第12話 謎解き
あれから一週間――。
毎日と言っても良いほど、望月書店に通った。
ただ、客に見られても、聞かれてもいけない。
そう、これは
来店時、他に客がいた時は話を避けたが、夜の帳が降りる頃、客がいない事がほとんどであった。
まぁ、売れ筋の雑誌もなければ、古い新聞達が主力商品の書店である。頻繁に客がいる方が珍しい。
好都合とばかりに、玄関を跨ぐ訳である。
――渡辺の忠告など、全く無視している。
あの髭面も知らない秘密を、私は知っているのだ。
だが、その秘密は、簡単に解けるものでも無ければ、推察する事すら難しい代物であった――。
【イヱローストーン大噴火 北米被害夥しく】
【トロツキー書記長 欧州解放へ侵攻を決断】
【独逸皇帝復権 ヴィルヘルム二世恭しく】
【南方輸入米増加 美味しく食べる工夫】
これは一端でしかない。
不思議、不気味、目的不明――。
ノートに描かれていることは、今生きているこの世の出来事とはかけ離れた、それでも何処か似ている、不可思議な現実である。
だが、世界最大の火山が噴火したからどうだというのだ。
スターリンがいないソ連が、ヒトラーのいないドイツがどうしたというのだ。
輸入米を美味しく食べて、何になるというのだ――!
この一週間で成果らしい成果は、――ない。
毎日何かの新聞を買ってはいたが、ノートをネタに駄弁を重ねただけである。
甲斐は、本当にこれでいいのだろうか――。
罪悪感が背中にしがみ付いている。
それでも、それでも、後ろ髪を引かれる陰鬱な気は、簡単に消し飛ぶ。
――
この、得も言われぬ高揚感。胸の高鳴り。
日に日に増していくばかりである。
仕事は仕事であるが、終業時刻が待ち遠しい。
渡辺の揶揄いも耳に入らぬ。
この謎を解き、甲斐を助け、願わくば――。
そんな邪な想いを秘めているのは、
「――今日は、どんな記事があるんですか」
日が大きく傾き、薄暗い店内。街の喧騒は遠く、ここには二人だけである。
甲斐の艶が、一層増して見えた。
甲斐は、いつものようにノートを取り出してくれる。僅かに喜色を浮かべながら。
「新井さんが好きそうな記事がありますよ」
「どれどれ……?」
【過熱する世界ロケット大競爭 月を目指して】
「ほぅ……」
「ね、好きでしょう?」
したり顔。
――完全に好みを見透かされていた。
「そこまで明言されると、何も言えないね」
いじらしく肩を竦め、苦笑いしながら記事を読み始めた。
記事に曰く――。
昭和十四年八月現在、世界各国で巨大なロケット競争が活発化している。
米国はロバート・ゴダード博士が陣頭指揮を執り、米国航空諮問委員会監修の下、ラングレー研究所から大型ロケット、ヘルメスの発射に成功。
独逸では陸軍を中心に、アグリガツド・ロケットと呼ばれるシリーズを順次更新し続け、アメリカン・ラケーテという開発名の大型ロケットの発射実験を行っている。
開発指揮はヴァルター・ドルンベルガー、技術主任はフォン・ブラウン博士。
英国では『火災安全法』が足かせとなり、ロケット開発に後れを取っていたが、独逸での成功を受け、当該法律を改正、開発競争に加わると高らかに宣言。
もっとも、他国とは違い、技術的に難しいとされる多段式ロケットに固執していることから、未だ大型ロケットの開発には成功していない。
ソ連は、新設された研究機関、『ジェット推力研究所』のセルゲイ・コロリョフ所長を筆頭に、GIRDシリーズなるロケットの改善を重ねている。
報道が規制されており、推測でしか性能を測れない。それでも堅実な設計らしく、内実は米独を上回るとも目されている。
仏蘭西は陸軍主導でEAシリーズというロケットを開発し、米独ソに近い技術的水準にある。
一方、我が国はどうかというと、ドイツやアメリカに遅れること五年程、ようやく今年になって東京帝国大学が主導し、大型ロケットが実現できた。
