとか行かないの?」

「……うん」

「お姉さん絶対ハンコック似合うと思うな。コスプレしてSNSにあげたら絶対バズるよ! 僕が保証する」

「そ、そうかな……」


 そんなことはただのお世辞だ。

 第一、わたしはこんなに綺麗ではない。

 わたしは貞子なのだ。


「ど、どちらかというと……その、貞子に似てないかな?」


 渾身の自虐ネタだったのだが……。


「ぷっ。お姉さんが貞子……?」


 少年は「ないない」と手を振りながら笑い出してしまった。


「それ、どういうジョーク?」

「……ジョークじゃなくて、その……」

「お姉さんが貞子なら、僕はシュレックになっちゃうね。というか、お姉さん自分の顔鏡でみたことある?」


 嫌でも毎朝洗面所で自分の顔は見ている。そのたびに悲しい気持ちになる。


「はい、これあげる」

「……」


 彼がくれたのは、先程彼が描いていた絵だった。まるでおとぎ話に出てくるような女の子が、星に手を伸ばす素敵なイラストだ。


「すごく、きれい」

「お姉さんだよ」

「え……」


 一瞬、少年が何を言っているのかわからなくなってしまう。

 しかし、すぐに言葉の意味を理解したわたしは立ち上がり、その言葉を全力で否定した。


「わ、わたしこんなんじゃない!」

「……ごめん。僕、まだ絵……下手くそだから」

「あっ、いや、そうじゃなくて……その、わたしは君が描いてくれた絵のように綺麗じゃない……ってこと」

「……お姉さんが、綺麗じゃない……? ちょっとこっちに来て」

「えっ!? あっ、ちょっ――」


 わたしの手を取り走り出した少年は、公衆トイレの手洗い場に設置してある鏡の前で立ち止まると、長かったわたしの前髪をピンで留めてしまった。


「ほら、お人形さんみたいに睫毛が長くてとっても綺麗だ」

「え……これが、わたし……?」


 鏡の中には、未知の世界からやってきたかのような自分が、驚きと興奮を込めて目を見開いていた。


「さっき風で前髪が流れたとき、すっごく綺麗な人だなって思ったんだ。お姉さんみたいに綺麗な人、中々いないよ。芸能人みたいだ」

「わたしが……綺麗? 芸能人……?」

「コスプレイヤーになったらいいのに」

「コスプレイヤー……?」

「さっき言ってたコスプレをする人のことを、コスプレイヤーっていうんだよ。漫画とかアニメの衣装を着て、コミケとかのイベントを盛り上げる人たちのことだよ」

「わ、わたし……その、人に見られるのは、ちょっと」


 ただでさえ人見知りなわたしには難しいことだった。

 しかし、彼は宝石のように輝く瞳で言った。


「僕のお母さんはファッションデザイナーをしているんだ。そのお母さんが言ってたんだよ。モデルさんが美しいのは人に見られているからだって。人に見られると、美しくなるんだ!」

「人に見られると、美しくなる……」

「そうだ! お姉さんコスプレイヤーになって、いつか僕が描いたキャラクターのコスプレをしてみてよ!」


 再びベンチに腰を下ろした彼は、嬉しそうに絵を描き始めた。わたしに似合うキャラクターは一体どんな感じだろうかと考えながら、何枚も何枚もイラストを描いていた。


「いまいちイメージが湧かないな。お姉さん、ちょっとそこに立ってみてくれない?」

「え……えーと、こ、こんな感じかな?」


 断りきれず、彼の前に立ってしまった。

 わたしは一体何をしているんだろう。


「うん! すごくいいよ! でも、ポーズなんかあるともっといいかも! ジョジョ立ちみたいなやつ!」

「ジョ……よくわからないけど、こ、こうかな?」


 彼の指示に従って、わたしは何度も何度もポーズをとった。

 最初は顔から火が噴き出すほど恥ずかしかったけれど、ポーズをとっているうちに、だんだん楽しい気持ちになっていった。


 小学生の彼の視線を感じるたび、胸の奥がドクンッ、ドクンッと高鳴っていく。やがて全身がワクワクして、ずっと彼に見てもらっていたいと思ってしまう。


 死にたいと思っていた先ほどまでの自分が嘘のように、今は楽しみで溢れていて、どうしようもないほどだった。


「あはっ♡」


 押し寄せる感情を抑えることができない。


「あはっ♡ あはははははははははははははははははっ」


 何年ぶりだろう、心からこんなに笑ったのは。

 ひょっとすると、生まれて初めてこんなに笑ったかもしれない。


「お母さんの言っていたことは本当だったんだ」

「……?」

「だってお姉さん、どんどん綺麗になってるもん!」

「!?」

「正直、さっきまでのお姉さんは、黒桜って感じだったんだけど、あっ、黒桜っていうのは『Fate』っていうゲームやアニメのキャラで……――とても美しくて可愛らしいキャラクターなんだけど、誰にも言えない闇を抱えているんだ」

「……」

「でも今のお姉さんは、約束された勝利の剣を手にしたセイバーみたいだ! きっともう、大丈夫だよ」

「――――!?」


 その瞬間、涙がこぼれ落ちてきた。

 ずっと涸れてしまっていたはずの涙が、こぼれ出てきた。


「――――――」


 みっともなく大声で泣き叫んでしまった。


「うわぁっ!? お、お姉さんどうしたの! どこか痛いの!?」


 この小学生はきっと全てを理解していた。

 理解した上で、わたしを助けようと必死になって絵を描いてくれていた。


 きっと彼は、神様がわたしを救うために遣わした天使なのだろう。


 慌てて駆け寄り、あたふたする彼に、わたしは約束した。


「……なる」

「え……?」

「日本一のコスプレイヤーになって、君の描いたキャラクターのコスプレをする!」


 少年は目を見開き、驚いた顔をしていたが、すぐに満点の笑顔を見せてくれる。


「うん! お姉さんなら絶対になれるよ!」


 あの日の約束を忘れることなんてない。

 わたしに見られる喜びを教えてくれたのも、生きる力を与えてくれたのも、全部彼――結城美空音なのだ。


 わたしは誓った。

 彼が理想とするコスプレイヤーになり、もう一度彼と会う。

 そしてその時こそ、わたしは彼に告白する。


 だから、わたしはこんなところで立ち止まるわけにも、負けるわけにもいかない。

 彼の理想のコスプレイヤーになるため、わたしは日本一のコスプレイヤーになるのだ!

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