第5話 噂
「よっ! 棟梁! 独り身を楽しんでるか?」
翌々日のことである。
就業時間も終わる頃合い、渡辺が煙草を咥えながら絡んできた。
この髭面ハンサム野郎は、今日も新婚の雰囲気を漂わせている。
「
一昨日のこともあり、私の内心はグサグサと抉られながら、精一杯言葉を返す。
「まぁ、そう言うな。それより聞いたぜ、お前、誰かに
――ぎくりと、心臓が動く。
「誰から聞いたんだよ、それ」
「さぁなぁ、……でも図星だろ?」
この男は
性根は悪くないのは、一緒に働いていて分かる。
関係ない人間は問答無用に誹謗中傷するが、見知った人間の悪口は絶対言わないと言う点で、分別もある。
だから早々に降伏することになった。
「どこの女だよ。おめーが惚れたっちゅう女はよ」
きっと自分のような朴念仁に、こういった噂が出来たことが面白くてたまらないのだろう。
偶然立ち寄った本屋の未亡人――。
まるで三文小説か、一昔前のエロ・グロ・ナンセンスの題材であるが、未亡人と言う事実を伏せたまま、望月書店の名を口にした。
「――あぁ、あそこの書店の美人さんかい?」
美人という表現を聞き、内心嬉しくなった。しかし、続けざまに渡辺は首を横に振った。
「やめとけ、やめとけ。あそこはな、――
一体、何のことを言っているのか。
男が消える?
「それにお前、あの美人さんが未亡人ってのは知ってたか?」
明瞭な返事をするのも憚られたが、それで渡辺は分かったようだ。
「ふーん。だが、噂の方は知らねぇようだな」
「噂?」
どういうことかと尋ねると、渡辺は遠慮無く、悪気なく、つらつらと答える。
「――ちょいとした曰く付きよ。あの店に通った男は、代わる代わる立ち現れては、消えていくんだよ」
まるで雲を掴むような表現である。
「もっと分かりやすく言ってくれよ。もったいぶるな」
渡辺はへっと鼻で笑うと、恐ろしく端的に表現した。
「聞いた話じゃな、ここ二、三年の話だ。いい歳した男達があの書店に通い詰めては、突然ぱったりと姿を眩ますんだよ」
「ただの客だろう?」
そうじゃない――、と渡辺は断言する。
「常連なら長く通うもんだろうが。ところがどうだ、数ヶ月通ってはパッタリ来なくなる。その癖、少し期間が空いたら別の男が通い始める。そしてまたと来なくなる。コレの繰り返しだ。――十分おかしいだろう?」
その情報から導き出される推論は、聞きたくない。だが関係ない人間には遠慮がないのだ。
「何人もの男を食い物にして、ポイッと捨てる。或いは文字通り食い殺すか。
眉を
――もの凄く腹立たしくなった。
あの甲斐が、淫猥に男を咥え込んでは捨てるような、そんな訳はない。
ましてや筋モノだのと、――この馬鹿は何を言うのだ。
「……いい加減なこと言うなよ。風聞だろ?」
「そりゃそうさ。だけどな、そもそもがおかしいんだよ。未亡人と嘯いてるようだが、葬式も忌中の文字も見たことねえし、聞いたこともねぇ。それ以前に結婚したという話も眉唾らしいぜ」
祝言を挙げたことを聞いたことがない。
旦那も、そもそもどこの誰かであるかも分からない。
そしていつの間にか死んだことになっている。
――確かにおかしい。
甲斐は、私から見ても眉目秀麗な美人である。美人の周囲は婚姻の有無に関心を寄せるのは、世の常である。
にもかかわらず、式も挙げず、忌中の表示も無い。
「だからよ――、その居たはずの旦那は、いつのまにか結婚して、いつのまにか死んじまってるんだぜ。――おかしいだろう」
「誰から聞いたんだよ、それ」
「書店近所の若奥様達さ」
なんでも、書店近所の住宅のラヂオ修理に呼び出された折、世間話程度に、そういう話を複数回、聞いたという。
全てが風聞だ。
――本当かどうか分からない。
客の件は一旦脇に置いたとしても、人の良さそうな、客観的に見ても常識人に見える甲斐の、世の常識である婚姻と葬式の話が、全くない。
――
――強烈な違和感。
でも噂だけで忌避する気には全くなれない。
雨宿りに傘を貸してくれて、笑い合って話が出来る甲斐が、そんな男を取って食うような魔性の女だとは、決して信じられないのだ。
「悪いことは言わねぇ、やめておけ。ま、この噂がなけや、俺も狙ってたんだけどな」
悪い冗談だ。
――こいつこそ食えない男だ!
渡辺は灰皿に煙草をもみ消すと、小便に席を立った。
渡辺の背を見送ると、私は静かに席を立った。
――確かめなくてはいけない。
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