閑散とした車内の様子とは裏腹に、終点の大原おおはら駅は賑わっておりました。もう一つの路線と交わるからでしょうか。別の列車へ乗り換える人、街へ繰り出す人、到着を出迎える人、これから何処かへ旅立つ人。皆一様いちように目的地を見据え歩みを進めているのです。

 私たちは人混みから逃げるように駅を後にしました。逃げて避けて、何処へともなく放浪するのです。そうして辿り着いたのは、岬の突端に位置する八幡神社でありました。


 見晴らしの良い境内けいだいで、私は胸の奥深くまで息を吸い込みました。そして何処までも続く素晴らしい紺碧こんぺきへ、ゆっくりと吐き出したのです。

 夏の名残りを感じさせる晴天と、隔てるもの無く広がる大海。空と海の境界もわからぬほど、視界が青一色に染まっているのです。汽車に乗り山を越え、終点まで辿り着いてもなお続く世界があるのです。私を捕らえていたはずの山も海も、家も人も、離れてみれば矮小わいしょうなものでした。

 私は実の親に売られ、あの家に嫁いで参りました。このご時世、そう珍しいことでもありません。没落した家を救うべく一縷いちるの望みを託されたのです。自分に掛かる期待がわからぬほど愚かではないつもりですから、努めて貞淑ていしゅくに振る舞いました。耳を塞ぎたくなるような雑言ぞうごんと乱暴な仕打ちに唇を噛み耐え忍び、旦那様に尽くし続けました。

 そんな旦那様も外では嗜虐しぎゃく趣味が鳴りを潜め、稀代の人格者として慕われていたのです。連れ立つ姿を見た隣人には鴛鴦おしどり夫婦にしか見えなかったでしょう。なんて幸福な奥方なのだろうと羨む視線に、私は曖昧な笑みを返すほかありませんでした。そして家庭では衣服に隠れるところにばかり傷を付ける狡猾こうかつさに反吐へどが出るような思いがしたのです。

 私が耐え抜けばきっと事態は好転すると、そう信じて止まない日々でした。結局、私を売ったことで得た金子きんすはこれまでと同じように酒代と賭博に消え、昨夏、父は肝臓をわずらい亡くなりました。母は私が幼い頃すでに鬼籍きせきに入っており、兄も数年前に出奔しゅっぽんし行方が知れておりません。とうとう私は血の繋がった家族と守るべき家を失い、天涯孤独の身となってしまったのです。元々劣悪な家庭環境でしたが、そのか細い希望すら失ってしまったのです。

 それから一年。昨晩の出来事は偶発的ではなく、起こるべくして起こったのかもしれません。誰も彼も、私も、運命がそう定められていたのです。

「こっちよ」

 想いにふける私を彼女が優しくいざないます。

 参道とは反対側の坂道を降りると、浜辺が広がっておりました。遠目には深い青だった海も、近寄ると薄荷はっかいろきらめき、別の顔を覗かせるのです。内海うちうみ細波さざなみしか知らぬ私の耳に届くのは、轟音のような波音。外海そとうみとはなんと荒々しいのでしょう。しかし、それでも、揺れる水面も、砕ける波も、空気も、砂粒までもが輝いているのです。

 そして彼女は着物の裾が濡れるのもいとわず海に分け入り、振り返って私に手を伸ばすのです。私がその手を取るべく一歩前に進むと――。

「お嬢さん、こんな所に一人で、いったい何をしているんだい」

 偶然通りかかったであろう老人が、不思議そうな目で私のことを見つめておりました。私は行き場を失った手をぎゅっと握りしめ答えます。

「ええ、まあ、少し……観光をと思いまして」

「そうかい。別に眺めてるだけなら構いやしないけどね、遊ぶのなら海水浴場へ行ったほうが良いよ。漁港を挟んで向こう側だ」

「ご親切に、どうもありがとうございます」

 老人の背を見送り海に目を向けると、彼女は相も変わらず此方こちらに手を差し伸べていました。私と同じ顔をして、私を導くのです。鏡映しのように、そっくり同じ顔が向き合っているのです。

 最初から、たった一人の死出の旅でしかありませんでした。私が私自身をてる旅。穏やかな内海でも連なる山々でも息苦しい家でもない、見知らぬ海に死体わたしを棄てるのです。

 私が創り出した私は、よく手入れされた濡羽ぬればいろの髪に螺鈿らでんかんざしを差し、流行りの杏色を身に纏い微笑んでいました。自由で、奔放で、おのれが進む道を定め一人で何処へだって行ける。ただあるがままに生きる彼女のようになりたかった。

 死は、生きとし生けるものに平等に訪れます。人間など所詮は血と肉の詰まった袋でしかないのです。成した偉業や犯した悪行も時と共に薄れ、死してこの世に残るものなど何一つとしてありません。だからこそ、私の体に残る痣も心に刺さった棘も永久のものではないと思えるのです。

 私もまた、醜い血肉となって最期を迎えるのです。まだ暑さの残る夏の日に死に逝くのです。思うようにならなかった生涯で、最期にただ一度だけ、おのが手で選び取る。初めての決断なのです。そこに後悔などありましょうか。


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晩夏に棄てる 十余一 @0hm1t0y01

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