7-2

 講義用のピンマイクをつけたまま、駒津教授が大きなため息を吐いた。

「あらかじめ言いましたよね、君のその行為は他の学生の迷惑になると」

「ですが、これは私の意思ではどうにもなりません」

 その玲奈の声に反論したのは、すぐ隣のパイプ椅子に座った事務局の女性だった。

「そんなことあるわけないでしょ。人間はいきなり水浸しになったりはしません。もしも本当にそう主張するのなら、小学校からやり直したほうがいいと思いますよ」

「ではすぐ隣でじっと見ていたあなたには、私が水浸しになるこの現象の原因もわかったわけですよね?」

 売り言葉に買い言葉──玲奈が事務局の女性に食ってかかり、例のあの目でギロリとにらまれた女性は「……それは」と口ごもった。

「そうですよね、わかるわけないですよね! だって私自身にもわからないんですからっ!!」

 玲奈がヒステリックに叫ぶ。

 今にも荒れそうなこの状況を収拾させたのは、駒津教授だった。

「二人とも言い過ぎです。少し落ち着きなさい」

 そう言われて、立ち上がって怒鳴り返しかけていた事務局の女性が腰を落とした。

「それで──高原君、私はこうも言ったはずですよ。怪異が本当にあるかどうかを議論する気はない、とね。私には君が水浸しになる怪異の真偽など、どうでもいい。問題なのは君が今ここにいることで、迷惑を被っている学生がいることです」

 途端に玲奈の表情が固まった。どこか狂犬めいた雰囲気すら有している玲奈が、奥歯をんで言い返したいのをこらえている。

「出ていってください、高原君。君は講義を受けたい他の学生の邪魔になります」

 淡々とした駒津教授の物言いに、いても立ってもいられない様子で玲奈が立ち上がる。

「待ってください! れた服ならば、すぐ着替えて戻ってきます。私はこの講義が受けたいんです。講義を受けたい学生を拒否するのは横暴です。私には学生として、教授の講義を受ける権利があります」

 必死になって駒津教授に反論する玲奈だが、事務局の女性がしたり顔で水を差す。

「いいえ、事務局は駒津教授の主張を正当と認めます。今日は事前に教授からの注意があったにもかかわらず、汚水を教室内にまき散らしました。これは高原さんが講義中に何度も迷惑行為を繰り返している証拠だと判断し、事務局として訓告処分を言い渡します!」

 おそらくは、これを言うために講義に同席していたのだろう。ずぶ濡れとなった玲奈を前に、言い逃れはできないとばかりに事務局の女性が高らかに主張した。

 目を吊り上げて言い返そうとする玲奈だが、その言葉を制したのは駒津教授だった。

「高原君、君の学びたいという姿勢は理解しました。でも君によって今も講義は止まっていて、そして事務局としてもそれを問題視し訓告にすると主張しています。

 ──残念ながら、今日のところは退席をしてもらえますか?」

 一拍の沈黙が訪れ、それから怒りを主張していた肩を、玲奈がすとんと落とした。机の下に置いてあったトートバッグを投げやりな動作で雑に手にすると、完全に力のなくなった肩へとひっかける。

「……わかりました。それでは今日は退席します」

 駒津教授に向かって小さく頭を下げ、玲奈が階段状の教室の通路をゆっくりと上り始める。濡れた玲奈の身体からは飛沫しぶきが散り、通路際に座っていた学生たちは一様に汚いものを避けるように玲奈から距離をとった。

 最後に後部のドアを開けて玲奈が出ていって、戻ってきたドアがバタンと音を立てると、それを引き金に教室内がいっきにざわめき始めた。

「めちゃめちゃ、ざまぁって感じだよね!」

「ほんと、ほんと。わたしちょっとすっきりした!」

 湊斗の前の席に座った女子二人が、ケラケラ笑いながらそんな会話を交わす。

 他も似たり寄ったりだ。湊斗以外の、この教室にいる全ての学生が笑っていた。

「静かになさい! 私はあなたがたにおしゃべりをさせるために、高原君を退席させたわけではありません!」

 騒がしくなった学生たちを駒津教授が黙らせようとするが、教室内はちょっとした興奮状態に包まれていて、まったく静まる気配がなかった。

 ──何が、そんなにおもしろいのだろう。

 玲奈はただ真面目に講義を受けようとしていただけだ。さっきの茶番は、一人の真面目な学生がぎぬを着せられて講義から追い出されただけに過ぎない。

 ──そんなものが、こいつらはおもしろいのだろうか?