【国産ロケット「カッパ一号」 秋田縣沿岸より打ち上げ成功】
中段、小さな写真付き。甲斐の筆に寄れば、他国のロケットに比べ、大分小ぶりの感がある。しかし、実験は成功らしく、高度五十キロまで上昇したという。
「なんで
「恐らくですが、ギリシャ語のカッパなのでしょう」
「……なるほど、そりゃ知らんはずだ」
そして記事は言う。
これらロケット開発競争の発端は、昭和の初め頃、米国のゴダード博士の実験を報道機関が
翻って我々の現実では、ロケットの話は偶に聞く程度である。
『ロケット飛行機』――。
未来の航空産業を支える、大きな可能性を秘めている。
火箭に始まり、英国の発明家コングリーブがロケットに夢見たように――、もしロケット飛行機が現実になれば、ニューヨーク・パリ間を一時間程度で結べる、新時代の起爆剤と目されている。
一方で、ロケットは兵器として注目される。新兵器群の一角。
つまり光学兵器、音響兵器、怪物戦車、その中の一種類に過ぎない。
――だから、これはありもしない現実なのだ。
「実は、気になっている箇所があるんです」
甲斐が、新聞の一文を指し示した。
――ゴダード博士の実験を、先進的だと褒め称えた所である。
「……どうして気になったんだ」
「現実では、ロケット競争なんて起きておりません。ということは、この新聞にある
そもそも、この記事に紹介されているロケットも、その陣頭指揮をする科学者達が、本当にいるのかも分からない。少なくとも、私はゴダートもドルンベルガーもコロリョフも、誰一人として聞いたことがない。
しかし、甲斐は知っていた。
「ゴダード博士は、この世に存在しております」
「えっ?」
「本邦の新聞でも、ゴダード博士は記事になっていたんですよ」
甲斐が言うには、昭和五年頃の日本の新聞でも、ゴダード博士が月を目指して、ロケット飛行船を完成させたと紹介されていたらしい。
随分と夢のような話があるものだと、記憶していたという。
「ですがその後、ほとんどこの博士のお話を聞かなくなったのです」
聞いたことがないというのことは、
一応、兵器に関する本の中では名前が出ることもあるそうだが、研究提言らしいものは、既に行っていないという。
――活躍をしていない。つまり、報道機関が取り上げていないのだ。
「もし、博士の言葉や提言が取り上げられ、もてはやされていれば、このようなことになったのかも知れません。ですが、名をほぼ聞かなくなったことからしますと――」
「褒められなかった、か」
甲斐は深く頷いた。
「今でこそ、ロケットのお話は偶に新聞に出てきますが、この人が夢見たような、月旅行のお話なんて、新井さんも最近、聞いたことがないでしょう」
返す返すその通りだった。
いつの頃からか、『月旅行の夢』は巷から消え、ロケットは
「この新聞の現実でも、ロケットは兵器なのかな」
「……そうとも言い切れないようです」
記事に曰く。
各国はロケット競争に掛かる、莫大な資金のため、通常の戦費支出に支障を来す領域に達し、すでに後に引けない所まで来ている。
人々の熱中と、膨大な資金が費やされた。
この現状を打破するには、たった一つしか方法はない。
――目指すは、月への一番乗り。
「月に到着しないと、誰も納得できないんでしょう。数年で月に行けるよう、まだまだ技術に投資をされるようです」
「それまでは戦争はナシ、か」
不可思議な平和。
ただ、それでも、『非常時』よりはマシだと思う。
物も無い、金も無い、いつか解決するか分からぬ事変にヤキモキするより、夜空に浮かぶ満月を目指した方が、余程
「……ありがとう、面白い話だったよ」
「どういたしまして」
甲斐は満足げにノートを閉じ、次のノートを広げた。
――これが一番の、おすすめですね。
そう言うと、ぱらぱら頁を捲り、見せたい記事を前に出した。
イラスト付き記事で、犬の銅像らしき姿が横並びに並んでいた。
