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湊斗がどれだけ一人がいいと感じていても、現代の日本に生まれたからには一人で生きていくことは実質的に不可能だ。だが将来的にはなるべく人と交わらずに生活できるような職に就く選択肢を増やすためにも、湊斗はしっかりと大学卒業のための単位を取っていく必要があると考えていた。
ようやく首と脇腹の痛みも落ち着いた湊斗は、無人のままのトイレの洗面台で口をゆすいだ。
鏡を見れば、ひどい顔だった。やや長めに揃えた前髪は脂汗で額に張りつき、朝にはなかったクマがうっすらと目の下に浮かび上がっている。もともと白めの肌は、血の気が引いているようでなおのこと白くなっていた。
とりあえず顔を洗い、前髪を整える。黒のスリムジーンズの
ため息とも深呼吸ともとれる大きな呼吸を何度も繰り返してから、湊斗はようやくトイレを出た。
二限の時間帯は既に終わっていて、早くも昼休みは半分以上が過ぎている。
よって湊斗が上代文学の講義が行われていた教室に戻ったときには誰もおらず、教室の角席には開いたままの湊斗のノートとテキストが捨て置かれていた。親切心を起こした誰かが回収してくれて事務局に届けられたりしても困るが、何も手つかずで放置されているのもこれはこれで切ない。
湊斗は人付き合いをしたくないし、目立ちたくもないのだが、しかし他人から無視をされたかったり、いないものとして扱われたいわけでもない。
一人がいいとは思っていても、それでも厄介なことに寂しさは感じてしまう。
我ながら面倒な性格だよな、と湊斗自身も思ってはいた。
とりあえず机の上の荷物を、愛用のバックパックに放り入れて教室を出る。
三限の講義が始まるまではまだ時間があった。食堂は無理でも、購買で売っているパンぐらいなら食べる時間はあるだろう。
だがしこたまトイレで戻したこともあって、今の湊斗は食欲がなかった。むしろ油断すると腹からこぼれ出た腸の感覚を思い出してしまい、また吐き気がぶり返しそうになるぐらいだ。
だから湊斗は校舎を出ると食堂と購買の前を素通りして、キャンパスの対角線上にある大教室棟へと急いだ。
履修を検討している次の比較文化人類学は、二限で受けた上代文学と違って人気の講義だ。そのため開かれるのは室内が階段状になっている、大教室という名の講堂となる。
まだ講義開始までには時間があるが、履修予定の学生が多いこともあって、湊斗が大教室に入ったときにはもう三〇〇人から入れる部屋の席はほぼ埋まっていた。
当然ながら湊斗が狙う最後尾の角席など空いているはずもなく、それどころか階段状の室内の最上段から見渡せば、空席があるのは広い教室内でもはや一角だけだ。
「……噓だろ」
そこは湊斗がもっとも苦手な、教卓のすぐ前の区画だった。
このまま回れ右をして教室から出て行きたい誘惑に駆られるが、そこはなんとか踏みとどまり、雑談する学生たちで埋まっている机と机の間の通路を下りていく。
途中で妙な霊を
ほんの
一番前じゃないだけマシだと思おうとするも、座った瞬間に背中にざわめきを感じてそんな考えは一瞬で吹き飛んだ。
背後から大勢の声が聞こえるこの状態は、湊斗はやっぱり苦手だ。まずどんな奴が後ろにいるのかわからないのが不安になる。さっき視た限りでは、この席の周りに霊に憑かれた学生はいなかった。しかし二限のときのように遅刻してきて席と席の隙間に無理やり誰かが座るかもしれない。そしてそいつが、さっきの女子のようにとんでもない霊を憑けているかもしれない。
そう考えただけで振り向いて確認したくなってしまうが、当然それをすれば後ろの席の人間と目が合って「なんだ?」と不審に思われてしまうし、背中に目がない以上は前に向き直ればまた後ろが気になってしまう。
さらには背後の学生たちの視界に常に自分が入っている、というのも前の席が苦手な理由の一つだ。自業自得というか因果応報というか、憑いている霊がいないかチラチラと他人を盗み見ることが多いため、湊斗は自分がおかしく見られていないか常に人の目が気になってしまう。
もしかしたら自分の霊感体質のことはバレていて、背後では陰口をたたかれて後ろ指をさされているんじゃないのか? ──そんな疑念が湊斗の胸の中で渦巻き始めてしまう。
しかし、この席に座るのは今日だけだ。上代文学は履修しないことに決めたので、次からは廊下で昼休み前から待機しておいて最後列の席に陣取ればいい。
そう自分に言い聞かせて堪えていると──教室内の雰囲気が一転した。
まずガヤガヤとしていた談笑の声がぴたりと止まった。まだ教授は入ってきていないのに、教室中が水を打ったようにしーんとなる。
コツン、コツンという音が教室の後ろの方から聞こえた。それは誰かが教室の中央の通路を教壇側に向かって下りてくる足音で、それだけのことのはずなのに、湊斗は背筋にぞわりとした
「……やだぁ、
「私さぁ、今年の選択の単位足りてないんだよね。……この講義、どうしよ」
僅かに教室内のざわめきが戻ってきて、あちらこちらでヒソヒソとした声が行き交う。
「っていうかさ、あの変な噂って本当なの?」
「あぁ、聞いた聞いた。どうも本当のことらしいよ、一〇年間も行方不明だったって噂。やっぱり──〝神隠しから帰ってきた女〟、なんだよ」
──神隠しから、帰ってきた女?
その不穏な言い回しを耳にした途端、座っている湊斗の横に人が立った。
恐る恐るといった感じでちらりと横を盗み見た瞬間、湊斗はギョッとしてしまう。
そこに立っていたのは女子だった。しかもとびきり
だが湊斗が驚いたのは、彼女が目の覚めるような美人だったからではない。
むしろ湊斗の目線は整った彼女の顔のすぐ隣、左の肩へと向いていた。もっと正確に言えば肩ですらない。彼女の肩の上に顎を乗せた──もう一つの女の顔を視ていた。
まるで群青の塗料を塗りたくったような、真っ青な顔色。毛束になった前髪は額に張りつき、シャギーの入った横髪も頰にべったり張りついている。目はどこまでも
歳の頃としてはおそらく三〇歳ぐらいだろうか──それは間違いなく死者のかんばせで、つまり湊斗の横に立つこの女子にべったりと憑いている霊だった。
「ねぇ、前いい?」
あまりに幽霊然とした霊の形相に気をとられていた湊斗が、はっと我に返る。
「──えっ? 前?」
「そうよ。あなたの前の席に座ってもいいかって、そう
湊斗の視界の中だけで二つ並ぶ顔のうち、血色が良くてより整った側の顔が角度のきつい
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