 確かに講義中に突然ずぶ濡れになるなどたちの悪い悪戯いたずらだと、講義妨害だと普通は思うだろう。だが玲奈はちゃんと主張をしている。その現象は本物の怪異なのだと、自分でも制御ができないのだと、そうしっかり言っていたはずだ。

 玲奈の言葉に噓偽りはない。

 湊斗の目から見ても、玲奈は本当のことしか言っていない。

 なのに誰もそれを信じない。

 ここには玲奈の味方など一人もおらず──だからこそ、もし仮に玲奈の味方になれる者がいたとすれば、それは湊斗だけだ。

 湊斗だけが、霊障を引き起こす玲奈に憑いた女の霊が視えている。

 湊斗だけが、霊によって理不尽に与えられる玲奈の苦悩を理解できる。

 学生たちの煩わしい笑い声が、鼻についた。

 本当のことを知らず、事実を知ろうという気もなく、笑っている連中に吐き気がした。

 玲奈へのちようしようは収まらない。どいつもこいつも、教室内に玲奈がいないのをいいことに「いい気味だ、いい気味だ」と口にし続けている。

 ──だから。

「おまえら全員うるさいんだよっ! 見えなければ何も信じられない連中が、彼女を笑ってんじゃねぇよっ!!」

 駒津教授の声ではまるで収まらなかった教室内が、即座にしーんと静まり返る。

 三〇〇人からいる学生の誰もが驚きの表情で振り向いている光景を目にし、湊斗はようやく今の一喝が自分の声だったことを理解した。

 ──どうして俺が叫んでるんだよ、と。

 ──なんで俺が怒っているんだよ、と。

 湊斗は目立たぬことを信条としているはずなのに、しかし教室内の注目を一身に浴びているこの状況に、いつのまにか立ち上がっていた足がすくんでいた。

 丸く見開かれた無数の目と目と目が、ただじーっとこっちを見ている様を前にして、湊斗の頭の中が真っ白くなる。

 うわぁと叫びたくなる衝動を抑え、湊斗は自分の机の上のテキストをバッグに放り込むと、そのままだつの勢いで教室の外へと飛び出した。

 湊斗は呼吸をするのも忘れて廊下をひた走り、突き当たりにまで辿たどり着いたところで足がもつれて無様に転んだ。慌てて振り向いて、誰も追いかけてきていないことを確認すると、湊斗は壁に背をもたれさせながらその場に座り込む。

 玲奈は──いつもあんな視線の中に身を置いているのか?

 見えなければ何も信じられない連中が──なんてかつなことを口走ったときの連中の目は、異物を見る目だった。いきなりのことで驚いていたこともあるのだろうが、それでも理解のできないものを気持ち悪いと感じて拒絶する目だった。

「……やっぱり、俺には無理だよ」

 自然と声が出た。たった一度あんな目を向けられただけで、湊斗は声すら失って逃げ出した。だからどんな視線にさらされても胸を張り続ける玲奈の真似はとても自分にはできないと、そう感じた。

 真横にくずおれそうになった身体を、湊斗は床に手を突いて支える。

 と、ふと手に冷たさを感じて気がついた。

 湊斗が座ったすぐ近くの床に、小さな水たまりがあった。その水たまりは突き当たって曲がった廊下のさらにその先にある、校舎の出口に向かって点々と続いている。今日の天気は雨じゃない。これはきっとびしょ濡れになった玲奈の身体から滴った、水の跡だろう。

 ──玲奈と、話をしてみたい。

 ふと湧き上がったその感覚が、湊斗の中で瞬く間に大きく膨れ上がっていく。

 どれほどのい陰口をたたかれようが、悪意と敵意が混じった目線を向けられようと、まったく揺るがずひるまずに玲奈は教室内を堂々とかつしている。

 認めよう──自分と違って他人におくさず、引け目も感じず、胸を張り続ける玲奈に、湊斗は強くあこがれていた。

 まだ力の入らない足で、湊斗は無理やり立ち上がる。そして床に滴った水がまだ乾いていないのを確認すると、その跡を追って歩き出した。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


■この続きは、書籍版『彼女の隣で、今夜も死人の夢を見る』(角川文庫刊)にてぜひお楽しみください!



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女の隣で、今夜も死人の夢を見る 竹林七草/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