1―38 ただならぬ気配

 街並みへ夕闇が広がりつつある午後5時。後藤ごとう探偵事務所。

 果たして、霊感探偵は電話に出なかった。久我くが 憲明のりあきはスマートフォンの通話アプリの発信を切ると、メッセージだけ送信する。


 ――郁野という子供がお前に会いに来た。明日も来る。

 ――秋江さんが棚のお菓子を買い足したから、出してもよし。


 送信相手である芳川よしかわは依頼人の家に行ったそうだが、まだ仕事をしているのだろうか。後藤ごとう所長も朝からコンサルティング業務で顧客企業へ出たまま戻っていない、働き者ばかりの職場である。

 対して、この事務所のIT担当である久我くがは受託開発などデスクワークを主業務としているため、計画的に作業を進めて定時退社が基本的な働き方だった。工数割合の前月実績としては受託開発が82%を占め、残り18%は都内の家庭向けのパソコンやインターネット環境周りのサポートである。後者は事務所から依頼人宅へ出向いて対応するが、緊急性がないことがほとんどであるため残業せず翌日以降に対応できた。


 今日も計画通りタスクを終えた。事務所の戸締まりは後藤ごとう 秋江あきえに任せて帰ろう。久我くがはパソコンをシャットダウンすると、事務所奥のホワイトボードまで歩く。

 自身の名札を裏返そうと手をのばした時、ふと記憶が呼び起こされた。

 手の行き先を顎に変更し、しばし白面を見詰める。


 名札は1人1枚ずつ、所長と従業員4名分の計5枚あるが、色は白と赤の2種類ある。札には両面に従業員の名字が書いてあり、表裏で色が異なっているのだ。色の使い分けは、白が在室、赤が不在である。

 郁野いくの 美佳みかの来訪時、在室していたのは久我くが後藤ごとう 秋江あきえ。ホワイトボードの名札も久我くが後藤ごとうのみ白。残りは赤だった。


 すなわち、久我くがに直接聞くことなく名前を特定しようとした場合、ホワイトボードの状態と部屋にいる従業員の数との比較から札の色の使い分けを推測することで2人まで絞ることができた。

 しかし郁野いくの秋江あきえを見て「ゴトウさん」、こちらを見て「クガさん」と言い当てた。

 当てずっぽうで2分の1を引き当てた――いいや、違う、正確に推理したのだ。


 彼女にとってのヒントは、久我くがが「秋江あきえさん」と呼んだことだ。久我くがは、後藤ごとう 秋江あきえを所長の後藤ごとう 晃雄てるおと区別するために下の名前で呼んでいた。

 名札も後藤ごとうが2枚ある。自分が芳川よしかわを名字で、秋江あきえを名前で呼んだことから、彼女の姓が後藤ごとうだと突き止めた訳だ。


 そんな洞察を、あの一瞬でやってのけたのか。

 久我くがは感心する。

 そして、


 もしも、頭の切れる少女が芳川よしかわの霊感に興味を持ったら、何が起こるだろうか?

 万が一、無邪気にを探ろうとしたら――?


 久我くがは窓の外をにらむ。

 このありふれた茜色も、時間が経てば黒に染まる。

 光が浸食を拒もうと、闇の勢いを止められはしないのだ。


 警戒が必要かも知れない。

 ただならぬ気配が、探偵の秘部へと忍び寄っていた。

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