【ハチ公大往生 孫と共に
「ハチ公、……大往生?」
甲斐はクスリと笑う。
「亡くなったはずの、あの忠犬ハチ公です」
勿論知っている――。ハチ公の死は大々的に報じられたからだ。
しかし、この『忠犬』というのは、些か疑わしい。
駅前の焼き鳥屋の餌目当てだったという噂も、ちらほらと聞いていた。
その実、犬に主人を思う心があるかどうかは、それこそ犬になってみなければ分からないだろう。
ハチ公は珍しく、生前に銅像が造られている。
普通、表彰する銅像は、
銅像が造られ、その翌年くらいに亡くなったはずだ。
――そのハチ公である。
かれこれ四年前に死んだはずのハチ公が、その新聞ではつい最近まで、昭和十四年まで生きていたことになっている。
「面白いのが、ここですよ」
甲斐はにっこり笑いながら、当該記事の一部を指差し、読み上げる。
「……忠犬で名を馳せた老犬ハチは、多くの人に見守られ、十余年の生涯を終えた。銅像が造られて間もなく、忠義に篤い人々の支援もあり、主人の通った東京帝国大学農学部に引き取られたハチ公は、その後、体調を崩しながらも平穏な生活を過ごし、嫁、子、孫に恵まれ、去る三月八日、老衰のため永眠した、……ですって」
「うーむ……」
現実からすると、意外な結末である。思わず顎を撫で唸る。
甲斐はその様子を見てか、嬉しそうに続ける。
「記事の最後も面白いんですよ」
渋谷のハチ公像の横に、子どもと孫犬たちの銅像が並んでいた。
「……なんだいこりゃ」
記事に曰く――。
引き取られたハチが亡くなったことを受け、渋谷駅前のハチ公像の横に、ハチ公が寂しくないように、同じく生前の嫁、子、孫の銅像が製造された。
その後、ハチ公像は一匹ではなく、家族揃って渋谷駅、先に逝ったご主人を見つめている。
「この並んでいるのが可愛いんですよ」
甲斐の描いたイラストには、ハチ公像より小ぶりな銅像が、向かって右側にいくつか並んでいた。
「中々、壮観というか、間抜けというか、言葉に困るね」
「――可愛いじゃないですか」
甲斐の押しは強い。
すごすごと同意したが、注目すべきは銅像ではなく、そうなった理由である。
「……実際のハチ公も、支援があって引き取られていたら、長生きしていたのかな」
ハチ公の生死を分けたのは、支援の有無か――。
その差は、一体何処にあったのか。何が違ったのか。
それは、この記事に限らない。
この数日間、様々な記事を見聞してきたが、『何か』が全てに共通している可能性がある。
何処かで、何かが違ったために、異なる現実になっていったとしたら――。
こっちの現実、あっちの現実。
まるで合わせ鏡。しかし映る鏡像は、全く異なる。
「鏡、……鏡、鏡か……」
腕を組み、独り言が漏れる。
程なくして、
「……この記事達は、何かを
これは異なる現実を現す、鏡――。
鏡と言えば、神話に出てくる
鏡に映るは、興味を引く姿。
興味を引く。それは異なる現実。
誘われるのは――
「そうか。この記事は、八咫鏡か」
「えっ……」
甲斐が意外そうな声を発した。
「……甲斐さん、この記事はもしかしたら、
――沈黙、深い黙考。
きっと甲斐の中で目まぐるしく、様々な記憶が飛び交っているのだろう。
苦しみの根源――。
この記事が引き出そうとしている何か。
胸に浮かぶことも、消えることも、代わりになることも。
全ては記事という鏡で、引き出そうとしているもの。
それこそが『根源』ではないか。
カチカチと時計の音だけが、いやに耳に残る。
静寂を破るように、結論を急ぐ。
「引き出そうとしているのは……」
「……お邪魔します!」
店内に響く、男の大声――。
喉から出かかった言葉は、再び胸中に沈み込む。
突然の来訪者に、私の推理は行き場を無くしてしまった――。
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