3-2

「前の席ね。……あぁ、もちろんどうぞ」

「そう。ありがとう」

 空いている教卓の真ん前の席を湊斗が手で示し、彼女が椅子に腰掛けたその瞬間──ガタガタガタッと、湊斗を除いた周りの学生たちが固定式の椅子の上でお尻を滑らせて、一様に彼女から距離をとった。

 今の今まで普通に座っていた学生たちが肩を寄せ合って離れたために、彼女を中心とした周りにちょっとした空間ができあがっていた。

 湊斗が「……なんだ、いきなり」と内心で動揺していると、

「あなたは、移動しなくていいの?」

 前の席の彼女がいつのまにか振り向いていて、物憂げな目で湊斗に話しかけてきた。

 まるで沈む舟に取り残されたような雰囲気に、湊斗は意味がわからず周囲を見回すが、やはり教卓前付近以外には空いている席はない。

 できるものなら、湊斗もこんなヤバそうな霊を憑けた女子とは距離をとりたいのだが、

「……他は座れそうにもないから、ここでいいよ」

「そう。だったら、私ともっと離れたほうがいいんじゃない。後から文句を言われるのはごめんだわ」

 最後に「忠告したからね」と意味のわからない台詞せりふを言い残し、彼女が再び前へと向き直った。

 湊斗はさっぱり状況がみ込めない。彼女の言葉の意味も理解できなければ、距離をとる周囲の連中の行動もまったくもって意味不明だった。

 単純に──自分の前に座るツンケンしたこの女子が嫌われている?

 それは往々にしてある気はする。彼女は美人だが、なんだかやたらととげとげしい。周りがれ物のように扱うのもわかる話だ。

 でもそれだけが理由では、遠巻きで彼女を見ている連中の目つきが妙だった。周りの連中の目からみ取れる感情は、どちらかと言うと恐怖だ。大なり小なりあれども、みんな彼女に対しておびえているように感じられたのだ。

 一瞬、自分以外にも彼女が背負った女の霊が視えているのかとも思ったが、湊斗はすぐに思い直した。もし本当にそうならこの程度の怯えかたのはずがない。

 彼女が背負った女の霊は、厚手のセーターにロングスカートというちをしている。顔色が青いと表現したものの、セーターの襟からのぞく首筋も、そでから突き出た手の色も同じで、おまけに頭のてっぺんから足先まで全身がれている。おそらく冬の海か川にでも落ちて亡くなったできたい──湊斗の目には、そうとしか視えなかった。

 ゆえにもしもこんなモノが本当に他の学生にも視えていれば、もっともっとパニックになっているだろう。少なくとも距離を置いて周りを取り囲みながら様子をうかがう、なんて状況ですむはずがない。

 だったらどうして──と、湊斗が疑念を抱いていたら、ガチャリと大教室の教壇側のドアが開き、渋めの茶色いジャケットを着た初老手前の男性が入ってきた。

 中肉中背の体格で、頭には白いものがかすかに混じり、神経質そうな銀縁の眼鏡がなんとも印象的だった。

「えー、みなさんはじめまして。比較文化人類学の講義を担当するこまと申します」

 と、神経質そうな印象とは裏腹な穏やかな声で、駒津と名乗った教授が満員の大教室の学生たちに向かってあいさつをする。

 教室のヒソヒソ話はすぐにやみ、人気講義にふさわしいりゆうちような弁での教授の講義が始まった。

 履修選択期間中にふさわしく比較文化人類学とは何かを、そもそも比較をする前の文化人類学とは何かを駒津教授が語っていると──ピチョンと、一滴ばかりの水が床に滴る音が耳に届き、湊斗は急にはっとなった。

 というか教授の声が教室内に響き渡っている中で、そんな微かな音が聞こえようはずもない。これはきっとだと悟った直後、うっかり上がりそうになった「うわっ」という驚きの声を湊斗は必死で押し殺した。

 前の席に座った彼女の背中に張りつく溺死体の霊が、空に向かってもがいていた。

 大教室の天井──いや、おそらくその先にある天に向かって右手を差しのばしながら、溺死体の霊が自身の胸を左手で必死にむしっている。その顔はさっきまでの無表情とまるで違い、もんに満ちてゆがみきっていた。

『あぁ、ああああああああっ!!』

 湊斗の耳にしか聞こえていない断末魔の声とともに、突き出した右手の中指がピンと伸びきった瞬間、ザバーンと激しい水音が教室内に響き渡った。

 今度の水音はどうも現実の音だったらしく、講義をしていた教授の声も止まる。

 床に広がっていく水たまりが、スニーカーを履いた湊斗の足元にまで届いた。

 あまりのことに湊斗は声も出なかった。声も出ないほどに、きようがくしていた。

 私ともっと離れたほうがいいんじゃない、と言っていた前の席の彼女が、まるで頭からバケツの水をひっかぶったかのようにずぶ濡れになっていたのだ。

 教室内の時間が静止する。動いているのは前の席の彼女の髪から机の上へと垂れる、水滴だけだ。いきなり濡れた彼女自身もまた、ペンを握ったまま硬直している。

 一拍以上の間を十分に置いてから、彼女の周囲を取り巻いた誰かが「ひぃ」という短い悲鳴を上げた。

 それが引き金だった。同時に周りの誰もが自分の荷物を抱えて、いっせいに濡れた彼女との距離を広げようとする。

 彼女を中心とした教壇付近の学生たちが混乱をする中、さすがというか駒津教授はすぐに冷静さを取りもどして最前席である彼女の前につかつかと歩み寄った。

「高原玲奈さんですね? 君の噂は聞いています」

「何の噂かは知りませんが、確かに私は高原玲奈です」

「──なるほど」

 高原玲奈と呼んだ女子の顔を感慨深そうに眺めてから、駒津教授はほんの少しだけ含みのある笑いを浮かべた。

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