ネズミの住み処

 苛立ちを含めたため息が落ちた。

 

 アストリッドかヘルガか。ふたりは代わりばんこに嘆息しては、相手のため息をききながら自分もまた苛々している。


 うるさいな、やめなよ。声に出すと喧嘩になるから、ふたりとも黙りこくったままだ。


 暗い。寒い。ドブ臭い。汚い。ジメジメする。


 ひとたび愚痴を落とせばもっともっと出てくる。長靴が汚れるのはもう諦めたけれど、戦乙女ワルキューレの隊服が汚れるのはショックだった。銀色のシルクのケープ。それはアストリッドの故郷の色だ。


 なんだかちょっと懐かしい気がする。

 アストリッドはため息を吐きかけて、どうにか堪えた。ちらっとヘルガの横顔を見た。彼女もおなじ気持ちだろうか。


 エルムトに積もる雪の色。氷と雪と冬の国で生まれ育ったアストリッドだ。

 寒いのも暗いのもへっちゃらだったのに、どうしても気分が落ち込んでしまう。


 それもそのはずだ。

 エルムトではすぐ近くに感じられた月をほとんど見ていない。本土のイサヴェルを越えてケルムトに来た。砂と岩と夏の国は夜よりも昼の方が長いので、アストリッドが疲れて眠っているあいだに月は姿を消してしまうのだ。


 はやく、かえりたい。


 アストリッドは慌ててかぶりを振った。戦乙女ワルキューレらしからぬ思考なんてどうかしている。ましてやアストリッドはみんなの隊長である。前の隊長がきいたら、きっと叱られてしまうだろう。


 らしくないのはいつからだろうと、アストリッドはちょっと考えてみた。

 この三年間、アストリッドはとにかく必死だった。戦乙女ワルキューレの仲間はアストリッドとヘルガを残して壊滅した。厳しくもやさしい隊長も先輩たちも、みんな死んでしまった。

 

 目の奥が熱くなって鼻の奥がツンをする。

 アストリッドはとっさに上を見た。みんなの顔を忘れかけていることに気が付いて、もっと泣きたくなった。


 ふたたび、視線を下にする。うっかり足を滑らせたら、きっとヘルガは助けてくれるだろう。でも、代わりにたくさん失う。信用、信頼、戦乙女ワルキューレの銀のケープ。みんな台無しだ。


 不衛生な下水を歩き出して小一時間くらいは経っただろうか。

 最初は足元を這うネズミに悲鳴を出していたが、それも慣れてきた。けれどもこのひどい臭いとヘドロだけは我慢ならない。洗濯して汚れは落ちたとしてもにおいは消えてくれるだろうかと、アストリッドは不安になる。


 前のヘルガだったらそろそろ説教がはじまる頃だ。

 アストリッドよりもふたつ年上のヘルガはしっかりしている。冷静で真面目で優秀で、なによりも美人だ。


 アストリッドが隊長として戦乙女ワルキューレのみんなを導いていけるのも、ヘルガがいるから。卑屈な思考ではなく事実だと、アストリッドは思っている。もちろん、声には出さないけれど。


 ヘルガと目が合った。物言いたそうな顔をしていても、彼女はやっぱりだんまりだ。あれこれうるさく言わなくなったのも、アストリッドが隊長に任命されてからだった。ヘルガは賢いから、ちゃんと分をわきまえている。


 感謝しているの。一度も声にしたことはなくとも、たぶんヘルガには伝わっている。ヘルガはまだ無言、きっと余計な体力を使いたくないのだ。


 父さんの次に過ごした時間が長いのがヘルガならば、思考も読まれているだろう。

 じゃあ、当ててみせてよ。そう問いかけたら、答えはこう返ってくる。あの子のことでしょ?


 ヘルガはをよく知らないはずだ。話したこともなければ、会ったこともあるかどうか。

 アストリッドもレムも、の話題は極力出さない。だから知らないはず。でも、さっきまでのアストリッドはずっとロキのことを考えていて、思考を変えるために下水道への文句に切り替えた。それもたぶん、お見通しだ。


 まったく、レムといいヘルガといい、どうして人の頭のなかを勝手に読むのか。

 それだけアストリッドがわかりやすい性格をしているのだが、本人は認めていない。


 そうだ、レム。こんな暗くて寒くて臭くて汚いところにアストリッドたちが行く羽目になったのも、ぜんぶ先生のせいだ。


 また苛々しはじめたアストリッドはため息をする。

 ヘルガに肩をたたかれた。ついにお説教、ではなく目的地に着いたためだ。


 下水道の奥にはいくつかの倉庫がある。

 不衛生この上ない場所で取り引きされるものなんて決まっている。ケルムトの太守はそう馬鹿じゃないから、ネズミたちはとっくに始末されたときいた。生き残りがいるとしたら、あいつらだけだ。


 アストリッドは慎重に扉を開けた。

 中は真っ暗で見えなかったので、仕方なく電源を探した。闇に慣れていたアストリッドの目が眩む。襲ってくるなら、いま。


 ところが、すぐ身構えたアストリッドは拍子抜けした。

 パイプ机と椅子が散らかるそこは、何かの事務所のように見えた。とっくに解体された闇の取り引き場所。


 ひょっとしたらここは囮で、もっと奥に隠されているのかも。

 おっかなびっくり進み出したアストリッドは、なにかに蹴躓く。ヘルガが腕を掴んでくれなかったら子どもみたいに転んでしまうところだった。


「なに、これ……?」


 そこで、ようやくふたりはを見た。


 人間だと思う。肌の色はアストリッドたちより濃いけれど、ちゃんと服を着ているし、靴も履いている。


 けれども、人間だと認めていいものなのだろうか。

 少年くらいの背丈のものもいれば、長身で痩躯そうくのものもいる。いずれも髪は白く、老齢のおじいさんみたいな総白髪だ。


 頬は痩けて血色も悪く、そこここに横たわったまま、ずっと呻き声を出しているし、口から涎を垂らしっぱなしのものもいる。


 アストリッドたちは侵入者だ。でも、彼らはアストリッドなんか見ていないし、目も血走っている。


「これが、組織のひとたち、なの?」


 アストリッドのつぶやきに、ヘルガは答えてくれない。たぶん、彼女もわからないのだ。出っ歯の栗鼠ラタトスク。組織の人間をレムはそう呼んだ。ネズミの住み処は地下の奥深く。光の届かない不潔で暗くて寒いところが奴らの住み処。


「でも、こんなの、まるで……」

「廃人みたい、だろ?」

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